可愛いって言う人の方が、可愛い ~ステップ・バイno.2
スマホが震えた。
『ついたよ』
短いメッセージ。心臓が跳ねる。
鏡を見ていた結流は、慌ててスマホと鞄を掴んだ。さっきまで「変じゃないかな」「浮いてないかな」と何度も確認していた髪も服も、一瞬でどうでもよくなる。
やばい。
待たせる。
本当はエントランスで待っているはずだった。エレベーターの閉まるボタンを連打しながら、自分でも意味がわからないくらい焦っていた。
・・・だって、やっと会える。
あの音楽番組の収録から1ケ月。連絡先を交換してから、今では2・3日に1回はメッセージをやり取りしていた。
最初は、お礼のゴハンの日程調整だった。
『来週の水曜なら空いてます』
『ごめん、その日レコーディング入った』
『じゃあ再来週は?』
『行けそう!』
そう思った翌日。
『ごめんなさい。ドラマの撮影 日程変更で、行けなくなりました』
送信した直後、結流はスマホを握り締めた。せっかく合わせた予定だったのに。
申し訳なさすぎる。
けれど返ってきたのは。
『仕事なら仕方ないよ』
『忙しいの?』
最後に笑顔のスタンプ。
責める気配なんて欠片もなかった。
それどころか。
『撮影どう?』
『ちゃんと寝れてる? 忙しくても睡眠は大事だよ』
そんなメッセージが時々届くようになった。
結流も気づけば返信していた。
『眠いです』
『今日も朝五時起きでした』
『えらい』
『佐伯さんは?』
『俺?』
『今、移動中』
『車で爆睡してたとこ』
思わず吹き出した事もある。
トップアイドルなのに。やり取りをしている時の佐伯さんは、思っていたよりずっと普通で。
優しくて。
少し意地悪で。
でも、メッセージが来ると嬉しかった。
次クールのドラマ出演も決まり、結流の撮影はさらに忙しくなった。
佐伯さんも雑誌撮影や番組収録で休みが少ない。
それでも。
お互いのオフを確認して。予定を擦り合わせて。何度も調整して。
ようやく今日になった。
音楽番組で助けてもらったお礼にゴハンをおごる。
その約束を果たすための日。ただ、それだけのはずだった。待たせるなんて、失礼すぎる。それも大人気トップアイドル。
エントランスを抜け、そのままマンション駐車場へ走る。
そこで、足が止まった。
大きな黒いSUV。
その横に、佐伯さんが立っていた。
車にもたれかかるようにして、軽く片手を上げる。
「おはよ。今日も可愛いね」
一瞬、結流の顔が熱くなる。可愛いって言われた!
でも、そう言う佐伯さんの方が素敵だった。
濃い茶色のベストに、黒のサングラス。インナーはラフなのに、全体のバランスが妙に洒落ている。手足も長い。何でもない格好なのに、雑誌の一ページみたいだった。
えっ、私服ですよね? 衣装とかじゃなくて。
結流は一瞬、自分の服装を確認したくなるが、心の奥底に押し込む。これ以上考えても、どうしようもできなかった結果だ。
同じ芸能人のはずなのに、全然違う。テレビで見慣れているはずなのに、画面越しと実物も全然違う。眩しい。その一言に尽きる。
淡い色に脱色した髪がふわりと揺れた。綺麗なのに、ちゃんと男の人だ。
喉仏とか。
ベスト越しに見える肩のラインとか。
手の大きさとか。
そういうものが不意に目についてしまう。
そして、そのたびに心臓が変な音を立てる。
佐伯さんが首を傾げた。
「結流ちゃん?」
「っ、はい!」
慌てて返事をする。
不思議そうに瞬きをした後、少しだけ笑った。
「そんなに急がなくても大丈夫だよ」
その笑顔に結流は思わず息を止めた。格好いいとか。綺麗とか。そんな単純な言葉では足りない。
ただ一つだけ確かなのは・・・思わず、どきっとした。
・・・いや、それより。
結流は、周囲を見回す。
帽子もない。
マスクもない。
サングラスだけ。
え、いいの? トップアイドルって、もっとこう・・・変装とかしなくていいの。帽子とかフードとか深く被って、マスクして、絶対バレないようにするものじゃないの?
こっちが勝手に挙動不審になる。
駆け寄った結流に、佐伯さんは自然に笑った。
「お待たせしました」
「大丈夫、待ってないよ」
そう言って、助手席のドアを開けてくれる。
しかも、片手をルーフに添えて。
「頭、気をつけてね」
その仕草があまりにも自然で、結流は一瞬、本気で思った。
・・・これ、夢じゃない?
こんなの、ドラマの中だけだと思ってた。いや、ドラマでも最近こんなベタなの逆に見ない。前クール出演させてもらったドラマの、IT経営者役の人にもそんなシーンはなかった。
「・・・ありがとうございます」
声が少し裏返る。
佐伯さんは気づいているのかいないのか、楽しそうに口元を緩めた。
「緊張してる?」
「・・・してません」
「嘘だ」
即答だった。
ぐうの音も出ない。男の人の運転する車に乗った事なんてない。緊張するなって言う方が無理だ。シートベルトをつける手までぎこちなくなる。
そんな結流を見ながら、佐伯さんはくすくす笑った。
「そんな警戒しなくても食べたりしないよ」
「してませんって・・・」
「してる顔なんだよなぁ」
エンジンが静かにかかる。
高級車特有の、滑るみたいな発進。車内は落ち着いた香りがした。甘すぎない香水の匂い。多分、佐伯さんの。
近い、距離が。助手席ってこんな近かったっけ。
ハンドルを握る長い指。薬指に銀色の指輪。自分より絶対、あの指は細いと思う。
横顔が視界に入るたび、変に意識してしまう。
サングラス越しでもわかる整った輪郭。鼻と顎を結んだラインから唇が出ていないのが理想形って言われてるけど、おぉ・・・本当に出ていない。
信号待ちで頬杖をつく仕草まで絵になるの、どういう事。
不意に、佐伯さんがこっちをみた。サングラスを少しずらす。その仕草一つで色気あるなって思う。
「そんなに見つめられると・・・」
うわーっ。
慌てて前を向く。
くすっと笑い声がして。
「全く見てくれないのも、ちょっと淋しい」
完全にからかわれている。え、あ・・・。でも、どうすればいいの。どこ見れば正解なの? 教えて~。
完全に混乱している結流を横目に、佐伯さんがまたくすっと笑う。
その声がやたら近い。
車内という密室のせいなのか、佐伯さんの声は普段のテレビから流れているより低く聞こえた。
「結流ちゃんさ」
「・・・はい」
「今、トップアイドルと二人きりで車乗ってるって顔してる」
「だって、実際そうじゃないですか・・・」
「ん、そうだね」
あっさり肯定されて、余計に困る。しかも本人に言われると破壊力が違う。
佐伯さんは片手でハンドルを回しながら、ちらりと結流を見た。
「でも今日、仕事じゃないから」
「・・・え?」
「佐伯紬じゃなくて。紬として見て、ね」
一瞬、言葉の意味を理解するのが遅れた。
仕事じゃない。アイドルじゃない。紬として。その意味が遅れて、胸の奥にじわっと落ちる。
ずるい。
そんなの、まともに見れる訳ない。
綺麗だ。男の人に使うのはおかしいかもしれないけど。目元が少し垂れていて、笑うと優しくなるのに、ふとした瞬間に男っぽい鋭さが覗く。
その視線が真っ直ぐ向くだけで、息が止まりそうになる。
「そんな驚く?」
「・・・驚きますよ」
「なんで」
「なんでって・・・」
あなたが顔面強すぎるからです。とは、真正面からとても言えない。結流が口ごもっていると、佐伯さんは楽しそうに口角を上げた。
「ね、結流ちゃん」
「・・・はい」
「今日、いっぱい困った顔してくれるね」
完全に遊ばれている。わかっているのに、どうしようもない。
ドキドキしているうちに、車がゆっくり減速した。
「ついたよ」
佐伯さんの声に、はっと顔を上げる。いつの間に着いていたのかわからない。緊張しすぎて、途中の景色の記憶がほとんど飛んでいた。
地下駐車場らしい静かな空間に、SUVが滑り込む。エンジンが止まる。
その途端、妙に静かになって、結流は余計に緊張した。
「あ、えっと・・・」
慌ててシートベルトを外そうとして、少し絡まる。
最悪。
すると隣で、小さく笑う気配がした。
「そんな焦らなくても大丈夫だよ」
「違います・・・!」
半分反射で返すと、佐伯さんが肩を揺らした。
先に車を降りて、助手席のドアを開ける。本当に自然に。当たり前みたいに。
ちょっと腕を伸ばして、佐伯さんの髪が一瞬、結流の頬をかすめる。さっきから感じていた香水の匂いが強く感じられて。
シートベルトが外れる音がした。
「どうぞ、お姫様」
「・・・っ」
そういうの。そういうのを、さらっと言う。
結流が固まっていると、すっと手を差し出した。反射みたいに、その手を取ってしまう。温かい。指が長い。
軽く引かれるだけで、簡単に立ち上がれてしまう。
その一連の動作があまりにも自然で、拒否するとか、遠慮するとか、そんな発想自体が浮かばなかった。気づけばそのまま隣を歩いている。
エレベーターに乗って。
廊下を歩いて。
案内されたのは、落ち着いた和食店の個室だった。
柔らかな間接照明。
静かな空気。
木の香り。
店員が去って襖が閉まると、急に二人きりという事実に心臓の音が早くなる。
「ここの和食、オススメなんだよ」
向かいに座った佐伯さんが、メニューを開きながら笑った。
「魚も美味しいし、だし巻き卵がめちゃくちゃ好き」
「・・・だし巻き卵」
「うん。あと土鍋の炊き込みご飯」
好きなものを話す声が、少し子供っぽくて、結流は瞬きをした。
テレビで見る佐伯紬は、もっと完成されたアイドルだ。隙なんてなくて、何でも器用にこなして、キラキラしている。
なのに今目の前にいる佐伯さんは、美味しいだし巻き卵の話を嬉しそうにしている。
そのギャップが、ずるい。
料理が運ばれてくる。小鉢が並び、湯気が立ち上る。色とりどりの料理はどれも綺麗で、見ているだけで少し緊張した。
佐伯さんがすっと手を合わせる。
「いただきます」
その声に、結流の声が重なった。
「・・・いただきます」
ちら、と視線を上げる。
目が合った。
佐伯さんが、にっこり笑う。
それだけで、また心臓がうるさくなる。もう駄目かもしれない。
結流は慌てて箸を取った。
その瞬間、ふと気づく。
・・・あれ。
自分、箸の持ち方、大丈夫だっけ。
急に不安になる。
変じゃない?
ちゃんと綺麗に持ててる? こういう高級そうなお店で、変な持ち方していたらどうしよう。
視線を上げると、佐伯さんがちょうど魚を口に運ぶところだった。
綺麗だった。
驚くくらい。
箸の使い方も、器の持ち方も、食べる動作全部が自然で上品なのに、嫌味がない。育ちがいいのかもしれないけれど、それより人に見られる仕事をずっとしてきた人の所作だった。
口に運ぶ角度まで絵になるの、何。
結流はそっと自分の箸を見る。
大丈夫かな。ちゃんと食べれてるかな。口元、変じゃないかな。
さっきから気になる事ばかり増えていく。
「おいしい?」
すぐに聞かれる。
「・・・お、おいしいです」
「ほんと?」
その言い方が、あまりにも恋人みたいで。
結流は危うく箸を落としかけた。
「だ、大丈夫です・・・!」
「ほんとに? 嫌いなものあったら、言ってね。俺、食べてあげるから」
「・・・っ!」
嘘だった。好き嫌いは普通にある。ほんとはミョウガはちょっと苦手だし、オクラも得意じゃない。
でも今はそんな事どうでもいい。何を食べても、美味しいしか出てこない。
だって向かいに佐伯紬がいる。
しかも自分を見て笑っている。そんな状況で、冷静に味なんか判定できる訳がなかった。
佐伯さんはそんな結流を見ながら、楽しそうに目を細める。
「結流ちゃんって、ほんと顔に出るね」
「・・・出てません」
「出てる出てる。可愛い」
くすくす笑われる。
悔しい。悔しいのに。その笑顔を見ていると、もっと見たいと思ってしまう。
誤魔化すように、結流はそっと湯呑みに口をつけた。熱いお茶が喉を通る。それでも、全然落ち着かなかった。
デザートのアイスもそろそろ終わり頃。
佐伯さんが満足そうに息をついた。
「久しぶりに、ゆっくりゴハン食べたかも。ありがと」
柔らかく微笑まれる。その破壊力が、近距離だと異常だった。
まだアイスを食べ終わっていなかった結流は、危うくスプーンを落としかける。
「・・・」
慌てて持ち直す。恥ずかしい。絶対今、動揺したのバレた。
しかも佐伯さんは、そんな結流をじっと見ている。
逃げ場がない。
「あの・・・」
耐えきれず声を漏らすと、佐伯さんが少し目を細めた。
「凄くおいしそうに食べてる結流ちゃん、可愛」
ぶわっと顔が熱くなる。またそれ。
さらっと言う。アイドルってこんなに自然に可愛いって言える生き物なの?
結流は視線を落とした。
無理。
まともに見れない。何とか、最後の一口を食べ終わる。お茶も一口。
佐伯さんはそんな反応すら面白そうに見つめていたが、「ごちそうさま」と呟く。結流も「ごちそうさまでした」と手を合わせる。
「じゃ、行こうか」
「あ、はい」
慌てて鞄を掴み、斜め後ろを歩く。
店を出て、そのまま廊下を。
そして結流は気づいた。
・・・あれ。
会計。
「あのっ」
思わず声を上げる。
佐伯さんが振り返った。
「ん?」
「お、お会計・・・!」
今日の食事代でチャラ。
そういう話だったはずだ。
だからキャッシュカードも忘れず持ってきたし、現金しか使えない店だった時のために財布の中もしっかり確認してきた。
なのに佐伯さんは、あっさり言った。
「もう払ってあるよ」
「・・・え?」
一瞬、意味がわからない。
「だって、あの・・・」
『フライデー・ミュージック・パレス』で助けてもらったから。だからゴハンをおごるって話だったはず。間違ってない。
「結流ちゃんと一緒にゴハン食べられただけでOKだよ」
え。
そんな事ある?
結流が固まっていると、佐伯さんは少しだけ背伸びして、視線を合わせた。
「可愛い子が、美味しそうに、一緒にゴハン食べてくれたんだよ?」
そう言って、また自然に手を取られる。
温かい。
大きい。
でも今度は、それだけじゃなかった。
するり、と指が絡む。恋人繋ぎ。
「・・・っ」
頭の中が真っ白になる。
え。待って。
恋人繋ぎって。
普通にするものなの?
「え、と。あの・・・」
声が震える。
佐伯さんはそんな結流を見て、少し困ったように笑った。
「手、繋ぐの、いや?」
上目遣いだった。
そんな顔、反則だと思う。嫌とか、そういう話じゃない。
むしろ嫌な訳がない。ただ心臓が限界なだけで。
「・・・嫌じゃ、ないです・・・」
絞り出すみたいに答えると、佐伯さんは嬉しそうに笑った。
「よかった」
そのまま手を繋いで歩き出す。
廊下を抜けて。
エレベーターに乗って。
地下駐車場へ向かう。
指が絡んだまま、離れない。そのたびに鼓動が跳ねる。恋人繋ぎなんて、ドラマの中の話だと思っていた。
なのに今、自分の手の中には佐伯さんの熱がある。
夢みたいだった。
いや、多分まだ、ちゃんと現実だと理解できていない。
車に乗り込み、シートベルトを締めても、まだ現実感が薄い。
エンジンがかかる。
静かな車内。少しだけ名残惜しい空気が流れていた。
しばらく走った後、赤信号で車が止まる。
佐伯さんがふっと息を吐いて、ハンドルに額を預けた。
「ほんとはこの後、ちょっとドライブでもしたいなって思ってたんだけど・・・」
その声が少し残念そうで、結流は瞬きをする。
佐伯さんがちらりとこちらを見た。
「この後、仕事なんだよね」
「あ・・・」
「だから、今日はここまでね」
十分ですっ。・・・と言おうとして。でも、胸の奥に小さく残った感情に気づく。
ちょっと淋しい。
もっと一緒にいて、いろいろ話したかった、かも。そんな気持ちが顔に出ていたのかもしれない。
佐伯さんが優しく笑った。
「またデートしようね」
・・・デート?
結流の思考が止まる。
これってデートだったの?
いや、そういう雰囲気ではあった。あったけど。人生初デートすぎて、基準がわからない。
いや、今世、初デートだけど。今世って思いながら、前世の記憶なんてないけれども。
しかも、またって。
次があるの?
からかわれてる?
混乱しているうちに、車はいつの間にかマンション前へ戻ってきていた。
「着いたよ」
助手席のドアが開けられて、佐伯さんに手を取られる。
「ねぇ、」
佐伯さんが少し屈む。いたずらっぽく笑いながら、覗き込むように顔を近づけてきた。
「お願い、聞いてくれる?」
「・・・おねがい?」
幾らでも聞きますけど? 助けてもらって、最近は優しいメッセージまでもらって。だから、深く考えずに頷く。
「俺、結流ちゃんの恋人候補にしてくれる?」
は?
一瞬、本当に意味がわからなかった。
夢?
これ夢?
ほっぺ、つねった方がいい? あの佐伯紬が恋人候補って言った。恋人になりたい人達が目の前で行列を作ってるような人が。
それに、言うなら逆でしょ。恋人にしてあげてもいいよ、か。私が恋人にしてくださいって、言う方でしょ。
結流の思考は完全に固まった。
そんな結流を見て、佐伯さんは少しだけ困ったように笑う。
その表情がまた反則。笑うと少し下がる目元。やわらかそうな髪。アイドルらしい整った顔立ちなのに、近くで見ると男の人で・・・。喉仏、首筋とか、気づくたびに心臓がおかしな音を立てる。
「あとさ」
「・・・は、い」
「紬って呼んでほしいな」
「つ、むぎ・・・?」
名前を口にした瞬間。
佐伯さんが、ふわっと綺麗に笑った。
その笑顔があまりにも眩しくて、結流は見惚れる。
瞬きすら忘れた。
「可愛い」
そう言う佐伯さんの方が、多分可愛い。こんな至近距離で。恋人になって、みたいに言われて。
名前を呼ばせて。
可愛いって笑われて。
心臓が持たない。どきどきしすぎて呼吸がキツい。
佐伯さんが少しだけ距離を縮める。長い睫毛1本1本まで見える。
「もう1コくらい、お願い、聞いてもらってもいいよね?」
「・・・え」
何を言われるのかと思った。これ以上があるの?
「キスしていい? いや?」
頭が真っ白になる。返事をする余裕なんてなかった。
嫌じゃない。
嫌じゃないけど。
待って。本当に? こういうのって、もっと順番があるんじゃないの? さすがに中学生や高校生の学生じゃない自覚はあるけど、でも、もう少し・・・。
近い。
顔が近い。
佐伯さんの肌綺麗。鼻筋も通ってる。そんな余計な事ばかり目に入る。
ゆっくり距離が縮まって。
「・・・っ」
触れた。
唇が。
一瞬だけ。
柔らかく。
熱が移るみたいに。
そして離れて・・・
ちゅ、と。
唇の先を軽く舐められた。
「っ、ぁ・・・」
かああぁぁっと顔が熱くなる。
ヤバい。
初めて。
どういう顔をすればいいの? 目って閉じるのが普通? 開けたままでいいの?
距離、近い。
息がかかる。
佐伯さんの目が細く笑っている。
恥ずかしい。
また顔が近づいてきて。
これ以上無理っ。
結流は反射的に、佐伯さんの両肩を押した。
「・・・っ」
離れたい、というより。
心臓が限界だった。無理。
なのに。
小柄なはずの佐伯さんは、びくともしない。
むしろ余裕そうに、くすっと笑った。
「もしかして、」
耳元に唇が寄る。
ふ、と息がかかった。
「初めてだった?」
「・・・っ」
肩が跳ねる。
図星だった。
その通りなんだけど。
なんだけど、あらためて言葉にされると、死ぬほど恥ずかしい。
何も言えなくなった結流を見て、佐伯さんの目元が少し柔らかくなる。
「そっか」
その声が、思っていたよりずっと優しかった。
「次からは、もう少しゆっくり進めるね」
ぽん、ぽん。
後頭部を軽く撫でられる。
その手が優しくて。
怖い。
こんなの慣れてない。
怖いのに、ちゃんと大事にされている感じがして。
なんだか少し、泣きたくなる。
「部屋まで送る?」
そっと距離が離れる。
佐伯さんは少し心配そうな顔をしていた。
その表情を見た瞬間、結流はまた胸が苦しくなる。どうして、そんな顔をするの? 困らせているのは自分の方。押し返したのも自分の方。
優しすぎる。拒否したんだよ。普通なら、気分害して怒るでしょ。
どうしていいのか、わからない。
「・・・だ、大丈夫です」
「ほんと?」
「はい・・・」
嘘だ。大丈夫じゃない。まだ心臓はばくばくしている。頭もまともに動いていない。
でも、今はこれ以上は、無理。
佐伯さんが手を添えるようにして、ゆっくり車から降ろしてくれる。ガラス細工を扱うみたいに、そっと。
地面に足をつけても、現実感が薄かった。頭がふわふわする。
唇、まだ熱い。
本当に起きた事? 夢じゃない?
「結流ちゃん、おやすみメッセージ送るね」
すぐ近くで声がした。
思わず振り向く。佐伯さんは首を少し傾けていた。駐車場の照明が横顔を照らす。ラフに開いたインナーから鎖骨が覗く。そこに細い銀のチェーン。
テレビで見る可愛い感じと違って、大人の男の人で。
近い。また密着しそうな距離。佐伯さんの香水の匂いがした。
「・・・」
もう無理。
結流は反射的に駆け出していた。
マンションのエントランス前まで走って、ようやく止まる。
「は、っ・・・」
呼吸が苦しい。胸も苦しい。一息ついて。
そこでやっと気づく・・・ありがとう、言ってない。楽しかったも言ってない。美味しかったです、とか。
最悪だ。
ご飯も。送迎も。全部してもらったのに。
結流は深呼吸をした。
そして、そぉぉっと後ろを振り返る。本当に少しだけ。
佐伯さんはまだそこにいた。
車に軽くもたれかかるように立っている。
夜の照明に照らされて、その姿が妙に綺麗だった。ドラマのワンシーンだと錯覚するくらいに。
佐伯さんは結流と目が合うと、ふっと笑う。
そして軽く手を上げた。
・・・バイバイ。
その仕草だけで、また胸が熱くなる。どうしてこんなにカッコいいんだろう。どうして、こんなに優しくしてくれるんだろう。
結流はどう返していいかわからなかった。
わからないのに。
その顔を見た瞬間、さっきの距離とか、息遣いとか、唇の熱とか、全部一気に蘇ってくる。
恥ずかしい。
無理。本当にもう無理。顔が熱い。
結流は慌てて、ぺこりと頭を下げた。
そのまま逃げるみたいにエントランスへ駆け込む。
自動ドアが閉まる直前。
ちらりと見えた佐伯さんは、まだ優しく笑っていた。
読んでくださってありがとうございます(*_ _)
ポイントを入れてもらえると、嬉しいです。




