童話のまち ep人魚姫
みなさんは小さい頃好きだった童話はありますか?好きな主人公はいますか?
童話の住民たちは
『おしまい、おしまい』
で結末を受け入れてると思いますか?
トラウマや問題を抱えた童話の住民たち…
その一つ一つを解決していく、
これもまた一つの物語……
離婚届は、テーブルの上ではなく、僕の胸のあたりに叩きつけられた。
「もう無理。晃さんと一緒になる」
紙の角が鎖骨に当たり、乾いた音を立てて床に落ちた。四年間、一緒に暮らしてきた妻が、僕の知らない男の名前を口にしている。そのことに、妙に現実感がなかった。
「……いつから」
「半年前。ずっと言おうと思ってた」
半年前、自分が何をしていたかを思い出そうとした。残業続きで、休日は寝てばかりで、美和子が「最近ちゃんと話してないね」と言った日があった気がする。あのとき、何と答えたのかは覚えていなかった。
妻は、その週末に出ていった。段ボール三つとキャリーケース一つ。四年分の暮らしがそれだけに収まることに、僕は妙な感慨を覚えた。
一人になった部屋で、換気扇の音を聞いていた。その静けさを破ったのは、母からの電話だった。
「斗話……お父さんが」
声だけで、全部わかった。
葬儀を終えたあと、僕は大分の実家の縁側で、川の音を聞いていた。
子供の頃、父と釣りをした川だった。何時間も竿を並べて、結局、一匹も釣れなかった記憶がある。帰るとき、父は不満そうな顔もせず、僕の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれた。
あの日、父は何を考えていたのだろう。
もう聞けないと思った途端、離婚のことも父のことも一緒になって、喉元までせり上がってきた。けれど涙は出なかった。ただ、川の音が遠くなったように感じた。
東京に戻っても、仕事には身が入らなかった。半月後、僕は退職を申し出て、賃貸マンションを解約した。
三十歳、無職、バツイチ。童田斗話という男を説明する言葉が、ずいぶん短くなってしまった。
人口およそ大分県の千人の語里町へ帰ると、母は「おかえり」とだけ言った。その夜の食卓には、二人で食べきれないほどのおかずが並んだ。
父の書斎を片付け始めたのは、それから数日後のことだ。
壁一面の本棚には、童話や昔話がぎっしり詰まっていた。その奥に一つだけ、古い木の扉がついた棚があった。
「あれ、開かないのよ。お父さんに聞いても、『そのうちな』って」
母の言う通り、押しても引いても動かなかった。ところが、その夜、本の整理に疲れてうたた寝をしていると、扉の隙間から柔らかな光が漏れていた。
中にあった革張りの本を開くと、一文だけが記されていた。
『この本棚は、月に一度ひらきます。その物語のものは、あなたの手助けになるでしょう。』
寝ぼけた頭で、そばにあった「うらしまたろう」を読んだ。何も起こらなかったので、そのまま寝た。
翌朝、釣竿を持った男が玄関に立っていた。
*
それからの僕の生活は、説明するほど嘘っぽくなるものになった。
最初に来た浦島太郎は、女性が怖く、魚も苦手だった。何があったかは、竜宮城の結末を思い出してもらえれば、大体察しがつくと思う。
その「うらちゃん」は今、町の食堂「たいせい」で働いている。料理を覚え、少しずつ魚にも触れるようになった。得意料理は、とり天だった。
次に来たかぐや姫は、ギャルになっていた。昔こちらへ呼ばれたときに雑誌を読んで影響されたらしい。写真館に勤め始めたカグヤは、今では町の風景を撮って発信し、十五万人ものフォロワーを持っている。
赤ずきんは「静寂の森の狩人」を名乗り、うちから小学校へ通っている。ウサギと亀はリフォーム屋で働き、金太郎は木こり、一寸法師は裁縫屋の見習いになった。
父が生前に買い取った隣の古い団地は、いつの間にか、童話の登場人物たちの住まいになっていた。母は炊く米の量を増やし、僕は動画編集の仕事を始めた。
皆、それぞれ困ったところがある。けれど、その世話を焼いているうちに、僕自身も、起きてから寝るまでの時間を持て余さなくなっていた。
ある夕方、リフォーム中の家の前を通りかかると、中から言い争う声が聞こえてきた。
「亀さんよ、段取り悪くてため息ばかり。あんたの采配、今日も心配」
「……おまえ、なんやその言い方」
以前は上司と部下として揉めていた二人だ。最近ようやく相棒になったと聞いていたので、僕は足を止めた。
「あの、二人とも大丈夫?」
「斗話さん、聞いてくれます? 最近こいつ、動画サイトでラップバトルばっかり見とるんですわ」
「かっこよくて」
長い耳を持つウサギは、落ち着いた顔で答えた。
「板を切れ、心も磨け。倒壊すんな、後悔すんな」
「ほら、これや! 寸法聞いてるだけやのに、こんなん返ってくんねん!」
大きな甲羅を背負った亀が頭を抱えた。少なくとも、関係が悪くなったわけではなさそうだった。
その夜、食卓でその話をすると、赤ずきんがとり天を頬張ったまま、ぼそっと呟いた。
「……敵を倒す、歴史残す」
「え?」
「……忘れて」
赤い頭巾の下で、耳まで赤くなっていた。この町の童話キャラたちは、日本の文化に影響されやすすぎる。
夕食のあと、書斎に戻ると、本棚の扉がわずかに開いていた。棚の中から手に取った一冊には、美しい尾びれが描かれていた。
僕はその本を枕元に置き、眠りについた。
翌朝、玄関を開けると、巨大な水槽があった。
中に収まっていたのは、長い髪の美女だった。上半身には水着をまとい、下半身の鮮やかな尾びれが、水の中でゆらゆら揺れている。
僕はしばらく、その光景を眺めた。
「……玄関、通るかな」
「最初にそこ気になる?」
水槽の中の彼女が、ぱちんとウインクをした。
「はろー! 人魚姫のにんちゃんでぇ〜す♪」
声を失う運命を背負ったヒロイン、という印象はなかった。朝からずいぶん元気な人だった。
「初めてこっちに来るから、色々教えてくださいね〜!」
「よろしく。とりあえず、その水槽ごと入れる部屋を探そうか」
スマホを取り出し、金太郎に連絡した。亀にも声をかけてもらうと、五分もしないうちに、頼もしい体格の二人が現れた。
「うおお、でっかい水槽ッスね!」
「人魚か。ホンマにおったんやな」
童話の亀に実在を疑われる人魚姫というのも、なかなか妙な光景だった。
二人は水槽を団地の一階へ運び、亀が床を確かめて敷いた板の上に、慎重に下ろした。にんちゃんは、揺れるたびに「わ、わ」と楽しそうに声を上げていた。
「ほな、何かあったら呼んでや」
「いいトレーニングになったッス!」
二人を見送ってから、僕は買い物や食事のことを相談した。
「外に出るときは、誰かに運んでもらうことになるかな」
「あ、それは大丈夫。これがあるから」
にんちゃんは小袋から、青い飴を取り出した。
「魔女にもらったの。舐めると脚が生えて、歩けるようになるんだよ」
「便利だな」
「その代わり、効いてる間は声が出なくなっちゃうんだけどね」
僕は、彼女の手元を見た。声と引き換えに人間の脚を得る。それは、僕の知っている物語そのものだった。
「心配しなくても、時間が経てば元に戻るよ。前みたいに、ずっとじゃないから」
にんちゃんはそう言って、小袋を水槽の縁へ置いた。
声が出ないなら、連絡手段があった方がいい。後日、彼女にもスマホを用意すると、水かきのついた指先で器用に操作し、嬉しそうに笑った。
「これで、歩いてるときも喋れるね!」
ほどなく、僕のスマホには、にんちゃんからの写真が届くようになった。夕焼け、スーパーの大根、食堂のとり天。初めて見るものは、何でも面白いらしい。
ある日の午後、その写真の合間に、メッセージが届いた。
『相談したいことがあるんだよ〜』
*
団地の部屋に入ると、にんちゃんが待ちきれない様子で水槽から身を乗り出した。
「見て、これ!」
スマホの画面には、白いスタジオと、マイクの前に立つ歌手が映っていた。
『The一発撮り』という音楽企画で、編集なしで歌い上げる姿を見せるものらしい。
「もう、鳥肌立っちゃって。何回も見返しちゃった」
にんちゃんは動画を止め、こちらを向いた。
「私も、歌いたいんだ」
「歌、好きだったの?」
「大好き。お姉ちゃんたちと、よく歌ってたよ。でも、向こうだと、なかなか人に聴いてもらう機会がなくて」
話すうちに、彼女の声は少しだけ落ち着いたものになった。
「せっかく、こっちに来られたからさ。挑戦できる場所に来たんだから、やってみたいなって」
僕は頷いた。彼女は水面に指をつけ、小さく輪を描いた。
「昔、大好きな王子様のために、声を失ったことがあるんだ」
「……うん」
「それ自体は、後悔してないよ。あのときは、本気だったから」
顔を上げたにんちゃんは、少し照れたように笑った。
「でも、もう男に溺れたくないんだ。人魚だけに!」
「……今、そのオチ要った?」
「結構、気に入ってるんだけど」
真面目に言い返され、僕は思わず笑ってしまった。彼女も笑ったが、すぐには次の話へ移らなかった。
「声が出なかったときね、言いたいこと、いっぱいあったんだ。好きっていうのも、悲しいっていうのも。でも、うまく伝わらなかった」
彼女はそっと、自分の喉に触れた。
「今度は、ちゃんと声にしてみたい。あの人に届くかどうかは、もういいから」
「……自分のために歌うってことか」
「そういうこと。あ、今の、ちょっとかっこよかったね」
「僕の台詞だけどな」
にんちゃんが、けらけら笑う。その声を聞いているうちに、僕も力になりたくなった。
「歌うとして、音楽の方はどうするんだ? 楽器とか」
「斗話くん、できないの?」
「学生時代、ギターをちょっとだけ。でも、ほぼ弾けないようなものだよ」
「じゃあ、弾ける人探さなきゃ」
落胆するでもなく、にんちゃんは次のことを考え始めた。
文化祭に憧れて買い、数か月で押し入れにしまった自分のギターを思い出した。あの頃、こういう人が一緒にいたら、もう少し続いたのかもしれない。
「とりあえず、みんなに聞いてみようか」
「いいの? ありがとう!」
にんちゃんの尾びれが大きく揺れ、水槽から少し水がこぼれた。僕はタオルを取りながら、仲間たちへ連絡を入れた。
その夜、団地の一室に、いつもの面々が集まった。
うらちゃん、カグヤ、赤ずきん、ウサギと亀、金太郎、一寸法師。こうして一度に揃うと、狭い部屋が余計に狭く見えた。
「亀さん、もう少し前に出てもらえますか。甲羅で扉が閉まりません」
「わいばっかり大きいみたいに言わんといてや。金太郎も大概やで」
「俺、ちゃんと縮んでるッス」
膝を抱えようとして、筋肉が邪魔で抱えられていない。努力していることだけは伝わった。
僕は皆に、にんちゃんの希望を説明した。
「それで、バンドを組めないかと思うんだけど。誰か、楽器できる人いないかな」
「わい、ドラムなら叩けるで」
亀があっさり手を挙げた。
「できるんですか?」
「昔、ちょっとな。現場でも、ハンマー振りながら頭ん中で叩いとる」
「だから時々、余計に叩いてたんですね」
「ウサギ、おまえ、そういうことは言わんでええねん」
続いて、金太郎が腕を上げた。
「俺、ベースやるッス!」
「弾けるの?」
「今から練習するッス! この筋肉あれば、何とかなる気がするッス!」
根拠が、何一つ音楽と結びついていなかった。ただ、毎日の鍛錬を欠かさない男なので、練習から逃げる心配はなさそうだった。
「あの……僕も、できることがあれば」
控えめに手を挙げたのは、うらちゃんだった。
「竜宮城にいた頃、あまりにやることがなくて、琴の練習をしてたんです。ギターとは違うでしょうけど、頑張れば何とか」
「すごい! うらちゃん、私の隣で弾いてよ!」
にんちゃんが身を寄せると、うらちゃんの座布団が、ずずっと後ろへ下がった。
「で、できれば、少し離れた位置で……」
「あ、ごめん。この人、女性と魚が苦手なんだ」
僕が説明すると、にんちゃんは自分の上半身を見て、尾びれを見た。
「私、両方だ」
うらちゃんは、青い顔で頷いた。それでも辞退しなかったあたり、彼も随分たくましくなったと思う。
一寸法師は、小さな鍵盤なら、とシンセサイザーを引き受けた。テーブルの上で正座したまま、礼儀正しく頭を下げる。着ている服だけは、立派なヤンキーファッションだった。
最後に、ウサギがそっと手を挙げた。
「僕は、ラップをやってみたいです」
「やっぱり」
亀と僕の声が重なった。
「にんちゃんさんの歌の間に、ラップを入れるのはどうでしょうか」
「いいね! 男性ラップと女性ボーカルって、かっこよさそう!」
当人同士が乗り気なら、僕が口を挟む理由はなかった。カグヤは撮影と宣伝を、僕は楽器や場所の手配を引き受けることになった。
「……わたしは」
赤ずきんが、煎餅を持ったまま顔を上げた。
「見張る」
「お客さんには、攻撃しないでくれよ」
「……わかってる」
ほんの少し間があったのが、気になった。
翌日、町の楽器店を訪ねると、店主は奥の練習室を貸してくれた。楽器も中古や貸し出しで揃えられた。小柄な一寸法師のために、亀が鍵盤用の台を作り、にんちゃん用には練習室に置ける水槽を用意した。
移動のときは飴で脚を出せても、歌うときには声が要る。そのための水槽だった。
「少しの間なら、陸にいても平気だよ。水槽から水槽に移るくらいなら」
にんちゃんが言うと、金太郎は「運搬は任せるッス」と胸を叩いた。バンドを組む相談で、ボーカルの運搬方法まで決めるとは思わなかった。
目標は、月末のハロウィン祭りだった。町のカラオケ大会のあとに、バンド演奏の枠がある。楽器店の店主が話をつけてくれて、一曲だけ出演できることになった。
「音楽の方は、僕はノータッチでいくから」
「任せて!」
にんちゃんが元気よく答えた。
仕事を終えた皆が夜に集まり、練習が始まった。金太郎が指の力加減を間違えたり、一寸法師が鍵盤の端まで走ったりと、傍から見れば忙しそうだったが、僕が迎えに行く頃には、いつも誰かが笑っていた。
うらちゃんも、にんちゃんと距離を取りながら、ちゃんと同じ部屋で過ごしていた。帰り道にそれを言うと、「弾いてる間は、手元を見るので」と、少し嬉しそうに答えた。
ある日、締切りを片付けて練習室へ向かうと、廊下まで重い音が響いていた。
僕は扉の前で足を止めた。
(……あれ?)
頭の中にあった、静かで感動的なバラードのイメージを勝手に考えていたが、少しだけぐらついた。
中から「もう一回!」というにんちゃんの声がしたので、邪魔をせず帰ることにした。本番を楽しみにしておこうと、そのときは思った。
ハロウィン祭りの当日、僕は赤ずきんと手を繋いで、屋台の並ぶ通りを歩いていた。
「あれも、食べたい」
「さっき食べたばっかりだろ」
「……別腹」
たこ焼き、りんご飴、フランクフルト。狩人としての矜持より、今日は食欲が勝っていた。次の屋台を見つけるたび、握った手が強く引かれる。
カグヤの宣伝のおかげか、見慣れない若い人の姿も多かった。町の古い店を背景に写真を撮る人たちを見て、店のおばちゃんまで、少し背筋を伸ばしていた。
特設ステージでは、カラオケ大会が行われていた。
「次の方、どうぞ〜」
呼び込まれたのは、写真館のシュンだった。カグヤの雇い主で、僕の昔からの友人でもある。マイクを握ると、胸に片手を当て、朗々とバラードを歌い始めた。
(ああ、これ、学生時代にも見たな……)
女の子とカラオケに行くと、決まってやっていた歌い方だった。今見ると、少し気恥ずかしい。けれど客席では、普段は彼を一喝する奥さんが、うっとりと聴き入っていた。
もしかして、あの歌で落とされた口だろうか。余計なことを口にするのはやめて、僕も拍手をした。
カラオケ大会のあとは、町のおじさんたちのバンドだった。懐かしいインストや、聞き覚えのある洋楽が、広場に流れていく。子供の頃、父と祭りに来たときも、こんな演奏を聴いた気がする。
母を見つけて声をかけると、彼女はステージを眺めたまま言った。
「お父さん、ああいうの好きだったのよ」
「そうなの?」
「聴いてると帰りたがらなくてね。あんたは、お腹すいたって騒ぐし」
そんなことは覚えていなかった。父はいつも、僕が飽きれば一緒に帰ってくれていたから。
「今日は最後まで聴けるな」
「あら、赤ずきんちゃんは大丈夫?」
「……まだ食べられる」
「その心配じゃないよ」
母が笑い、僕も笑った。ステージの演奏が終わり、舞台係の人たちが慌ただしく動き始めた。
いよいよ、あのバンドの出番だった。
大きな水槽がステージ中央へ運ばれ、客席からどよめきが上がった。にんちゃんは中から小さく手を振っている。いつもより少し、動きがぎこちなかった。
ドラムの前には亀、ベースを構えるのは金太郎。うらちゃんはギターの位置を確かめ、一寸法師は小さな台へ上がった。ウサギがマイクを持つと、会場のあちこちから「かわいい」「でかい」と、まちまちな感想が聞こえてきた。
ハロウィンでよかった。普段なら必要だった説明が、今日は一つも要らない。
僕は赤ずきんを肩車して、前の方へ進んだ。彼女が手を上げると、にんちゃんが気づき、口元を緩めた。
「こんばんは。人魚姫の、にんちゃんです」
マイクを通した声が広場に響いた。
「今日、初めて皆さんの前で歌います。最後まで、聴いてくれたら嬉しいです」
にんちゃんが後ろを振り返り、亀と目を合わせた。
曲が始まった。
一寸法師のシンセサイザーが、夜の広場へ音を広げた。その直後、うらちゃんの激しいギターリフが、空気を切り裂いた。
金太郎が太い弦を弾き、亀のドラムが腹の底へ響いた。さっきまでの穏やかな演奏とは、明らかに毛色が違う。ゴリゴリのROCKだった!!
目の前のおじさんが、口を開けたまま固まった。僕も、多分同じ顔をしていた。
(……そっちなのか!)
竜宮城で琴を習っていた男が、凄まじい顔でギターを弾いている。隣では金太郎が、一音ごとに全身で頷いていた。亀は、普段の現場よりよほど忙しそうだった。
その音の中へ、にんちゃんの声が入った。
深い海の底
光の届かない場所で
私はずっと 空を見ていた
I wanna see the world above
I wanna know what they call love
まだ知らなかった
その願いが
私のすべてを奪うなんて
澄んだ声だった。さっきまでの勢いに驚いていた客席が、少しずつ静かになっていく。
嵐の夜 砕けた船
黒い波に沈んでいく影
あなたを抱いて 海を越えて
初めて触れた 人のぬくもり
歌われている物語に、覚えがあった。
海の世界に生きる少女が、人間に恋をする。嵐の夜に王子を救い、けれど名乗ることもできずに、海へ帰る。
朝焼けの浜辺
眠るあなたを見つめながら
名前も告げず
私は海へ戻った
あなたが目を覚ますころには
私はもうそこにいない
それでも胸の奥で
何かが始まっていた
にんちゃんが、マイクを握り直した。
澄んだ歌声の合間に、悲しみを叩きつけるような声が混じった。それは、僕が勝手に想像していた、優しくて綺麗なバラードではなかった。
そこへ、英語のラップが切り込んだ。
Deep in the blue, I came for you
Saved your life, but you never knew
No name, no sign, no proof, no clue
I lost my world just to get to you
ウサギだった。仕事の指示にまで韻を踏んでいた男が、今は一度も言い淀まず、マイクへ言葉を叩き込んでいる。
亀がスティックを振り上げ、音が一気に膨らんだ。
CAN YOU HEAR ME!?
声にならない声で
何度あなたを呼んだだろう
I'M RIGHT HERE
RIGHT IN FRONT OF YOU
あなたを救ったのは
私なのに
にんちゃんの声が、夜空へ突き抜けた。
その瞬間、僕はようやく、この曲が彼女の歌なのだと実感した。人魚姫の物語を借りて歌っているのではない。目の前にいる彼女が、あの日、言えなかったことを歌っていた。
叫べない
伝えられない
この喉にはもう
何も残ってない
I gave my voice
I gave my world
ただあなたに
気づいてほしかった
隣で母が、小さく息を吐いた。僕はステージから目を離せなかった。
にんちゃんは歌い続けた。人間の脚を得て会いに行ったこと。声がなくても、そばにいられればと思ったこと。王子が別の人を見つめる隣で、気持ちを伝えられなかったこと。
いつも笑って話していた彼女の口から、こんな声が出るとは知らなかった。
けれど、苦しそうなだけではなかった。ギターへ顔を向け、うらちゃんと一瞬目を合わせたにんちゃんは、確かに笑っていた。
客席の誰かが、拳を上げた。
次のリズムに合わせて、もう一人が体を揺らした。亀のドラムを真似する子供がいて、金太郎に向かって声を上げる木こり仲間がいた。最初に口を開けていたおじさんまで、膝を叩いていた。
「にんちゃーん!」
カグヤの声が飛んだ。肩の上の赤ずきんも、いつもの仏頂面を忘れて腕を上げていた。
ステージの前方では、シュンが客たちに担ぎ上げられていた。
「うおおお、最高だああ!」
「シュン!」
妻の一喝で、次に見たときには地面へ戻されていた。僕は少し笑って、それからまた、にんちゃんを見た。
最後のサビの前、演奏が静かになった。
にんちゃんは両手でマイクを包み、一度、ゆっくり息を吸った。
あなたに届かなかった言葉は
まだ私の中にある
好きだったことも
悲しかったことも
今日はこの声で 歌っていいかな
何も言えなかった日のことを、僕も思い出していた。
離婚届を見下ろしたまま、聞きたいことを飲み込んだ。父とも、次に帰ったときに話せばいいと、何度も思っていた。
同じ後悔ではない。それでも、相手がいなくなったあとに言葉だけが残ることを、僕は知っていた。
にんちゃんが、客席へ顔を上げた。
亀のドラムが戻り、ギターとベースが重なった。彼女はその音を受け止めるように背筋を伸ばし、最後のサビを歌い上げた。
CAN YOU HEAR ME!?
声にならない声で
何度あなたを呼んだだろう
I'M RIGHT HERE
今はここにいるよ
あの日言えなかった想いごと
私は歌っている
伸ばした声が、わずかに震えた。それでも、にんちゃんは止まらなかった。
I have my voice
I have my world
もう一度 この声で
明日も歌いたい
最後の音が夜空へ伸び、やがて、仲間たちの演奏と一緒に消えた。
にんちゃんはマイクを握ったまま、客席を見ていた。
赤ずきんが、僕の肩の上から叫んだ。
「……聞こえた!」
その声に重なるように、拍手が広がった。
母が手を叩き、店主が大きな声で名前を呼んだ。カグヤはカメラを構えたまま何か叫び、金太郎はステージの上で、両拳を突き上げていた。
にんちゃんが笑った。その目元が光っているのが、前の方にいた僕には見えた。
演奏を終えた皆のもとへ行くと、亀は腕を回し、金太郎は床に座り込んでいた。一寸法師も鍵盤の台の上で、両手をぶらぶらさせている。
「皆、お疲れさま。すごかったよ」
「指が、筋肉痛になりそうッス……」
「そこも鍛えるつもりか?」
「明日から、考えるッス」
懲りない男だった。うらちゃんはギターを抱えたまま、まだぼんやり笑っていた。
水槽に近づくと、にんちゃんが顔を出した。
「斗話くん、どうだった?」
「びっくりしたよ。こんなに激しい曲だと思ってなかった」
「えー、言ってなかったっけ?」
「言ってない」
「そっか。ごめんごめん」
まったく深刻でない謝り方に、僕は笑った。にんちゃんは水槽の縁に両腕をのせ、さっきまで自分がいたステージを振り返った。
「最初ね、すっごく怖かった。皆、見てるんだもん」
「そりゃ、見に来てるからな」
「そうなんだけど。でも、歌い始めたら、うらちゃんが弾いてて、亀さんが叩いてて。あ、ちゃんと皆いるんだって思ったら、声、出た」
うらちゃんが照れたように視線を逸らし、亀は「当たり前やろ」と笑った。
「最後、ちょっと泣いてなかった?」
僕が聞くと、にんちゃんは頬に触れた。
「あ、わかった?」
「近くで見てたから」
「……ちゃんと聴いてくれてるんだなって、思ったらさ」
にんちゃんは、少しの間、黙った。それから、いつもの屈託のない笑顔になった。
「ちょーー楽しかった〜!」
笑い声が広がった。僕も笑いながら、目元を指で拭った。
かつては、大好きな人に会うために、その声を手放した。今夜、彼女は自分の声で歌い、たくさんの人に名前を呼ばれた。
さっきの「楽しかった」が、いつまでも耳に残っていた。
「ねえ、次もやろうよ。今日、一曲だけだったし」
「今からはあかんで。わいの腕、もう閉店や」
「今からじゃないよ!」
ウサギが吹き出し、金太郎は「次までに鍛えるッス」と頷いた。うらちゃんも、一寸法師も、もう次の話をしていた。
カグヤが、僕たちにカメラを向けた。
「はい、皆こっち! 水槽の近くに寄って〜!」
僕は赤ずきんを下ろし、仲間たちの間に立った。金太郎の肩がぶつかり、亀の甲羅に押され、うらちゃんが慌てて場所を空ける。にんちゃんは水槽から身を乗り出し、笑っていた。
数か月前、この町に帰ってきたとき、こんな光景は思い描けなかった。
「斗話くん、もうちょっとこっち!」
にんちゃんに呼ばれ、僕は半歩近づいた。
今度は、シャッターの音がする前に、自然と笑えた。
夜、家へ帰ると、赤ずきんは玄関で眠りかけていた。布団へ運び、頭巾を外してやってから、僕は父の書斎へ寄った。
本棚の扉は閉じていた。今夜は、何も光っていない。
机の端に置かれた父の写真を見て、スマホを取り出した。カグヤから、さっきの集合写真が届いていた。
「……ずいぶん賑やかになったよ」
父は写真の中で、相変わらず、笑っているのかいないのかわからない顔をしていた。
「今日、人魚姫が歌ったんだ。父さんにも、聴いてほしかったな」
そう言うと、目の奥が熱くなった。今度は、無理にこらえなかった。
廊下から、母の声がした。
「斗話、お茶淹れたわよ」
「うん。今、行く」
僕は目元を拭き、写真の父に小さく頷いてから、書斎を出た。
台所で、母が湯呑みを二つ並べていた。
「今日の歌、よかったわね」
「うん。……父さんの好きだった曲って、どんなの?」
母は少し驚いた顔をして、それから、椅子を引いた。
「あの人ね、意外と賑やかなのも好きだったのよ」
僕も向かいに座った。今夜は、急いで話を切り上げる理由がなかった。
おわり




