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さあ、我々は深淵への降下を始める。

II.秀忠の夜警と春日坪根の囁き


家康の死とほぼ同時刻。


駿府城の主陣で、徳川秀忠は夜警中、父の居室近くの廊下を通りかかった。わざとではなく、ただ習慣的な警戒心から、無意識のうちに父の寝室に動きがないか目を光らせていたのだ。


今夜は、いつもより静かだった。静かすぎて……異様だった。


秀忠は立ち止まり、固く閉ざされた扉を見つめた。中には蝋燭が灯されていたが、物音一つ聞こえない。父は普段、夜遅くまで書類整理をしており、時折、抑えた咳払いや、囁くような命令の声が聞こえる程度だった。


理由もなく、奇妙な動悸が彼を襲った。まるで、彼の世界を支える、極めて重要な何かが、静寂の中で取り返しのつかない亀裂を生じさせたかのようだった。彼は思わず一歩踏み出し、ノックしようと手を上げた。


「若様」背後から、深く、優しく、それでいて紛れもなく力強い女性の声が響いた。


秀忠の手は震え、引っ込めた。振り返ると、春日坪根が立っていた。父の最も信頼する乳母であり、内廷の長でもある彼女は、柱の陰に静かに立ち、いつものように謙虚でありながらもどこか近寄りがたい微笑みを浮かべ、鋭い視線で彼を見つめていた。


「春日坪根」秀忠は落ち着きを取り戻し、いつもの穏やかな口調に戻った。「今晩巡回していたところ、父の部屋が明るく照らされているのに静まり返っていて、心配になったのだ。」


「殿下は国政を終えられたばかりで、誰にも邪魔されずに静かに考えを巡らせたいと仰せになっております。」春日坪根は軽く頭を下げ、落ち着いた口調で答えた。 「若様の孝行は立派ですが、どうぞお部屋に戻って休んでください。殿下から何かご用件があれば、お呼びいたします。」


彼女の言い分は理にかなっており、態度も礼儀正しく、非の打ちどころがなかった。しかし、秀忠は何か違和感を覚えた。春日坪根のタイミングがあまりにも完璧で、その瞳の奥には、かろうじて抑えられた…震えのようなものが宿っているように見えた。


「そうか…」秀忠はそれ以上追及せず、頷いた。「それなら結構だ。ありがとう、春日坪根。」


彼は踵を返し、いつもの足取りで部屋を出た。しかし、心のざわめきは、まるで湖に投げ込まれた石のように、波紋を広げていった。廊下の突き当たりまで来ると、彼は思わず最後にもう一度振り返った。


父の部屋の扉は、固く閉ざされたままだった。春日坪はまるで彫像のようにそこに立ち尽くしていたが、その視線は秀忠を通り過ぎ、遠く離れた西の丸、竹千代の住む部屋へと向けられ、長い間そこに留まっていた。


秀忠の心は沈んだ。


III. 竹千代の目覚め

西の丸、子供部屋。


竹千代(徳川家光)はよく眠れなかった。夢の中で、祖父(家康)が高い天守閣の上に立ち、いつもの厳しさや孫たちに時折見せるかすかな愛情とは全く違う、奇妙で、複雑で、恐ろしい視線で自分を見つめていた。そして祖父が手を伸ばし、老人の痣とたこに覆われた手がどんどん大きくなり、竹千代を押しつぶし、空を覆い尽くした……


「うっ……」竹千代は飛び起きた。小さな顔は冷や汗でびっしょりだった。乳母の姿はなかった。彼女は恐らく用を足しに行ったのだろう。部屋は暗く、隅にある小さなランプがかすかな黄色みを帯びた光を放っているだけだった。


激しい吐き気と目まいが彼を襲った。まるで体の中で何かが激しくかき混ぜられているかのようだった。泣きたかった。乳母を呼びたかった。しかし、声が出ず、指さえ動かせない。ただ、恐怖に目を見開いたままだった。


そして、彼はそれを「感じた」。


巨大で冷たく、想像を絶するほど重い「何か」が、彼の小さな体の中に、そして彼の繊細な意識の中に、無理やり押し込まれていく。その「何か」は、膨大な量のイメージ、音、知識、計算、そして……底知れぬ頑固な「秩序」への渇望と、かすかな冷たい罪悪感を宿していた。


だめだ!出て行け!窮屈すぎる!痛い!おじいちゃん?おじいちゃんなの?どうして?


竹千代の微かな意識は叫び、もがき苦しんだが、嵐の中の小舟のように、瞬く間に飲み込まれ、覆い尽くされ、意識の果て、最も暗い隅へと押し込められた。彼はまだ外界を「感じ」、巨大な意識が彼の体に順応していく中で時折聞こえる老人の重い溜息を「聞き」、ゆっくりと部屋を見回す彼の目を支配する意識の冷たく品定めするような視線を「見る」ことができた。


しかし、彼は何もできなかった。泣き声さえも、意識の奥底から湧き上がる、絶望的な、絶え間ないうなり声に変わるだけだった。彼は閉じ込められていた。自分の体の最も深い場所に、自分自身でさえ見つけられない暗い檻の中に。


どれほどの時間が経ったのかは分からないが、巨大な意識はこの体に対する支配をようやく安定させたようだった。竹千代(あるいは、新たに宿った家康の意識集合体)は、ゆっくりと、おずおずと、三歳児の小さな手を上げた。



指は細く、肌は柔らかかった。彼はわずかに体を曲げた。動きはまだややぎこちなかったが、制御は急速に身につきつつあった。


彼は顔を向け、青銅の鏡を見た。薄暗い光の中に、青白く震え、涙で濡れた顔が映っていた。しかし、その瞳……かつて竹千代のものであった、澄んでいながらもどこか臆病な瞳は、今や底知れぬほど静まり返り、凍った湖面のように穏やかだった。その底には、60年にわたる政治的陰謀という氷山が渦巻いていた。


家康(竹千代)は鏡に映る自分の姿、いや、むしろ「新しい自分」を見つめた。そこには興奮も感情もなく、ただ絶対的な静寂だけがあった。そしてその静寂の下で、巨大な計算が急速に動き始めた。


第一段階:身体に適応し、異常を隠す。春日坪根が鍵となる。彼女をできるだけ早く完全に制御しなければならない。


第二段階:秀忠の反応を観察する。この息子はどれほど気づくだろうか?



第三段階、そして最も重要な段階――西、伏見城。秀吉、お前も成功したのか?


彼はゆっくりと手を下ろし、目を閉じた。新しい肉体の記憶を辿り始め、竹千代のあらゆる習慣や人間関係を思い出す。同時に、広大な政治、軍事情報、そして人間関係のネットワークが彼の意識の中に鮮明に浮かび上がり、ゆっくりとこの新しいアイデンティティと結びついていく。


背景には、竹千代の元の意識から発せられる、かすかだが執拗なすすり泣きと恐怖のざわめきが、逃れようのない雑音のように残っていた。家康(竹千代)は眉をひそめ、強い意志でそれを抑え込もうとしたが、完全に消し去ることはできなかった。それはそこに存在し、この「再生」の代償と本質を彼に思い出させるものだった。


しばらくして、彼は目を開けた。子供のような無邪気さは消え、代わりに徳川家康の深く、暗く、そして毅然とした眼差しだけがそこにあった。



「召喚」彼は竹千代の声で、しかし家康特有の揺るぎない落ち着きを帯びて、がらんとした部屋に向かって囁いた。その声は柔らかながらも、ひときわ澄み渡っていた。「春日坪根を召喚せよ」


彼は彼女がすぐそばで待っていることを知っていた。


この繊細な肉体の中で、新たな旅が始まった。敵は世界そのものかもしれない。あるいは、同じく西から戻ってきたあの「旧友」かもしれない。あるいは、血縁と倫理観から生じる、この肉体の奥底に潜む、かすかで消えることのない抵抗なのかもしれない。


窓の外では、東の地平線が夜明けの光に淡く染まっている。長く不気味な夜が、まもなく終わろうとしていた。


そしてこの夜、日本の歴史は静かに、暗く予測不可能な道へと滑り落ちていった。

さあ、我々は深淵への降下を始める。

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