小学五年生の終わり頃、バレンタインの悲喜 その5
教室でランドセルをとって、隣のクラスに行くと、お目当ての人の姿はなかった。
環は既に帰ったという。
怜はランドセルから出して手に持っていた紙袋を見つめた。
――明日でもいいか……。
一瞬考えたが、今日のことを明日に伸ばすのは気が進まないし、第一、礼儀にもとる。
とすると、怜がすべきことは一つだった。そう、覚悟を決めることである。環の家がどこにあるのかは知っている。明日に伸ばしたくなければ、家まで届けに行けば良い。怜は息を吸い込んで、吐きだした。義理チョコのお返し――しかも手作りクッキー――をわざわざ家まで届けに行くのはどうにもバカげているように思えるが、やむをえないだろう。人生が舞台だとしたら、どいつもこいつも役者であり、おそらく怜の役回りは道化なのだ。せめて一般人の役が欲しい。
怜は生徒用玄関で下靴に履き替えた。
筋書きはこうだ。
まずピンポンを押す。母親の声が応答する。怜はどもりがちに姓名を伝える。すると、怪訝そうな顔をした少女が現れる。「どうしたの、加藤くん?」 怜は彼女に無言でクッキーを押しつけると、一言も話さず、ダッシュでそこを去る。
なかなか良いシナリオである。あんまりパンチは効いてないが、まあまあのバカらしさ。
校門前まで歩いたとき、そういう喜劇を演じずに済むことが分かり、怜は心底ほっとした。
「今日、何の日か知ってる? 加藤くん」
川名環は春の陽の下に立っていた。
いたずらな色を含む瞳が怜を見ている。
その目に促されるかたちで、怜は紙袋を手渡した。
環は袋の中から透明な包みを取り出すと、小さく歓声を上げた。
「一枚、食べてもいい?」
「ここで?」
怜は辺りを見回した。ランドセル姿の少年少女たちがじろじろと無遠慮な視線を向けてきている。戸惑う怜をしり目に、環は包みの口を縛っていたリボンをイソイソとひもといた。抹茶色のクッキーを一枚パクリ。少しして、その口元から感嘆の吐息がもれた。
「参りました」
「変な感想だな」
「これ手作りでしょ。わたしが作ったのよりずっとおいしい」
「クッキー歴何年? 初めて作ったオレよりマズいならもう諦めた方がいいな。才能無いよ」
環は、そうする、と言って笑うと、
「加藤くんの家ってどっち?」
クッキーの袋を手提げカバンに入れながら言った。
怜は家まで送っていく旨、申し出た。
「あら、催促してるように聞こえた?」
しゃあしゃあと言ってのける少女。今日びの女の子に淑やかさを要求するのはムリ。十年、妹と付き合ったおかげで得た貴重な教訓である。
「ランドセルを持てとは言わないよな」
怜は環の手提げを取ると歩き始めた。隣に環が並ぶ。二人の脇を低学年の男の子たちが、学校が終わったことに対する歓喜の声を目いっぱい上げながら、走り抜けて行った。
「お返しはたくさんもらえたか?」
怜が訊く。右手に持った彼女の手提げにずっしりとした重みがある。
「友だちとね、どっちが多くもらえるか勝負してたの。勝てたみたい」
「その友だちからはチョコもらわなかったなあ」
「スズちゃんはクラスの男子にしかあげてないもの」
「川名は全クラスの男子にあげたんだろ。公平じゃない勝負だな」
通学路沿いの家々にちらほらと梅の木があって清楚な花をつけている。
一本の梅の木の前でふと足を止める環の隣に怜は立った。
紅梅を見上げる少女の黒髪からも花のような香りが漂ってきた。
「わたし、梅の方が好きだな」
「オレは桃」
環はすこし目を細めるようにした。
「ずるい。今は桜か梅かって話でしょう?」
「いつそんなことに?」
「普通に考えればそうなんです」
「じゃ、オレも梅」
「本当?」
怜はうなずいた。
途端に環は余裕のある笑みを浮かべてみせた。
「じゃあ、わたしは桃ね」
怜は胸のあたりがすっと軽くなるのを覚えていた。不思議な感覚だった。人と一緒にいると圧迫感を感じるのが常であるのに、環と一緒だとそれがまるでないのだった。ばかりか、心安らぐような気持ちさえ覚えるのである。いつかどこかで知り合っていたことがあるような、なつかしい感覚。
春の空は透けるような青だった。
その青さから清々とした光が降って、行く道を優しく照らしている。
「もしかしたらね、忘れてるかもと思ってた」
歩き出しながら環が言った。
怜は首を傾げた。
「別にオレから貰えなくても関係ないだろ。川名の圧勝だろうし」
「そういう問題じゃないわ」
やや強い声。
ちょっと驚いた怜が隣を見ると、環は手で横顔を隠すようにしていた。
怜は礼儀正しく、顔を前に向けた。
「朝行ったときは、二組の教室がスゴイことになってたからやめたんだよ。お昼に行こうとしたら、クラスでちょっと問題が起こって、出られる雰囲気じゃなかったんだ。放課後すぐに出ようとしたら、人に呼び止められるし」
環は顔から手を放した。
「で、二組に行ったけど、川名はもういなかったんで――」
「もしかして……?」
「家まで行くところだった。クッキー届けに」
環は胸元で両手を合わせると、がっかりしたようにため息をついた。
「はやまっちゃったな。帰って家で待ってれば良かったんだ」
「冗談言うなよ」
「だって、そうしたらさ、『わざわざ、ありがとう、加藤くん。じゃあ、クッキーをお茶うけに、お茶でも飲みましょ?』っていうことになったでしょ?」
「どうかな。『そんなもの要りませんわ、お持ち帰りあそばせ』って感じで門前払いをくらったかもしれない」
「あら、わたしってそういうイメージ?」
「イメージは。でも、今実際に話してみて違ってたことが分かった」
「よかった」
「いい方に変わったとは言ってないけど」
「じゃあ、そのお話はおしまいにして」
横断歩道が見えた。ジャージ姿の中学生や乳母車を押したお父さんの後ろで青信号を待つ。信号が変わったのを見た怜は、左右を確認してから隣に手を差し出した。ほっそりとした手が重ねられるのを感じた怜は、その手をしっかりと握って歩き出した。自分が何を間違えたのか、ということに気がついたのが、横断歩道の半ばだった。ハッとして横を見ると、少女の微笑。横断歩道の途中で止まるわけにもいかないので、怜はそのまま歩き続けた。
渡り終えたところで、怜は手を放した。
「学校の行事以外で男の子と手をつないだの初めてだな」
楽しげな環の声。
怜は慌てて口を開こうとしたが、
「もし、ちっちゃな子の手を取ってあげるのと同じような感覚だった、とか言われたら泣くかも。うん、泣くね、多分」
先手を打たれた。
返す言葉がなくなりきまり悪い思いから、怜の足が思わず速くなった。十歩ほど歩いたところで、「ストップ」と声がかかる。その毅然とした声色に、怜は足を止めた。環が横から覗き込むようにしてきた。じいっと自分を見つめる夜色の瞳から怜は目を逸らした。
「なんだよ。まだ言いたいことが?」
「なんにも。ただ、折角だからゆっくり歩きましょ」
住宅街に入った。
閑静な空気に時折、軽やかに鶯の歌声が響いた。
環の家はもう少しのところである。
「だからね」
念を押すようにする彼女に、怜は訊いてみた。
「本命の子からお返しはあったのか?」
「何のこと?」
と答えた声は少し震えているようである。
環が五年生の男子全員にチョコをばらまいたことの怜なりの解釈。もちろんそれが、ホワイトデーの三倍返しを純粋(?)に狙っていたり、友だちとのゲームのための下準備だったり、という可能性を抜きにしてのことである。
「お返しがあれば、自分のことを気にかけてるってことになるだろ。それを確認してから気持ちを伝える、とか」
「……ありがとう、ワトソン君。でも、どうして五年生全員に配る必要があったの?」
「本命以外はみんなカモフラージュだろ。何人かに限定して配ると、その中に好きなヤツがいることがバレる」
ちょっとの間、唇を結んでいた環は、
「もしかしてさっきの仕返しですか?」
舌先に鋭さを乗せた。
「まさか。いわゆる好奇心ってヤツだよ」
「好奇心? わたしに? へー、ホント」
怜は大げさにうなずくと、ホワイトデーのお返しからカレシを選ぶという噂が立っていることを教えてやった。
環は驚いた顔をした。
「そんなことになってるの? 全然知らなかった」
「そのせいで、お前、嫌われたぞ。女子から」
怜の頭に沙里奈の顔が浮かんだ。おそらく彼女と同じ思いを味わった女の子は他にもいることだろう。
「みんなに好かれようとは思わないわ」
答えた環の声には迷いのカケラも無かった。
「昔はそうしようと思ってた。でも、それをやめたらね、大切なものが手に入ったの」
少女の白い頬にうっすらと赤みが差した。
「本当の友だちと……あと、コレを」
環は胸に手を当てた。
「何て呼べばいいか分からない。名前のつけられない……今はまだつけたくない何か。ここにコレがあることを感じられる間は、わたしは何を敵に回しても構わない」
可憐な容姿に似つかわしくない張りのある声が、空気を心地よく震わせた。
環は少しはにかんだような笑みを見せて、桜色の唇から白い歯をのぞかせた。
「でも、来年はやめるわ」
「本命チョコ一つにしぼる?」
「わたしに勇気があって、時が許せばね」
環の家に着いた。
彼女は真正面から、怜を見ると、
「わたしね、親しい友だちには、タマキって呼ばれてるんだ」
いきなり言って、目をしばたたいた。
怜は首を横に振った。
「どうして?」と環。
「そこまで親しくない」
「手をつないだ」
「アレは――」
と言いかけたとき、環が伏せた顔を両手で覆う振りをしたので、怜は言葉を止めた。代わりに、
「タマキ」
と一声かけた。驚いて顔を上げた彼女の前に怜は手提げ袋を差し出した。それを取らせたあと、くるりと背を向けて歩きだす。「ズル!」と批難の声が上がったが、怜は振り返らなかった。これ以上留まると何を要求されるか分かったものではない。
「レイくん」
とはいえ、これには足を止めざるを得なくて、つまりは彼女の方が一枚上手だということである。
地を打つ足音。振り返ると、すぐ近くに環がいて、期待するような目で怜を見ていた。
「そう呼んでもいいかな?」
「やめてくれ。目立ってしょうがない」
「目立つからダメ?」
「そう」
「じゃあ、目立たないところならいいの?」
どう返しても、さらに切り返されそうな気がして、怜は諦めた。諦めが良いのは美徳であると怜は信じている。好きにするように言うと、環はにっこりとむやみに綺麗な笑みを見せた。
「今日はありがとう。来年、同じクラスになれるといいね」
怜の記憶に間違いがなければ、環とはまだ一度も同じクラスになっていない。とすると、可能性は濃厚である。怜は彼女の希望に同意して礼儀正しさを見せたが、どうやらわざとらしかったらしい。じとーっとこちらを見る少女の目。逃れるように、身をひるがえした怜に、
「レイくん」
かかる澄んだ声。
振り返った怜に、
「さっそく呼んでみたの」
微笑する環。
怜が背を向けると、後ろから、「またね」という声がかかったが、しかし、もう振り返らなかった。後ろを見なくても、ずっと見送ってくれている少女の存在を確かに感じる気がした。
環の家から離れ一人になると、不思議なことに、ひとりになれた解放感を感じても良さそうなところ、どこか違和感を感じて、その感じはしばらく消えなかった。
(『小学五年生の終わり頃、バレンタインの悲喜』了)