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小学五年生の終わり頃、バレンタインの悲喜 その3

 それから、一カ月経った。

「やー、まさかねー」

 バリ。

「思ってもいなかったなー」

 バリバリ。

「お兄ちゃんにこういう才能があるとは」

 バリバリバリ。

「うまいよ、コレ」

 バリバリバリバリ、ゴクン。

 消えていく。魔法のように消えていく。

 怜は苦労して生み出した命がむさぼり喰われていく様をただ黙って見ていた。口惜しいが、黙っているしかない。下手に手を出そうものなら、代わりに自分の手が喰いちぎられそうな勢いだからである。

 コードネーム:クッキー・イーター。

 文明開化の光をかわし闇に潜んだ現代の魔物である。普段は小学四年生の少女の姿を取り、マンガを読むこととカッコイイ男子と付き合うことにしか興味を持たない。しかし、ひとたびクッキーの匂いを嗅ぐや、あやかしの本性をあらわにし、まるでクジラが小魚を飲み込むように、一息にその場にあるクッキーを食べ尽くすのである。

「お兄ちゃん、紅茶お代わり!」

 ダイニングには午後の日が差している。頃は三月の半ば。孟春である。体の奥の方をふわふわさせるような柔らかい光だった。

 妹はティカップをソーサーに戻すと、手の甲で豪快に口元を拭ってダイニングテーブルを立った。しかし、数秒もしないうちに戻ってくると、その円らな瞳をキラキラと、いやもとい、ギラギラさせながら兄を見た。

 怜は言った。

「『お兄ちゃんが作るクッキーなんて欲しいわけないでしょ』って一時間半前に言ってたのはどこのどいつだよ?」

 妹が答える。

「それはわたしだよ。ただし、一時間半前のね。お兄ちゃんだって十年前は主食がミルクだったわけでしょ。でも今は違う。そう! 人は変わるのよ」

 自分に都合の良い理屈を語らせたら、彼女は天下一品である。

「分かった。作っておくから明日のおやつにしろ」

「今食べた分の十倍ね!」

「オレを今日眠らせない気か? 第一、材料が無い」

「じゃあ倍でいい」

「お前も手伝えよ」

 そう言ったのは怜の本心では無い。妹と会話をするのが時間の無駄だということに気がついたのである。案の定、ヘルプ・ミーを聞いた妹は風を巻くようにしてぴゅいっと去っていった。まことにイイ性格をしている。

 怜はクッキーの生地を作り始めた。

 ボールに数種類の粉を入れて、それをホイッパーでギュインと撹拌(かくはん)する。抹茶の粉末が入っているので、混ぜられた合体粉は薄い抹茶色になっている。別のボールにサラダ油とハチミツを適量入れてこっちもホイッパーで混ぜ合わせる。混ぜられた液体を、抹茶色粉のボールに入れてしゃもじを使い、切るようにしてなじませる。

「粉っぽさがなくなったらOKと」

 ダイニングテーブルの上に広げられた料理雑誌のレシピを確認しながら、怜は一つ一つ手順を追った。先ほど一回やったわけだが、一度だけでは心もとない。しかし、前よりは早くできたようである。できあがった生地をラップの上で伸ばすと、冷蔵庫の中で三十分寝かせなければならない。チョコチップ入りの綺麗な抹茶色の生地は冷蔵庫の中に収められた。

 怜は一休みした。自分の為にお茶を淹れてくれる人などいないので、自分で紅茶を淹れてみる。

 お菓子作りは怜の趣味……などではない。それどころか一度も作ったことなどなかった。彼がその身にゾウさんプリントエプロンを身にまとい、にわかパティシエになったのには訳がある。無論のこと、その訳とは、美味しいお菓子で妹を喜ばせてやろうなどという兄妹愛などではない。バレンタインにもらった義理チョコのお返しだった。

「わざわざ手作りして返すこと無いと思うけど」

 妹からは呆れ顔でそんなことを言われたが、もらったチョコは手作りだった。手作りされたものに対して買ったものというのも気が引ける。そこらへん、妹とは育ちが違うのである。

 生地を型抜きしてオーブンに入れると、十数分でできあがり。

 怜は一枚食べて味を確かめると満足した。

 型抜きされたそれらはハート型や星型をしており、自分で作ったものながら、なかなかに愛らしい。

 可愛いものは可愛い人へ。

 妹へやる分は型抜きしなかった。

 明くるホワイトデー当日、怜は包装したクッキーを注意深くランドセルに詰めて学校へと向かった。

「義理とはいっても、タマキちゃんがお兄ちゃんにチョコあげるって、ホントに信じられないよなあ」

 出がけに、最愛の妹が――妹は一人しかいないので最愛といっても何ら矛盾は無い――首を捻りながら言った。怜は面倒くさかったので、環が五年生男子全員にチョコを振る舞ったということは妹に言っていなかった。

「世界の第八の不思議だね。ま、しっかりね。もし、渡せなかったら、わたしがもらってあげるからね」

「何で渡せないんだよ?」

「お兄ちゃんには、恥じらいってものがないの?」

「クッキー渡すだけのことに何の恥じらいがあるんだよ」

 怜は心底から分からない。

 やれやれ、と妹はため息をついた。

「そういう可愛くない男子はモテないよ」

 上から目線で言う妹に、

「お前こそ、バレンタインに誰かにチョコやったんだろ。お返しもらえる当てはあるのか?」

 訊いてみると、

「お兄ちゃんには関係ないでしょ」

 けんもほろろの答えを得た。

 妹とのやり取りを思い出しつつ学校に着くと、怜は三組の自分の机にランドセルを置き、早速紙袋を取り出して二組へと向かった。朝の光が廊下の床を白く照らしている。

 戸口から中を窺った怜は、そこに不思議なものを見た。

 怜のすぐ目の前に男の子の背がある。

 それ自体は何ら怪しむべきことではないが、その男子の前にさらに男子の背があって、さらにその前に別の男子の背があり、まるで人間ドミノのような風情で教室中央にある机まで続いているのだから妙だった。同学年男子の列である。十人くらいはいるだろうか。

「あのさ、なにコレ?」

 怜は戸口近くにいた女子に事情を訊いた。今日二組で有名人のサイン会が開かれるとは聞いていない。

 少女は軽く両手を広げるようにすると、タマちゃんへのお返しの列だよ、と唇を曲げるようにして言った。

 タマちゃんとは川名環のことで、列はバレンタインデーのお返しをするために並ぶ男子で構成されているとのこと。列の先頭にあるはずの環の机の周りには何人かの女の子がいて、彼女らがスクリーンになっているせいで、環の姿を見ることはできなかった。きゃっきゃっという声が盛んに上がっている。プレゼントの査定でもしているのだろうか。ゾッとしない話である。

 しばらくじっとしていると列が一人進んだ。

 怜は壁の時計を確認した。朝のホームルームが始まるまでまだ時間はあるが、この進み具合だと間に合うかどうかは疑わしい。怜はさっきの少女に話しかけた。

「川名とは親しいの?」

「昨日まではね。今日からは分からない」

「これ渡しといてもらえない?」

「自分でどーぞ。チョコは手渡しだったでしょ。じゃあ、お返しも手渡しが礼儀」

 なるほどと、一つ礼儀正しくなった怜は仕方なく五年二組を後にした。お昼休みにでもチャンスを探るしかない。

 三組に戻って、教科書から解放してやったランドセルにクッキーの包みを入れると、教室後ろのロッカーにランドセルを入れておく。ここ三組の教室でもそちこちで愛の劇場が繰り広げられていた。

「見たぞ、加藤。さっきの包み。お前も誰かにやるの?」

 席に着いた怜は、前から声をかけられた。

 ニッと歯をみせたのは、栗城(ススム)。バレンタインデーのときに、チョコチョコうるさかった子である。別に隠すことでもないし、環にあげるつもりだと返すと、驚いたような顔をされた。

「へー、お前も川名狙い?」

「何も狙ってない。もらった分は返したいだけ」

「隠さない、隠さない。まあ、正々堂々やろうゼ」

 ぽんぽんと肩を叩かれた怜は面倒くさいのでうなずいておいた。それから栗城少年の幸運を祈ってやる。先ほどの二組の様子から見て熾烈な争いになりそうである。

「バッカじゃないの」

 スポーツマンシップに則ることを誓わされた怜の耳を、女の子の声が鋭く打った。

 栗城少年の隣の席に座る少女である。

 視線を前に向けている彼女に向かって、進はムッとした顔を作った。

「何だよ」

「何が?」

「今言ったことだよ」

「何か言ったっけ?」

 怜は巻き添えを怖れたが、

「聞いたよな、加藤?」

 巻き込まれた。

 仕方なくうなずく怜。

「今、『バカみたい』って言ったろ」

 進は人差し指を少女に向けた。

「顔に何かついてる時以外は人を指差すな」

「人にバカっていう女が言えたことか」

「『バッカじゃないの』って言ったのよ、正確にはね。もう一回、繰り返してあげようか?」

「理由を言えよ。何でオレと加藤がバカなんだよ?」

 えっ、と思って進の顔を見ると、彼は「オレに任せろ」的な非常に男らしい目をしてうなずいた。

――オレは入ってないだろ。

 この二人は喧嘩友達というヤツなのである。喧嘩をすることによって仲を深めるというハタ迷惑な存在で、この一年間というもの彼らの口論が聞こえない日は無いと言ってよく、生来喧騒に弱い怜の精神を鍛えに鍛え上げてくれた。

 大沢沙里奈(サリナ)は体を進の方に向けると、ジーンズを履いた足を組んだ。

 二重まぶたが彩るクールな瞳が上からねめつけるように進を見ている。

「ススムなんか、川名さんに相手にされるわけないじゃん。身の程を知らないからバカだって言ったの」

「そんなの分かんないだろ」

「分かる」

「可能性がゼロとは言い切れないだろ」

「言い切れる」

「何でそんな自信満々なんだよ?」

「あのさ、例えば今ススムが幼稚園児の女の子に告白されたとするよね。付き合う?」

「アホか」

「でしょ。そゆこと」

 進は首を捻ってしばらく考えたあと、怜を見た。

「つまり精神年齢が違い過ぎるってことだろ」

 怜が答えると、進は椅子を蹴って立ちあがった。

「おれは幼稚園児並みだって言いたいのか?」

「ご名答。小学一年生にランクアップしたげよう」

 幸いなことに、ホームルームの時間が間近に迫っており、周りのざわめきが徐々に治まっていくなか、進と紗里奈の声だけが高くなった。さすがに、そのまま、二人だけで騒ぎ続けられるはずはなく、

「とにかく。プレゼント渡したときに告白してやるからな。見てろよ」

 最後に進が小声で紗理奈に宣言して終わりになった。

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