↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

童話のまち ep人魚姫

作者: 幼内 心
掲載日:2026/09/28



みなさんは小さい頃好きだった童話はありますか?好きな主人公はいますか?


童話の住民たちは

『おしまい、おしまい』

で結末を受け入れてると思いますか?


トラウマや問題を抱えた童話の住民たち…

その一つ一つを解決していく、

これもまた一つの物語……









 離婚届は、テーブルの上ではなく、僕の胸のあたりに叩きつけられた。


「もう無理。晃さんと一緒になる」


 紙の角が鎖骨に当たり、乾いた音を立てて床に落ちた。四年間、一緒に暮らしてきた妻が、僕の知らない男の名前を口にしている。そのことに、妙に現実感がなかった。


「……いつから」


「半年前。ずっと言おうと思ってた」


 半年前、自分が何をしていたかを思い出そうとした。残業続きで、休日は寝てばかりで、美和子が「最近ちゃんと話してないね」と言った日があった気がする。あのとき、何と答えたのかは覚えていなかった。


 妻は、その週末に出ていった。段ボール三つとキャリーケース一つ。四年分の暮らしがそれだけに収まることに、僕は妙な感慨を覚えた。


 一人になった部屋で、換気扇の音を聞いていた。その静けさを破ったのは、母からの電話だった。


「斗話……お父さんが」


 声だけで、全部わかった。


     


 葬儀を終えたあと、僕は大分の実家の縁側で、川の音を聞いていた。


 子供の頃、父と釣りをした川だった。何時間も竿を並べて、結局、一匹も釣れなかった記憶がある。帰るとき、父は不満そうな顔もせず、僕の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれた。


 あの日、父は何を考えていたのだろう。


 もう聞けないと思った途端、離婚のことも父のことも一緒になって、喉元までせり上がってきた。けれど涙は出なかった。ただ、川の音が遠くなったように感じた。


 東京に戻っても、仕事には身が入らなかった。半月後、僕は退職を申し出て、賃貸マンションを解約した。


 三十歳、無職、バツイチ。童田斗話という男を説明する言葉が、ずいぶん短くなってしまった。


 人口およそ大分県の千人の語里町へ帰ると、母は「おかえり」とだけ言った。その夜の食卓には、二人で食べきれないほどのおかずが並んだ。


 父の書斎を片付け始めたのは、それから数日後のことだ。


 壁一面の本棚には、童話や昔話がぎっしり詰まっていた。その奥に一つだけ、古い木の扉がついた棚があった。


「あれ、開かないのよ。お父さんに聞いても、『そのうちな』って」


 母の言う通り、押しても引いても動かなかった。ところが、その夜、本の整理に疲れてうたた寝をしていると、扉の隙間から柔らかな光が漏れていた。


 中にあった革張りの本を開くと、一文だけが記されていた。


『この本棚は、月に一度ひらきます。その物語のものは、あなたの手助けになるでしょう。』


 寝ぼけた頭で、そばにあった「うらしまたろう」を読んだ。何も起こらなかったので、そのまま寝た。


 翌朝、釣竿を持った男が玄関に立っていた。


     *


 それからの僕の生活は、説明するほど嘘っぽくなるものになった。


 最初に来た浦島太郎は、女性が怖く、魚も苦手だった。何があったかは、竜宮城の結末を思い出してもらえれば、大体察しがつくと思う。


 その「うらちゃん」は今、町の食堂「たいせい」で働いている。料理を覚え、少しずつ魚にも触れるようになった。得意料理は、とり天だった。


 次に来たかぐや姫は、ギャルになっていた。昔こちらへ呼ばれたときに雑誌を読んで影響されたらしい。写真館に勤め始めたカグヤは、今では町の風景を撮って発信し、十五万人ものフォロワーを持っている。


 赤ずきんは「静寂の森の狩人」を名乗り、うちから小学校へ通っている。ウサギと亀はリフォーム屋で働き、金太郎は木こり、一寸法師は裁縫屋の見習いになった。


 父が生前に買い取った隣の古い団地は、いつの間にか、童話の登場人物たちの住まいになっていた。母は炊く米の量を増やし、僕は動画編集の仕事を始めた。


 皆、それぞれ困ったところがある。けれど、その世話を焼いているうちに、僕自身も、起きてから寝るまでの時間を持て余さなくなっていた。


 ある夕方、リフォーム中の家の前を通りかかると、中から言い争う声が聞こえてきた。


「亀さんよ、段取り悪くてため息ばかり。あんたの采配、今日も心配」


「……おまえ、なんやその言い方」


 以前は上司と部下として揉めていた二人だ。最近ようやく相棒になったと聞いていたので、僕は足を止めた。


「あの、二人とも大丈夫?」


「斗話さん、聞いてくれます? 最近こいつ、動画サイトでラップバトルばっかり見とるんですわ」


「かっこよくて」


 長い耳を持つウサギは、落ち着いた顔で答えた。


「板を切れ、心も磨け。倒壊すんな、後悔すんな」


「ほら、これや! 寸法聞いてるだけやのに、こんなん返ってくんねん!」


 大きな甲羅を背負った亀が頭を抱えた。少なくとも、関係が悪くなったわけではなさそうだった。


 その夜、食卓でその話をすると、赤ずきんがとり天を頬張ったまま、ぼそっと呟いた。


「……敵を倒す、歴史残す」


「え?」


「……忘れて」


 赤い頭巾の下で、耳まで赤くなっていた。この町の童話キャラたちは、日本の文化に影響されやすすぎる。


 夕食のあと、書斎に戻ると、本棚の扉がわずかに開いていた。棚の中から手に取った一冊には、美しい尾びれが描かれていた。


 僕はその本を枕元に置き、眠りについた。


     


 翌朝、玄関を開けると、巨大な水槽があった。


 中に収まっていたのは、長い髪の美女だった。上半身には水着をまとい、下半身の鮮やかな尾びれが、水の中でゆらゆら揺れている。


 僕はしばらく、その光景を眺めた。


「……玄関、通るかな」


「最初にそこ気になる?」


 水槽の中の彼女が、ぱちんとウインクをした。


「はろー! 人魚姫のにんちゃんでぇ〜す♪」


 声を失う運命を背負ったヒロイン、という印象はなかった。朝からずいぶん元気な人だった。


「初めてこっちに来るから、色々教えてくださいね〜!」


「よろしく。とりあえず、その水槽ごと入れる部屋を探そうか」


 スマホを取り出し、金太郎に連絡した。亀にも声をかけてもらうと、五分もしないうちに、頼もしい体格の二人が現れた。


「うおお、でっかい水槽ッスね!」


「人魚か。ホンマにおったんやな」


 童話の亀に実在を疑われる人魚姫というのも、なかなか妙な光景だった。


 二人は水槽を団地の一階へ運び、亀が床を確かめて敷いた板の上に、慎重に下ろした。にんちゃんは、揺れるたびに「わ、わ」と楽しそうに声を上げていた。


「ほな、何かあったら呼んでや」


「いいトレーニングになったッス!」


 二人を見送ってから、僕は買い物や食事のことを相談した。


「外に出るときは、誰かに運んでもらうことになるかな」


「あ、それは大丈夫。これがあるから」


 にんちゃんは小袋から、青い飴を取り出した。


「魔女にもらったの。舐めると脚が生えて、歩けるようになるんだよ」


「便利だな」


「その代わり、効いてる間は声が出なくなっちゃうんだけどね」


 僕は、彼女の手元を見た。声と引き換えに人間の脚を得る。それは、僕の知っている物語そのものだった。


「心配しなくても、時間が経てば元に戻るよ。前みたいに、ずっとじゃないから」


 にんちゃんはそう言って、小袋を水槽の縁へ置いた。


 声が出ないなら、連絡手段があった方がいい。後日、彼女にもスマホを用意すると、水かきのついた指先で器用に操作し、嬉しそうに笑った。


「これで、歩いてるときも喋れるね!」


 ほどなく、僕のスマホには、にんちゃんからの写真が届くようになった。夕焼け、スーパーの大根、食堂のとり天。初めて見るものは、何でも面白いらしい。


 ある日の午後、その写真の合間に、メッセージが届いた。


『相談したいことがあるんだよ〜』


     *


 団地の部屋に入ると、にんちゃんが待ちきれない様子で水槽から身を乗り出した。


「見て、これ!」


 スマホの画面には、白いスタジオと、マイクの前に立つ歌手が映っていた。

『The一発撮り』という音楽企画で、編集なしで歌い上げる姿を見せるものらしい。


「もう、鳥肌立っちゃって。何回も見返しちゃった」


 にんちゃんは動画を止め、こちらを向いた。


「私も、歌いたいんだ」


「歌、好きだったの?」


「大好き。お姉ちゃんたちと、よく歌ってたよ。でも、向こうだと、なかなか人に聴いてもらう機会がなくて」


 話すうちに、彼女の声は少しだけ落ち着いたものになった。


「せっかく、こっちに来られたからさ。挑戦できる場所に来たんだから、やってみたいなって」


 僕は頷いた。彼女は水面に指をつけ、小さく輪を描いた。


「昔、大好きな王子様のために、声を失ったことがあるんだ」


「……うん」


「それ自体は、後悔してないよ。あのときは、本気だったから」


 顔を上げたにんちゃんは、少し照れたように笑った。


「でも、もう男に溺れたくないんだ。人魚だけに!」


「……今、そのオチ要った?」


「結構、気に入ってるんだけど」


 真面目に言い返され、僕は思わず笑ってしまった。彼女も笑ったが、すぐには次の話へ移らなかった。


「声が出なかったときね、言いたいこと、いっぱいあったんだ。好きっていうのも、悲しいっていうのも。でも、うまく伝わらなかった」


 彼女はそっと、自分の喉に触れた。


「今度は、ちゃんと声にしてみたい。あの人に届くかどうかは、もういいから」


「……自分のために歌うってことか」


「そういうこと。あ、今の、ちょっとかっこよかったね」


「僕の台詞だけどな」


 にんちゃんが、けらけら笑う。その声を聞いているうちに、僕も力になりたくなった。


「歌うとして、音楽の方はどうするんだ? 楽器とか」


「斗話くん、できないの?」


「学生時代、ギターをちょっとだけ。でも、ほぼ弾けないようなものだよ」


「じゃあ、弾ける人探さなきゃ」


 落胆するでもなく、にんちゃんは次のことを考え始めた。


 文化祭に憧れて買い、数か月で押し入れにしまった自分のギターを思い出した。あの頃、こういう人が一緒にいたら、もう少し続いたのかもしれない。


「とりあえず、みんなに聞いてみようか」


「いいの? ありがとう!」


 にんちゃんの尾びれが大きく揺れ、水槽から少し水がこぼれた。僕はタオルを取りながら、仲間たちへ連絡を入れた。


     


 その夜、団地の一室に、いつもの面々が集まった。


 うらちゃん、カグヤ、赤ずきん、ウサギと亀、金太郎、一寸法師。こうして一度に揃うと、狭い部屋が余計に狭く見えた。


「亀さん、もう少し前に出てもらえますか。甲羅で扉が閉まりません」


「わいばっかり大きいみたいに言わんといてや。金太郎も大概やで」


「俺、ちゃんと縮んでるッス」


 膝を抱えようとして、筋肉が邪魔で抱えられていない。努力していることだけは伝わった。


 僕は皆に、にんちゃんの希望を説明した。


「それで、バンドを組めないかと思うんだけど。誰か、楽器できる人いないかな」


「わい、ドラムなら叩けるで」


 亀があっさり手を挙げた。


「できるんですか?」


「昔、ちょっとな。現場でも、ハンマー振りながら頭ん中で叩いとる」


「だから時々、余計に叩いてたんですね」


「ウサギ、おまえ、そういうことは言わんでええねん」


 続いて、金太郎が腕を上げた。


「俺、ベースやるッス!」


「弾けるの?」


「今から練習するッス! この筋肉あれば、何とかなる気がするッス!」


 根拠が、何一つ音楽と結びついていなかった。ただ、毎日の鍛錬を欠かさない男なので、練習から逃げる心配はなさそうだった。


「あの……僕も、できることがあれば」


 控えめに手を挙げたのは、うらちゃんだった。


「竜宮城にいた頃、あまりにやることがなくて、琴の練習をしてたんです。ギターとは違うでしょうけど、頑張れば何とか」


「すごい! うらちゃん、私の隣で弾いてよ!」


 にんちゃんが身を寄せると、うらちゃんの座布団が、ずずっと後ろへ下がった。


「で、できれば、少し離れた位置で……」


「あ、ごめん。この人、女性と魚が苦手なんだ」


 僕が説明すると、にんちゃんは自分の上半身を見て、尾びれを見た。


「私、両方だ」


 うらちゃんは、青い顔で頷いた。それでも辞退しなかったあたり、彼も随分たくましくなったと思う。


 一寸法師は、小さな鍵盤なら、とシンセサイザーを引き受けた。テーブルの上で正座したまま、礼儀正しく頭を下げる。着ている服だけは、立派なヤンキーファッションだった。


 最後に、ウサギがそっと手を挙げた。


「僕は、ラップをやってみたいです」


「やっぱり」


 亀と僕の声が重なった。


「にんちゃんさんの歌の間に、ラップを入れるのはどうでしょうか」


「いいね! 男性ラップと女性ボーカルって、かっこよさそう!」


 当人同士が乗り気なら、僕が口を挟む理由はなかった。カグヤは撮影と宣伝を、僕は楽器や場所の手配を引き受けることになった。


「……わたしは」


 赤ずきんが、煎餅を持ったまま顔を上げた。


「見張る」


「お客さんには、攻撃しないでくれよ」


「……わかってる」


 ほんの少し間があったのが、気になった。


 翌日、町の楽器店を訪ねると、店主は奥の練習室を貸してくれた。楽器も中古や貸し出しで揃えられた。小柄な一寸法師のために、亀が鍵盤用の台を作り、にんちゃん用には練習室に置ける水槽を用意した。


 移動のときは飴で脚を出せても、歌うときには声が要る。そのための水槽だった。


「少しの間なら、陸にいても平気だよ。水槽から水槽に移るくらいなら」


 にんちゃんが言うと、金太郎は「運搬は任せるッス」と胸を叩いた。バンドを組む相談で、ボーカルの運搬方法まで決めるとは思わなかった。


 目標は、月末のハロウィン祭りだった。町のカラオケ大会のあとに、バンド演奏の枠がある。楽器店の店主が話をつけてくれて、一曲だけ出演できることになった。


「音楽の方は、僕はノータッチでいくから」


「任せて!」


 にんちゃんが元気よく答えた。


 仕事を終えた皆が夜に集まり、練習が始まった。金太郎が指の力加減を間違えたり、一寸法師が鍵盤の端まで走ったりと、傍から見れば忙しそうだったが、僕が迎えに行く頃には、いつも誰かが笑っていた。


 うらちゃんも、にんちゃんと距離を取りながら、ちゃんと同じ部屋で過ごしていた。帰り道にそれを言うと、「弾いてる間は、手元を見るので」と、少し嬉しそうに答えた。


 ある日、締切りを片付けて練習室へ向かうと、廊下まで重い音が響いていた。


 僕は扉の前で足を止めた。


(……あれ?)


 頭の中にあった、静かで感動的なバラードのイメージを勝手に考えていたが、少しだけぐらついた。


 中から「もう一回!」というにんちゃんの声がしたので、邪魔をせず帰ることにした。本番を楽しみにしておこうと、そのときは思った。


     


 ハロウィン祭りの当日、僕は赤ずきんと手を繋いで、屋台の並ぶ通りを歩いていた。


「あれも、食べたい」


「さっき食べたばっかりだろ」


「……別腹」


 たこ焼き、りんご飴、フランクフルト。狩人としての矜持より、今日は食欲が勝っていた。次の屋台を見つけるたび、握った手が強く引かれる。


 カグヤの宣伝のおかげか、見慣れない若い人の姿も多かった。町の古い店を背景に写真を撮る人たちを見て、店のおばちゃんまで、少し背筋を伸ばしていた。


 特設ステージでは、カラオケ大会が行われていた。


「次の方、どうぞ〜」


 呼び込まれたのは、写真館のシュンだった。カグヤの雇い主で、僕の昔からの友人でもある。マイクを握ると、胸に片手を当て、朗々とバラードを歌い始めた。


(ああ、これ、学生時代にも見たな……)


 女の子とカラオケに行くと、決まってやっていた歌い方だった。今見ると、少し気恥ずかしい。けれど客席では、普段は彼を一喝する奥さんが、うっとりと聴き入っていた。


 もしかして、あの歌で落とされた口だろうか。余計なことを口にするのはやめて、僕も拍手をした。


 カラオケ大会のあとは、町のおじさんたちのバンドだった。懐かしいインストや、聞き覚えのある洋楽が、広場に流れていく。子供の頃、父と祭りに来たときも、こんな演奏を聴いた気がする。


 母を見つけて声をかけると、彼女はステージを眺めたまま言った。


「お父さん、ああいうの好きだったのよ」


「そうなの?」


「聴いてると帰りたがらなくてね。あんたは、お腹すいたって騒ぐし」


 そんなことは覚えていなかった。父はいつも、僕が飽きれば一緒に帰ってくれていたから。


「今日は最後まで聴けるな」


「あら、赤ずきんちゃんは大丈夫?」


「……まだ食べられる」


「その心配じゃないよ」


 母が笑い、僕も笑った。ステージの演奏が終わり、舞台係の人たちが慌ただしく動き始めた。


 いよいよ、あのバンドの出番だった。


 大きな水槽がステージ中央へ運ばれ、客席からどよめきが上がった。にんちゃんは中から小さく手を振っている。いつもより少し、動きがぎこちなかった。


 ドラムの前には亀、ベースを構えるのは金太郎。うらちゃんはギターの位置を確かめ、一寸法師は小さな台へ上がった。ウサギがマイクを持つと、会場のあちこちから「かわいい」「でかい」と、まちまちな感想が聞こえてきた。


 ハロウィンでよかった。普段なら必要だった説明が、今日は一つも要らない。


 僕は赤ずきんを肩車して、前の方へ進んだ。彼女が手を上げると、にんちゃんが気づき、口元を緩めた。


「こんばんは。人魚姫の、にんちゃんです」


 マイクを通した声が広場に響いた。


「今日、初めて皆さんの前で歌います。最後まで、聴いてくれたら嬉しいです」


 にんちゃんが後ろを振り返り、亀と目を合わせた。


 曲が始まった。


 一寸法師のシンセサイザーが、夜の広場へ音を広げた。その直後、うらちゃんの激しいギターリフが、空気を切り裂いた。


 金太郎が太い弦を弾き、亀のドラムが腹の底へ響いた。さっきまでの穏やかな演奏とは、明らかに毛色が違う。ゴリゴリのROCKだった!!


 目の前のおじさんが、口を開けたまま固まった。僕も、多分同じ顔をしていた。


(……そっちなのか!)


 竜宮城で琴を習っていた男が、凄まじい顔でギターを弾いている。隣では金太郎が、一音ごとに全身で頷いていた。亀は、普段の現場よりよほど忙しそうだった。


 その音の中へ、にんちゃんの声が入った。


  深い海の底

  光の届かない場所で

  私はずっと 空を見ていた

  I wanna see the world above

  I wanna know what they call love

  まだ知らなかった

  その願いが

  私のすべてを奪うなんて




 澄んだ声だった。さっきまでの勢いに驚いていた客席が、少しずつ静かになっていく。




  嵐の夜 砕けた船

  黒い波に沈んでいく影

  あなたを抱いて 海を越えて

  初めて触れた 人のぬくもり




 歌われている物語に、覚えがあった。

 海の世界に生きる少女が、人間に恋をする。嵐の夜に王子を救い、けれど名乗ることもできずに、海へ帰る。




  朝焼けの浜辺

  眠るあなたを見つめながら

  名前も告げず

  私は海へ戻った

  あなたが目を覚ますころには

  私はもうそこにいない

  それでも胸の奥で

  何かが始まっていた


 にんちゃんが、マイクを握り直した。


 澄んだ歌声の合間に、悲しみを叩きつけるような声が混じった。それは、僕が勝手に想像していた、優しくて綺麗なバラードではなかった。




 そこへ、英語のラップが切り込んだ。


  Deep in the blue, I came for you

  Saved your life, but you never knew

  No name, no sign, no proof, no clue

  I lost my world just to get to you


 ウサギだった。仕事の指示にまで韻を踏んでいた男が、今は一度も言い淀まず、マイクへ言葉を叩き込んでいる。


 亀がスティックを振り上げ、音が一気に膨らんだ。


  CAN YOU HEAR ME!?

  声にならない声で

  何度あなたを呼んだだろう

  I'M RIGHT HERE

  RIGHT IN FRONT OF YOU

  あなたを救ったのは

  私なのに


 にんちゃんの声が、夜空へ突き抜けた。


 その瞬間、僕はようやく、この曲が彼女の歌なのだと実感した。人魚姫の物語を借りて歌っているのではない。目の前にいる彼女が、あの日、言えなかったことを歌っていた。




  叫べない

  伝えられない

  この喉にはもう

  何も残ってない

  I gave my voice

  I gave my world

  ただあなたに

  気づいてほしかった




 隣で母が、小さく息を吐いた。僕はステージから目を離せなかった。


 にんちゃんは歌い続けた。人間の脚を得て会いに行ったこと。声がなくても、そばにいられればと思ったこと。王子が別の人を見つめる隣で、気持ちを伝えられなかったこと。


 いつも笑って話していた彼女の口から、こんな声が出るとは知らなかった。


 けれど、苦しそうなだけではなかった。ギターへ顔を向け、うらちゃんと一瞬目を合わせたにんちゃんは、確かに笑っていた。


 客席の誰かが、拳を上げた。


 次のリズムに合わせて、もう一人が体を揺らした。亀のドラムを真似する子供がいて、金太郎に向かって声を上げる木こり仲間がいた。最初に口を開けていたおじさんまで、膝を叩いていた。


「にんちゃーん!」


 カグヤの声が飛んだ。肩の上の赤ずきんも、いつもの仏頂面を忘れて腕を上げていた。


 ステージの前方では、シュンが客たちに担ぎ上げられていた。


「うおおお、最高だああ!」


「シュン!」


 妻の一喝で、次に見たときには地面へ戻されていた。僕は少し笑って、それからまた、にんちゃんを見た。


 最後のサビの前、演奏が静かになった。


 にんちゃんは両手でマイクを包み、一度、ゆっくり息を吸った。


  あなたに届かなかった言葉は

  まだ私の中にある

  好きだったことも

  悲しかったことも

  今日はこの声で 歌っていいかな


 何も言えなかった日のことを、僕も思い出していた。


 離婚届を見下ろしたまま、聞きたいことを飲み込んだ。父とも、次に帰ったときに話せばいいと、何度も思っていた。


 同じ後悔ではない。それでも、相手がいなくなったあとに言葉だけが残ることを、僕は知っていた。


 にんちゃんが、客席へ顔を上げた。


 亀のドラムが戻り、ギターとベースが重なった。彼女はその音を受け止めるように背筋を伸ばし、最後のサビを歌い上げた。




  CAN YOU HEAR ME!?

  声にならない声で

  何度あなたを呼んだだろう

  I'M RIGHT HERE

  今はここにいるよ

  あの日言えなかった想いごと

  私は歌っている




 伸ばした声が、わずかに震えた。それでも、にんちゃんは止まらなかった。




  I have my voice

  I have my world

  もう一度 この声で

  明日も歌いたい




 最後の音が夜空へ伸び、やがて、仲間たちの演奏と一緒に消えた。


 にんちゃんはマイクを握ったまま、客席を見ていた。


 赤ずきんが、僕の肩の上から叫んだ。


「……聞こえた!」


 その声に重なるように、拍手が広がった。


 母が手を叩き、店主が大きな声で名前を呼んだ。カグヤはカメラを構えたまま何か叫び、金太郎はステージの上で、両拳を突き上げていた。


 にんちゃんが笑った。その目元が光っているのが、前の方にいた僕には見えた。


     


 演奏を終えた皆のもとへ行くと、亀は腕を回し、金太郎は床に座り込んでいた。一寸法師も鍵盤の台の上で、両手をぶらぶらさせている。


「皆、お疲れさま。すごかったよ」


「指が、筋肉痛になりそうッス……」


「そこも鍛えるつもりか?」


「明日から、考えるッス」


 懲りない男だった。うらちゃんはギターを抱えたまま、まだぼんやり笑っていた。


 水槽に近づくと、にんちゃんが顔を出した。


「斗話くん、どうだった?」


「びっくりしたよ。こんなに激しい曲だと思ってなかった」


「えー、言ってなかったっけ?」


「言ってない」


「そっか。ごめんごめん」


 まったく深刻でない謝り方に、僕は笑った。にんちゃんは水槽の縁に両腕をのせ、さっきまで自分がいたステージを振り返った。


「最初ね、すっごく怖かった。皆、見てるんだもん」


「そりゃ、見に来てるからな」


「そうなんだけど。でも、歌い始めたら、うらちゃんが弾いてて、亀さんが叩いてて。あ、ちゃんと皆いるんだって思ったら、声、出た」


 うらちゃんが照れたように視線を逸らし、亀は「当たり前やろ」と笑った。


「最後、ちょっと泣いてなかった?」


 僕が聞くと、にんちゃんは頬に触れた。


「あ、わかった?」


「近くで見てたから」


「……ちゃんと聴いてくれてるんだなって、思ったらさ」


 にんちゃんは、少しの間、黙った。それから、いつもの屈託のない笑顔になった。


「ちょーー楽しかった〜!」


 笑い声が広がった。僕も笑いながら、目元を指で拭った。


 かつては、大好きな人に会うために、その声を手放した。今夜、彼女は自分の声で歌い、たくさんの人に名前を呼ばれた。


 さっきの「楽しかった」が、いつまでも耳に残っていた。


「ねえ、次もやろうよ。今日、一曲だけだったし」


「今からはあかんで。わいの腕、もう閉店や」


「今からじゃないよ!」


 ウサギが吹き出し、金太郎は「次までに鍛えるッス」と頷いた。うらちゃんも、一寸法師も、もう次の話をしていた。


 カグヤが、僕たちにカメラを向けた。


「はい、皆こっち! 水槽の近くに寄って〜!」


 僕は赤ずきんを下ろし、仲間たちの間に立った。金太郎の肩がぶつかり、亀の甲羅に押され、うらちゃんが慌てて場所を空ける。にんちゃんは水槽から身を乗り出し、笑っていた。


 数か月前、この町に帰ってきたとき、こんな光景は思い描けなかった。


「斗話くん、もうちょっとこっち!」


 にんちゃんに呼ばれ、僕は半歩近づいた。


 今度は、シャッターの音がする前に、自然と笑えた。


     


 夜、家へ帰ると、赤ずきんは玄関で眠りかけていた。布団へ運び、頭巾を外してやってから、僕は父の書斎へ寄った。


 本棚の扉は閉じていた。今夜は、何も光っていない。


 机の端に置かれた父の写真を見て、スマホを取り出した。カグヤから、さっきの集合写真が届いていた。


「……ずいぶん賑やかになったよ」


 父は写真の中で、相変わらず、笑っているのかいないのかわからない顔をしていた。


「今日、人魚姫が歌ったんだ。父さんにも、聴いてほしかったな」


 そう言うと、目の奥が熱くなった。今度は、無理にこらえなかった。


 廊下から、母の声がした。


「斗話、お茶淹れたわよ」


「うん。今、行く」


 僕は目元を拭き、写真の父に小さく頷いてから、書斎を出た。


 台所で、母が湯呑みを二つ並べていた。


「今日の歌、よかったわね」


「うん。……父さんの好きだった曲って、どんなの?」


 母は少し驚いた顔をして、それから、椅子を引いた。


「あの人ね、意外と賑やかなのも好きだったのよ」


 僕も向かいに座った。今夜は、急いで話を切り上げる理由がなかった。




おわり



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。