小学五年生の終わり頃、バレンタインの悲喜 その2
怜は恋愛には疎かったが、さすがに、女の子がバレンタインにチョコをあげるという行為がどういうことを意味しているのかくらいは知っていた。
とすると――
と考えてみたところ、環は口元を微笑で染めたあと、ほっそりとした首を横に振って、
「そういうのじゃなくて、五年生の男子全員にチョコをあげようと思ってるから、加藤くんにも貰って欲しくて」
怜の誤解をといた。
いわゆる義理チョコというヤツである。
「でも、五年生全員に?」
「うん」
環はうなずいた。
怜は計算した。五年生の男子全員となると、五十人くらいにはなる。五十人全員にあげるとはまたえらく律儀な子である。少女の宿す叔美に感心した怜だったが、彼女が、ホワイトデーという日の存在をほのめかしたとき、感動は霧消した。仄聞するところによると、かの日にはバレンタインデーに受け取ったものの三倍を返さなければいけないという決まりだ。怜はチョコを貰えるのは非常にありがたいが、できるだけつつましいものにしてもらえるとなお良いと注文をつけた。
「大した仲じゃないしな」
「そうかしら」
「同じ委員会ってだけだろ」
「それだけじゃないよ。だって今から一緒に帰ってくれるんでしょ」
「え、何で?」
「それはね、ここにちょっと買い過ぎた買い物袋があるからです」
少女の手にはマイバッグが提げられていた。確かに少し重たげである。
大型カートを押した主婦が傍を通りすぎる。
怜はじっと環を見ていたが、彼女が目を逸らそうともせずに見返してくるので、やれやれと首を横に振った。怜は袋詰め作業を終えると、環のバッグを彼女の手から受け取って店の出口へと向かった。外に出ると、相変わらずどんよりとして薄暗い空だったが風は穏やかになっていた。
「ありがとう」
横に並んだ環が軽やかな声を出した。厚かましいことこの上ないのだが、どこかでそれを許してしまう自分がみじめである。おそらく妹にこき使われているせいで、「使われ癖」がついているのだろう。
歩きながら環は、
「シェイクスピアって面白いの?」
唐突なことを言った。
「この前の委員会の時に、余った時間で加藤くん、読んでたでしょ。すごく熱心に読んでるみたいだったから面白いのかなって」
シェイクスピアは怜の愛読書である。
「川名には、『じゃじゃ馬ならし』っていう作品をおススメするよ」
「何だか挑戦的な題名だね」
「そう思うのは自分のことがよく分かってるってことなんじゃないの?」
「加藤くんって意外と意地悪いんだなあ。もっと優しい人かと思ってた」
怜は左手にしたバッグをわざとらしく掲げてみせた。
環はついっと目を逸らすと、街路樹を見やった。
しばらく環は口を開かずにいた。怜も口を閉じたまま。
冬の清新な空気の中に二人の靴音だけが響くようだった。
妹のせいでちょっと女子恐怖症になっている怜だったが、環と歩くのは苦にならないようだった。なんだか不思議な子である。一緒に歩いていても、何か話さなければという気分にさせない子だった。沈黙が優しくて心地よい。不意にこちらを向いた環と目が合うと、彼女は小さく笑った。春を呼ぶような可憐な笑顔だった。
「チョコ、期待してね」
ニ階建ての瀟洒な家の前で、怜の手から買い物バッグを受け取った少女は華奢な背を向けた。門の横にある通用口から中に入ろうとしたときに、ふとクルリと体を回転させると何を思ったのか怜のところまで帰ってきた。
「わたしの名前覚えてくれた?」
「も、もちろん」
と言った自分の声は自分で聞いても、相当うさんくさかった。
「環です。た・ま・き。そんなに難しい名前じゃないわ。それとも、毎日わたしのランドセルでも持って一緒に帰ってもらったりしないと覚えてもらえないのかなあ」
環は目をぱちぱちさせた。
怜は彼女の名前を部屋のいたるところに付箋で張り付けてでも、今日中に覚えることを約束した。
「きっとだよ」
怜が厳かにうなずくと、環は満足したかのようにうなずいて門の中に入った。
治まった寒風がまた吹き出すのを怜は感じた。
家に帰ると、妹は開口一番、
「遅い! 何やってたのよ、お兄ちゃん!」
とのたまった。
ねぎらいの言葉より先に批難の言葉をかけるとは! 怜は一応憤然としたが、いつものことなので言い返したりはしなかった。その代わりに、チョコをもらう当てができたから今年は兄への同情は必要ない旨、伝えた。
「え、ウソ、誰から?」
「お前とは比べ物にならないくらい可愛い子だよ。梅の花の化身みたいな子だな」
妹はバカにしたような笑みを見せた。自分より可愛い女の子が兄にチョコをあげるなどということはあり得ない。そういう意である。兄を過小評価しているのか、自己を過大評価しているのか。おそらく両方だろう。全く信用していない妹が、「是非、その梅の妖精さんの名を教えてもらいたいもんですなあ」と余裕たっぷりに言ったので、怜は川名環の名を出した。妹は途端に青ざめた。
「まあ、義理だけど」
怜が言うと、はあーっという長い息とともに妹は生気を取り戻した。
「そりゃそうだよね。タマキちゃんって五六年生の中で一番可愛いんだよ。何でよりによってお兄ちゃんってことになるもんね~。変な期待しちゃだめだよ、お兄ちゃん。男子って、義理チョコでも変な解釈するからな」
まるでそんな期待をさせたことがあるかのような口ぶりであるが、川名女史なら格別、妹から「義理」だと言って渡してもらえば、むしろホッとするのではないかと怜は思った。
約束通り環の名前を覚えて、しかしチョコのことなどすっかり忘れていた怜が、翌日登校してみると、何だか教室がうわついた雰囲気になっていて、それがバレンタインのせいであるということに、昨日の今日であるにも関わらず級友から言われるまで気が付かなかったのは、よほどこの日と縁が薄いせいであろう。
「誰かおれにチョコをくれる心優しい子がいないかなあ」
前の席の少年が、はああ、と大げさなため息をつきつき言った。
「もう母親からだけとか嫌だあああ。てか、いらねえええ。……まあ、チョコ自体は好きだけどな」
なあ、と同意を求めて来る少年に、怜は、
「くれるだけいいんじゃないか?」
と適当なことを返した。
「加藤は妹いたよなあ?」
「残念ながらな」
「じゃあ、妹とかがさ、『はい、お兄ちゃん』とかってくれんだろ? 羨ましいよおお、何でおれの家は妹じゃなくて弟なんだよ! しかも、弟は去年、結構チョコもらってきたし!」
妹にどんな幻想を抱いているのかしらないが、怜は、その幻想を崩さないようにしてやった。
「チョコが欲しいよおお……」
晩秋の風の音のような声を長く伸ばした彼は、そのときちょうど隣に腰を下ろした少女に向かって、
「おい、サリナ、よこせよ、チョコ」
唐突にたかりまがいの口を利いた。
「はあ?」
答えた少女はスレンダーな体つきをしたボーイッシュな子である。
「なんで、ススムなんかに」
「んだよ、じゃあ、おれ以外の誰かにはやるのかよ、チョコ」
「あんたに関係ないでしょ」
「関係あるんだよ」
少女は怪訝な目を向けた。「……何でさ?」
「チョコが欲しいからだよ! あー、チョコが欲しい! チョコチョコチョコチョコ!」
本格的に騒ぎ出した彼の相手は少女に任せて、怜は、本を読み始めた。そうして、心の中で、
――確実に一つはもらえるから安心しろ。
と彼に言った。義理ではあるが、環が用意するはずである。
そうして確かに義理チョコはやってきた。お昼休みに、環がクラスに現れて、給食が終わってまったりとしている男子に一人ずつ手渡しして、いない男子にその机の中に、小さな包みを入れて歩いた。
「えっ、川名がおれのことを? マジでかあ」
前の少年が大げさな歓声を上げるのに、環は苦笑した風であり、それから怜の前に来ると、
「はい、加藤くん。よかったら受け取ってください」
そう言って、包みを差し出した。
ふわふわとした素材の紙で、リボンで口が止められているのが可愛らしい。
「これの三倍返しだったら、ちょっとは気が楽だな」と怜。
「三倍返しっていうのは、込められた気持ちに対してのものだと思うよ」
「じゃあ、なおさらだろう。義理なんだから」
環は微笑すると、「恥ずかしいから家で開けてね」と言って、次の席へと向かった。
まだ配るクラスが残っているのか、環は足早にクラスを去った。
前の席がはしゃいでいる。
「川名からもらえたから、もうおれ他に誰からももらえなくてもいいよ」
何よりである。
教室のそちこちでも感動の吐息が落ちていた。
「バッカじゃん、ただの義理なのにさあ」
隣から嘲るような少女の声がする。
「じゃあ、お前もただの義理でおれにくれよ」
少年が答えた。
「ただの義理でなんか嫌。わたしはそんなんでチョコとかあげないし」
怜は本を開いて、その後の二人のやり取りをやり過ごした。
昼休みの後、残りの授業を終えて、何をお返しにすればいいのだろうかと考えながら家に帰って、包みを開けてみると、思わず怜は首を捻った。手の平サイズのこげ茶色のハートが割れているのである。ランドセルの中で揺られているうちに割れたのかとも思ったが、割れ目のギザギザは綺麗だった。
「両方ともあなたのものです」
添えられた小さなカードにそんなことが書かれていた。
背後から覗き込んできた妹がにやりとした。
「このメッセージの意味が分からないの、お兄ちゃん?」
したり顔で続ける妹の説明は以下のようなものである。ハートは怜が環に寄せる恋心を表している。それを割って返したということは、怜の環に対する想いは届かないということを暗示している。わたしのことは諦めてください。友だち以上にはなれません。そういうことであるという。
「よくそんな風に考えられるな」
怜は妹の名推理を褒めた。そして潔く環のことは諦めることを宣言した。昨日会うまで名前も覚えていなかったこと、まして彼女に好意をほのめかしたことなど無く、丁重なお断りをいただく話になどなりようがないことなどを妹に説明するのは面倒だった。
怜は割れたハートを手に取った。このハートのチョコに関しては、もう一つ別の解釈もできないこともないが、それをすると妹の解釈よりもずっとおかしなことになる。
口に含んだハートのかけらはほのかに甘かった。