小学五年生の終わり頃、バレンタインの悲喜 その4
栗城少年の恋路には障害が立ちはだかったようである。
彼には何十名かのライバルがおり、それだけでもそもそも厳しい戦であるところ、どうやらそれ以前の話になったらしい。
昼休み。
四時限分の授業を終え給食を取ったあと、怜が、「いざ、三倍返しを!」と、ロッカーに向かったところだった。
「無いいいいぃぃぃぃ!」
突如、響く絶叫。
集まった視線の中心で、進が自分の机の中を一生懸命ゴソゴソしていた。彼の机はどこかの異空間にでもつながっているのか、恐ろしい量のプリント類を吐きだした。進はそれらの紙の束を手で探った。何かを探しているような様子である。やがて彼は絶望の吐息をもらすと、無造作にプリントをまとめ、クラスのゴミ箱に捨てにいった。ゴミ箱のキャパは一杯になった。
もう一度机の中を確かめた進は、がっくりと椅子に腰を下ろした。
怜の小学校では担任教師も一緒になって教室で給食を取る。四十代前半のやせぎすの女性担任は、見かねたように進の前に現れた。「どうしたの、栗城くん?」
進は暗い目を上げた。
「ストラップがないんです。四つ葉のクローバーの形の飾りがついた」
担任は慰めの声をかける前に、
「貴重なものは学校に持ってきちゃいけないって決まりは知ってるわね?」
と責めるようなことを言って、ますます進の顔を暗くさせた。
「なくなったのはいつ?」
「三時限目までは確かにありました」
「分かりました。みんなが給食を食べ終わったら、教室の中と周りを探してみましょう」
それが彼のプレゼントなのか。戦いに行く前に武器を失う格好になった栗城少年。怜は、そんな彼に同情はしても、大した興味があるわけでもない。とはいえ、さすがにクラスメートの物がなくなった直後に、怪しげな紙袋をもってそそくさと教室を出るわけにもいかず、仕方なく机についた。環へのお返しタイムは放課後にでも持ち越すしかなさそうだ。
給食が終わったあと、三十名で教室の床と廊下、ベランダをくまなく探してみたが、ついにストラップは出て来なかった。
そのまま五時限目に突入。折良くというべきか、五時限目の授業は「総合」だった。「総合」というのは怜の定義によると、クラス内の雑務を片づける時間だった。雑務がなければ無理矢理雑務を見つけ出す時間でもある。
「これから持ちもの検査をします」
教卓から断固とした声が上がり、それに合わせて生徒たちの嘆きの声が落ちた。
「栗城くんの貴重品がなくなりました。今教室の中と周りを探してみたわけだけど出てきません。とすると、盗まれた可能性もあります。先生は皆のことを疑ってるわけじゃありませんが――」
しかし為すべきことは徹底して為さなければならないのだ、と担任は続けた。
教室内を探したと言っても、生徒それぞれのプライベート空間、すなわちロッカーと机の中は捜索範囲外になっていた。
「……あの、先生、そこまでしなくても……」
クラスメートから怨嗟の念を受けたくないのだろう、進がおそるおそる手を上げたが、
「栗城くん。そもそもはあなたが学校に貴重なものを持ってきたのが良くありません。でも、盗んだ人がいるとしたら、その人の方がもっと悪いんです。見過ごすことはできません」
ことは進一人の話ではないのだ、と言って担任は退けた。
そうして、机の中の捜索が始まった。
一人一人机の中にあるものを机の上に出して、それを担任が税関職員のような目で注視する。
ローティーン向け雑誌、トレーディングカードなど。
たまにちょこちょこと違法なブツが出てきたが、なくなったものは出てこなかった。別件だったので、それらのブツは取り上げられることはなかったが、代わりに持ち主には明日までに反省文の提出が義務付けられた。
ギン、という恨みのこもった視線のビームに進の体は貫かれた。
次にロッカーになった。
生徒の自己申告を待たず、担任が自ら入念にチェックしていたので、この時点で五時限目は半ばを過ぎていた。これからロッカーを調べれば、それでこの時間は終わりである。今日は五時限で授業が終わる。掃除とホームルームを済ませたあと、二組の前で環が出てくるのを待って渡そう、と怜は予定した。
「加藤くん、それは?」
怜はランドセルの中から取り出した紙袋の中身を見せた。透明の包みに包装された抹茶色のクッキーである。
「おいしそうね」
三時のおやつに捧げられそうな雰囲気だったので、怜は素早くクッキーを隠した。捧げものがなくなった進の二の舞はゴメンである。
「ホワイトデーのプレゼントだから大目にみたいけど……」
けど諦めてくれ、という趣旨だった。
先ほど机の中から娯楽グッズを出した連中と同様、怜にも反省文の提出が義務付けられた。
怜は進から手を合わせられた。
怜と同様、放課後にバレンタインの借りを返そうと思っていた男子が何人かいて、それぞれ担任の物欲しげな目から、自らの愛の証を守っていた。
「先生にくれるなら反省文を免除してあげてもいいわよ」
担任のつまらないジョークには誰も笑わなかった。
五時限目もあと十分というところになって、ざわめきが湧いた。
幸運を表す四つ葉のクローバー。それをペンダントにしたストラップがとうとう姿を現した。
「栗城くん、探し物はそれ?」
進はうなずいた。喜びに輝いても良いその顔は憂いに曇っている。
それもそのはず。
出てきた場所がクラスメートのランドセルの中、それもよりによって、喧嘩友達である隣の席の少女、大沢沙里奈のランドセルの中だったのだから。
どういうことなのかと、発言をうながす担任の声に、沙里奈は無言だった。彼女は、クラスメートの遠慮ない注視の中、少し目線を下げるようにしている。誰も一言も話さない。沙里奈と進の仲はみな知る所であって、よほど意外だったのだろう。カチコチ、カチコチ。室内の静寂は、壁にかけられた時計の針の音さえ聞こえそうなほどであった。
「黙ってちゃ分からないわ、大沢さん。あなたがやったの? やってないの?」
沙里奈は答えない。
面倒なことになってきた、と怜は思った。五時限目は残すところ五分である。あと五分で問題が解決しない場合どうなるか。チャイムと同時に閉会ということになれば良いが、そんなわけにはいかないだろう。沙里奈が何らかの応答をするまで、五時限目が延長されるに違いない。延長されると、その分次の掃除の時間、さらにホームルームの時間がずれて、他のクラスよりも遅く帰ることになる。そうなると、環を捕まえられなくなる。非常にうまくない。
残り二分まで待って、怜は声を上げた。
「先生。盗んだモノを自分のランドセルに入れておくバカはいないんじゃないですか」
盗んだモノをランドセルに隠しておくなんてことをまともに考えてるあんたもバカなんじゃないか、という意が暗に込められてしまったが、それは仕方ない。現在、三月の中旬。どうせもう少しで学年が上がりクラスも変わることであるし、担任に悪感情を持たれても構わないだろう、と怜は思った。
案の定、担任は嫌なものでも見るような目つきをしたが、すぐに教師の顔に戻って生徒の意見を公平に取り入れる振りをした。
「そうね、確かに、誰かが大沢さんを陥れようとしてこんなことをしたかもしれないわね。大沢さんは栗城くんと仲が良いし、こんなことをするとも思えない。先生は大沢さんを信じているし。ただ、そうすると今度は誰がそんなことをしたのか、ということになります。人を陥れようとする子が先生のクラスにいるとは思いたくないわ」
その問題に対するに、教師歴二十年のキャリアが弾き出した答えは、次の「総合」の時間までにクラスメートのことをどう思っているのか、ひとりひとりが書いてくるというものだった。げー、といううんざりした声が昇り、教室の天井を打った。まことにアホらしい上に、それがどういう風にこの件の解決になるのか怜にもさっぱり分からなかったが、とりあえず事件は一応の終結を得た。五時限目の終わりを告げるチャイムが響いた。
これでよし。掃除と帰りのホームルームを終え、怜が、教室を出ようとしたときのことだった。
「加藤くん」
声をかけてきたのは沙里奈である。何の用があるのか、少し時間が欲しいという。
「悪いけど、忙しい」
怜は断った。環のところに行かなければいけない。
「すぐに済むから。お願い」
沙里奈の瞳には真剣な色があって、訪問販売のセールスレディを断るような訳にはいかなかった。怜はしぶしぶ、沙里奈の後についていった。校舎と校舎の間の渡り廊下のようなところに連れて来られた怜は少し体を震わせるようにした。春風には、しかし、まだ冬の名残があるようだった。
沙里奈は軽く頭を下げた。
「さっきはかばってくれてありがとう」
怜は用件を話すように促した。もし礼を言うことだけが用件だというなら、別にかばったわけではないので気にしてもらう必要はない。そう言ってやると、
「わたしなの」
と一言。
「何が?」
「わたしが盗んだのよ」
沙里奈がはっきりと言った。
反応を待つように紗里奈が間を開けたが、怜は何の反応もしようもなかった。彼女が犯人であってもなくても、そんなことに興味は無かった。
怜が、それで、と先を促すと、
「だってさ、ススムが川名さんにプレゼントしたって脈無いもん。絶対ムリでしょ。可能性が無いことをさせたくないっていう友情……って言ったら、信じる?」
沙里奈は口早に続けた。
「信じろって言うなら信じるよ。もういいか?」
「加藤くんも川名さんにあげるんでしょ?」
怜はうなずいた。今すぐにでもそうしたい気分である。
「知ってる? 川名さんって五年生の男子全員にチョコあげたんだよ。ホワイトデーのお返しでカレシを選ぶらしいっていうウワサ。ふざけてると思わない?」
前半は本人の口から聞いたが、後半は初耳である。しかし、怜にとって、そんなことはどうでもよかった。お返しからカレシを選ぼうが選ばなかろうが、それは怜には関係がないし、仮に選んだとしてそれでふざけているってことにはならないだろうし――まあ、かなり独創的な恋人の選び方にはなるが――、しかも、
「他のクラスメートについてどう考えているか書くなんていう、くだらない宿題をさせる原因を作ったヤツが言えたことか」
少なくともそういうことになる。
沙里奈はバツの悪い顔をした。どうやら悪いとは思っているらしい。その顔を見せるのを避けるように、沙里奈は横を向いた。
「わたし、あの子キライ。可愛いからって調子に乗ってる。男子が自分に注目するのが当たり前だと思ってるんじゃない?」
「来年も川名と同じクラスにならないように祈れよ。もう、いいだろ?」
怜は、沙里奈が顔を向けてくるのを見た。
「何でこんなこと加藤くんに話したのか訊かないの?」
「…………」
「このこと、ススムに言う?」
「自分で言え」
「……え?」
「言いたいことがあれば自分で言えよ。オレはメッセンジャーじゃない」
沙里奈は、悲しそうな目をして、首を横に振った。
「だって、チョコを渡してないんだもん」
「そういうルールか?」
「ホワイトデーなんだよ、今日」
「二月十四日はまた巡ってくるだろ」
怜がそう言うと、沙里奈の肩が沈んだ。その事実は何ら彼女の慰めにはならないらしい。
怜は歩き出した。話は終わったのである。
少しして振り返ると、少女の背が風に吹かれているのが見えた。
怜はその背に向かって、
「あのさー、オレ、誰かに告白とかしたことないから分からないけど……本当に好きだったら、あんな風にはしゃいでいられないんじゃないかな」
声をかけると、沙里奈が振り向く前に、今度こそその場を立ち去った。
怜は教室へと戻る途中、進とすれ違った。
「サリナは?」
訊いてくる進に、怜は居場所を教えてやった。
進は速足でその場を去り、怜も急いで教室へと向かった。