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カナブン  作者: 中村 渉
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## 第1話:神は僕の顔をしていた

三度目の春は、ひどく冷たい雨と一緒にやってきた。

 スマートフォンの画面に並んだ「不合格」の三文字。それは、小金翔こがね しょうという二十歳の青年にとって、三度目の死刑宣告と同じだった。

 視界が歪む。度を越した厚さの、いわゆる「ビン底メガネ」の奥で、熱いものがこみ上げてはレンズを曇らせた。

「……あはは」

 乾いた笑いが漏れる。

 予備校に通い、深夜まで参考書と向き合い、唯一の趣味であるアニメもゲームも封印して、ただひたすらに医学部への切符を求めた三年間。その結果が、これだ。

 父・仁志は、小さな町で慕われる、太っていて優しい内科医だ。母・美知子は、元看護師で、今でも近所で評判になるほど美しい。二人は決して「医者になれ」と強いたことはない。「翔が自分で決めた道なら、いつだって応援するよ」と言ってくれていた。その優しさが、今の翔には鋭いナイフのように突き刺さる。


 ――僕には、何もない。

 父のような包容力もなければ、その医師という座を掴み取るための知能もない。母のような華やかさも、周囲を照らす明るさもない。明るく頭の良い妹・文とは違い、自分はただ、暗い部屋で自分の影をじっと見つめるだけの、根暗な浪人生だ。


 気づけば、翔は家を飛び出していた。

 パーカー一枚では、川沿いの夜風はあまりに冷たい。だが、心の中の空虚に比べれば、凍えるような寒さの方がまだ「生きている」ことを実感させてくれた。

「どこで死ぬのが、一番迷惑がかからないかな……」

 縁起でもない言葉が口をつく。

 川に映る街灯の光が、ゆらゆらと揺れている。あの中へ飛び込めば、明日から模試の判定に怯えることも、両親への申し訳なさに押しつぶされることもなくなるのだろうか。


 ふと、ポケットの中でスマホが震えた。設定していた「緊急通知」の振動だ。

 通知の主は『ミカリン』。地下アイドルから這い上がり、今やトップアイドルグループの一員となった彼女は、翔にとって唯一の、この辛い現実を忘れさせてくれる「光」だった。


『 奇跡が起きたよおおお!緊急生配信の巻』


 そのタイトルに惹かれるように、翔はYouTubeのアプリを開いた。

 画面が明るくなり、ミカリンの興奮した顔が映し出される。


「みんな聞いて! 信じられないことが起きたの! 私が、あの、あの! 入手困難で有名な『配信者ショウ』様の限定アクリルスタンド、自引きしちゃいましたぁぁぁ!」


 ミカリンが叫びながら、カメラの前に一つのアクリルスタンドを突き出す。その瞬間、翔の心臓が、医学部の合否を確認した時よりも激しく跳ねた。


「……え?」


 画面の中に映っているのは、ミカリンの指先に挟まれた、小さな透明な板。そこに描かれているのは、紛れもなく、小金翔自身の姿だった。


 いや、正確には違う。そこにいる「ショウ」は、ビン底メガネをかけていない。猫背でもない。涼やかな目元、スッと通った鼻筋、わずかに口角を上げた、自信に満ちあふれた「完璧な王子様」の表情をしている。


 だが、その顔立ち、耳の少し上にある小さなホクロの位置、笑った時に少しだけ左に寄る口元のクセ。

 それは、翔が毎日、鏡の中で忌々しく見つめている「自分」そのものだった。

「見てよこのお顔! 尊すぎるでしょ!?」


 画面の中で、最愛の推しが、自分の顔を模した人形に頬ずりをして、うっとりと目を細めている。翔は凍りついたまま、その光景を見つめていた。


「……ショウ? 配信者……? 僕が……?」


 全身に鳥肌が立つ。混乱と恐怖、そして得体の知れない動悸が、冷え切った血を沸騰させる。翔は、震える手で『配信者ショウ』の名前を検索バーに打ち込んだ。

 出てきたのは、チャンネル登録者数、十万人。動画のサムネイルには、どれもこれも「僕の顔」が並んでいた。

 翔は、その中の動画を、恐る恐るタップした。

『今夜も、君の心に触れさせてほしい』

 スピーカーから流れてきたのは、落ち着いた、それでいて耳に心地よく響く、低音の声。かつて「おじさん声優みたいな声だね」とからかわれた、自分の声だった。

『……大丈夫。君は、一人じゃない。僕が、ここにいるから』

 画面の中の「自分」が、こちらを見つめて囁いている。

 翔は、その場に崩れ落ちた。

 死のうとしていた自分と同じ顔が、同じ声が、今、この瞬間に世界中の何万人もの人々に崇められている。


AIに疎い彼には、それが「誰かが作った虚像」であることは分かっても、まさかそれが実の妹の仕業だなんて、露ほども想像できなかった。


「誰だ……誰なんだ、お前は……っ!」


 翔は、叫ぶように声を絞り出した。死にたいという思いは、どこかへ消し飛んでいた。

 代わりに、心臓の奥底で、正体不明の恐怖が冷たく渦巻き始めた。

 僕の人生を。僕の顔を。僕の声を。勝手に盗んで、勝手に輝かせている、この「ナニカ」の正体を。突き止めるまでは、死んでも死にきれない。

 翔は立ち上がり、ふらつく足取りで、自宅へと走り出した。


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