第一章 三匹の忌み子
「神様が死んでからもう四年か」ふとそんなことを、ハナノア牧場で遊ぶ子供たちを見て思った。世界は今も荒廃し続けているというのに、この牧場は今日も変わらず穏やかな風と光が流れている。
「森の中には入っちゃだめよー」子供たちに呼びかける。すると子供たちは、はーい!わかってるよアテナお姉ちゃん!と元気な声で答えてくれる。その声は晴天の空へと今日も響いていく。
「さてと…」腰掛けていた丸太から立ち上がり、一度、牧場に寂しくたたずむ自分の家に入る。すぐに裏口から抜け子どもたちに見られないように森の中に入り込んだ。
少しの間獣道を歩き、薄暗い森を抜けた。視界が開ける。毎日見る景色。荒涼とした景色。
この牧場は台地の上にあり、その端は崖のようになっている。ここも台地の端であり、ここからは遠くまで周りの世界を見回すことができる。
目に映るのは廃都、廃村、不毛の山、それと手前の草原を跳梁跋扈する妖たちである。
「何とかしないとな…」この景色をみると、そんな虚構だらけの責任感を毎日感じるが、その責任感はすぐに水面の下に潜って見えなくなる。
凄惨な光景を見下ろしながら手を前に出した。ゆっくりと崖のほうへ歩いていく。崖の縁から二歩手前あたりで足を止めた。手には触り慣れたモヤッとした感触がある。そして、そのまま集中力を高めていく。循環…再生…循環…調律…。
「天より降り注ぐは、大地を潤す水。大地に芽吹くは、我らを育む草木。我らより捧ぐは、天に還る感謝。この世を巡るもの。どうかそのお力、我アテナ・デメテルにお貸しください。」
そう言うと、台地に張り巡らされる結界の綻びが治り、みるみるその力は回復していった。これは私の日課である。結界は時間が経ったり、外から攻撃されたりすると弱まるので、毎朝こうして私たちを守る結界を修復している。この結界は台地全体を覆うように展開されている。
森から帰ってきて、自分の家の畑の土の具合をみていた時だった。
「アテナさん!」牧場で酪農業を営むスパルザートおじさんが肩で息を切りながら目を充血させて走ってきた。
「どうしました?そんなに慌てて…」齢七十後半の老人が全力疾走しているのはなんだか不安になった。
「あの…あ…ハァ…あの…ハァ…ま…エウロスが…」
「ゆっくりで良いですよ…ちゃんと息吸ってください。エウロスくんがどうかしました?」優しくなだめた。
スパルザートさんは息を整え、一拍置いて言った。「『神入り』が始まった。」
私は急いでエウロスくんの家に走った。草原のど真ん中を貫いた小道を駆けていくと、道脇に生える白樺が私の両肩を掠めていく。エウロスくんの家の玄関前にはエウロスくんの姉カリスさんが心配そうに立っていた。その姿はわが子を心配する母親も同然だった。
彼女は私を見つけるなり「アテナ先生!こっちです!」と言うと、家の裏にある牛舎へと導かれた。牛舎に入ると、牛が両脇に立ち並ぶ先に、積み上げられた干し草の上に数人の影がある。その影の元へ走っていくと、その影はエウロスくんの父親のサイフォーンと母親のアルテミス、そして兄のギガースだった。
「アテナ先生!もう始まっちゃってます!」お姉さんと私に気づいた母親アルテミスさんはそう私に叫び求めた。
『神入り』とは神様がその人の魂に宿ることである。私たちは生まれたばかりの頃は体内の気も、魂もそこから出る波動もうまく定まっていない。しかし、生まれて十年ほど経つと気も魂も安定して、その形や波や流れを保てるようになってくる。その過程で魂には、ある空間ができると言われている。といっても概念の問題なので実際に空間があるわけではないのだろうが、その空間に神が宿る。そうして未熟な我らを助け、成長させてくれるらしい。それが昔からのこの世界の言い伝えである。しかし、魂にできる空間には神以外の邪神、堕天使、悪魔、化物なども入ることができる。そのため、神入りが起こる際、こうして巫女が『神降ろし』を行い、清純な神を降ろし、邪を退けておく必要があるのだ。
「皆さん、下がってください。周辺の牛も移動させて。私から半径五メートル以内に入らないでください。皆さんの神様の影響を受けてしまいます。」
目の前には苦しそうに倒れ込むエウロスくんがいる。呼吸が荒く、顔も真っ白である。
人差し指と中指を立て、指先に意識を移し、エウロスくんと自分が入るように地面に向かって空中から四角形を描いて結界を張った。
集中力を高めていく。私たちは極限状態になると天と繋がれる。しかし、神入りの時だけは簡単に天と繋がれる。
両手を広げる。力の発散。死力を尽くして邪を退ける。遠くへ…遠くへ…。
深く息を吸って、祝詞を言い始める。「豊穣の神よ。清廉なる流れよ。どうか清純たる神を、不肖たる私をお導き… … …。」
気がつくとどこもかしこも純白に染まっていた。地面も、空さえも。そんな世界にいた。眼下には果てのない雲海が広がっている。ここが空に浮く島なのか、高すぎる山の上なのかはよく分からないが、どこか神妙な感じがした。
はるか先。雲海の水平線の先から何かやってくるのが見える。魚?龍…?どちらとも思えぬ流線型の何かが無数にこちらにやってくる。
瞬きをした時。もうすでにその何かは私の体を突き抜けていた。流れに流れ、やがて黄金の風になった。だんだん暖かくなり、やがて雲の上で雨が降った。純白が溶けていく。次第に雲の大海原も濁りが晴れ、海の底が見えるようになった。そこには春が訪れていた。
夢と現実の境界が朧だったのだろう。気がつけばすでに正面には安心したように眠るエウロスくんがいた。呼吸、脈ともに安定している。顔色にも血の気が戻っている。何とか成功したようだ。神が死んでから日に日に自分の神の力が弱っている気がする。そして神入りで降ろす神の力も弱まってきている気がする。随分神入りも難しくなってしまったことよ。
「もう大丈夫です。」結界を拭い、エウロス家族に呼びかけた。
「エウロス!」母親のアルテミスさんが真っ先にエウロスに飛びついた。
それに気づいたのか、エウロスくんはゆっくり目を開けた。その瞳は純白の雪の中に芽吹いた一つの若芽のようにも見えた。それは綺麗な萌黄色をしていたのである。
「エウロスくん、調子どう?」母親に抱きしめられるエウロスくんに目を合わせながら優しく訊いた。
エウロスくんは「うん」と言わんばかりに頷いた。だけど、どこか上の空のような、まどろんでいるような状態だった。神入り直後は皆こうなる。
父と兄と姉とおじいさんが皆エウロスくんの元に集まった時、エウロスくんは何か思い出したかのように言った。
「ずっと…長い間。雲の中を浮かんでた。何年経ったの?」その時、エウロスくんの周りに優しく暖かい風が渦を巻いて吹いた。
「大丈夫。数分しか経ってないよ。」そう優しく言った。
その日の暮れ方のことだった。教師としての仕事も農作業も終え、朝に腰掛けていた丸太に座って休んでいた。空は真紅に染まり、遠くには「ホワイショウ」(地球でいうカラスに近い)が真っ赤なドレスについたシミのように飛んでいた。夕方だから子供たちはみんな帰ってしまったのだろうか。風も吹いていない。髪の毛一本そよがず、ハナノア牧場は沈黙に包まれていた。
本当に静かだなぁ…。牛もみんな眠ってしまうくらい…。牛が…眠る…。その時毒物が塗られた針が私を突き刺すような嫌悪感に襲われた。その嫌悪感はある違和感から来るものだとすぐに分かった。ふと前を見た時、先が見えないほど広い草原に放牧されている牛たちが、みんなうずくまり、死んだように眠っていることに気づいたのだ。
「どうしたのかしら…」柵をまたいで倒れ込む牛のもとへ近寄った。近くで見るとあることに気づく。牛がガリガリに痩せこけているではないか。胸椎や肋骨、骨盤の骨の形がくっきりと焦げ茶色の皮膚に浮かび上がっている。そのグロさと衝撃さに思わず息をするのを忘れてしまった。
「どうしてこんなことに…」栄養失調だとか病気だとか色々考えたが、牧場にいる全ての牛がそうなっていたことから、そんな単純な事態ではないことに気がついた。
「豊穣の神よ。どうか死にゆく亡者にお恵みをッ…」そう強く祈りながら牛の腹に当てた手に力を入れた。結果はわかっていた。牛はぴくりともしなかった。亡者ではなく、もうすでに骸となっていたのである。
空が紅く、黒く染まってゆく中、私は心臓を悪魔にでも握られたように弾ませ、荒く息を吐いては、肺が破裂しそうな勢いで息を吸っていた。その時、嫌なことに気がついた。もしこれが牛にだけでなく人間にも起こっていたならば…と。
またエウロスくんの家などが立ち並ぶ農村へ走った。立ち並ぶ家々の間を走っていく。クイトンさん家の赤ちゃんの声も聞こえず、いつも夜遅くまで農作業しているハイロスさんの姿も見当たらない。村からは光が消え、音が消え、人の姿も消えていた。
「まさか…そんなわけ…。」恐怖で半笑いになりながらそう呟き、村を見渡す。その時、ある家が目に入った。エウロスくんの家である。さっきお姉さんのカリスさんが立っていた玄関前へ行くと、扉が少し開いていることに気がついた。
私は牛舎の陰で嘔吐した。昼ご飯が全部出た。わかっていたが、牛舎の牛たちも冷たくなっていた。私はその屍の中で苦しみを全部吐き出そうと嘔吐いていた。でも出てくるのは胃酸混じりの吐瀉物ばかりだった。静かに深く、震えながら息を吸った。
「まさか…そんなわけない…。これは夢だ…。そうに決まってる…。醒めろ。醒めろ!」そう一人で悲憤慷慨していたときだった。
「おーい。あんたがアテナ先生かい?」そんな軽快な声が後ろから聞こえた。
振り返ると、ある男がこちらを見ていた。その男は白装束を着て、腰に湾曲したサーベルをこさえていた。
口元を拭って立ち上がり、その男に訊いた。「どうして私の名前を…?」
「いやーどうしても何も、ここら辺の地域の人なら大体は知ってるぞ。デメテル本家の総領娘として生まれ、勉学、武道、曲芸やら様々な分野で才能を見せつけてきたお前を、人々が一目置かないとでも?」彼は少し馬鹿にして嘲るように言った。
「そうですか…それで…あなたは?」頭を掻く彼に向かって尋ねる。
「ああ…紹介遅れてすまねえな。俺は『復神教』の者だ。名は『ヒダル』。」
「『復神教』?」そう私が訊いたとき、彼は少し表情を固くして言った。
「復神教が気になるか…?いやぁ…でももう君が知る必要はないんだよなぁ…。」そう言って彼はサーベルに手をかけた。
「えっ?」終始彼の話はよくわからなかった。でもそのとき、何となく予想がついた。こいつはいい人じゃない。
そう思った次の瞬間には彼の姿は眼前から消えていた。一つの辻風が私の左頬を掠めた気がした。
「なんで死んでねえんだよ…アテナ先生」振り返ってみると、そう何かを面白がる声で話す男はすでに血だらけのサーベルをぶら下げて、私の後ろにいた。男の目は血に飢えた狼のそれだった。
彼の姿に気づくと同時に今まで体験したことのない痛みが、左腕に走った。そこにあるはずの左手がなかったのである。左腕からはザクロを握りつぶしたかのように血が噴き出ている。常に雷に焼かれているような痛みだった。
その衝撃に声も出せぬまま膝から崩れ落ちたとき、放棄していた二本の糸が合わさって一つの織物を完成させたような気がした。
「お前が…村の人々を…動物たちを…殺したのか。」私の声はいろんな感情によって震えていた。
すると男はニヤリと恍惚たる笑みを浮かべて言った。「正解〜 俺は飢餓の神を司る者。俺の力でみんな飢え死にさせてやったんだ。」
男はゆっくり近づいてくる。ゆらゆらとサーベルを揺蕩わせて。私の前に立つとサーベルの峰で私の顔を押し上げた。
男は私の顔を見て言う。「美人だが俺の趣味じゃねえな…」
私は彼の獣のような目を睨んでいた。その時の私は怒りよりも恐れが勝っていた。なにより、失血で動くこともできなかった。あぁ…私…死ぬんだ…。生まれて初めて死神を見た。
「メテオ!」その直後、高くも低くもない心地よい声が牛舎に響き渡った。その声はヒダルの声でも私の声でもなかった。その声が聞こえたとともに、ヒダルは私の左側へ持っていたサーベルごと吹き飛んだ。
壁に衝突し、瓦礫に押しつぶされたヒダルを見た後、ハッと右を向いた。するとそこには牛舎の裏口から入ってきただろう白装束を纏った人間が立っていた。
「大丈夫か!?」その人は、狼狽しながらも衰弱していく私の元へ駆け寄り、その人が頭に巻いていた鉢巻を私の出血し続ける左腕に巻きつけた。
意識がぼーっとして、何が起こっているかもわからなかった。視界もぼやけてその人の顔もよく見えない。呼吸もうまくできない。でもその人は、眠ろうとする私に声をかけ続けた。
「ちょっと腕見せてね。」そう言うとその人は私の腕に手を当てて何かを施した。すると、痛みはまだ残るものの、出血が完全に止まった。
そこからは意識が朦朧として、気づいた時には私はその人に担がれながら陽が沈んだ闇の中、この台地を下っていた。私はとにかく回復と再生に労力を費やした。
「豊穣の神よ。嵐に遭いて枯れた稲穂は、再びその身を起こし、金色に輝かん。その回復の力どうかこのアテナ・デメテルにお貸し下さい…。」そう心の深いところでつぶやいた。
開きかけている扉を開いた。その時目に飛び込んできたのは地獄絵図…いや、そんな言葉で簡単に片付けられていいはずがない。骸骨のように肉の削げたエウロス、スパルザート、サイフォーン、アルテミスが、まるで粘土でこね上げたかのように、四肢だったり口だったり目だったりが、なおざりにあっちを向いたりこっちを向いたりしていた。
「どうして…こんなことに…」女の目からは元々そうであったかと思わせるほど、静かに涙が流れた。しかし、次第に現実を認識し出したのか、呼吸が荒くなり、嗚咽が止まらなくなった。
「嫌…いやだ…」女は長いことそれらの肉塊の中で、助けを待つ赤子のように泣き喚いた。そうしていると次第に諦めという感情が湧いてきた。その諦めはエウロスたちの死への諦めではない。自分の生への諦めだった。頭が空っぽになった女は牛舎へ進んで行った。
女は嘔吐した。
「どうした?大丈夫?」闇の中で優しい声が聞こえた。
目を開くとさっきの人が優しい笑みを浮かべて私の顔を覗き込んでいた。私は薄手の毛布をかぶって横になっていた。左手は包帯で何十にも巻かれている。石レンガでできた天井に、材木が格子状に張り巡らされているのが寝ていると良くわかった。右をみると木の机の上に暖かな光をおぼろに放つランタンが置いてあった。
その人は心配そうに私を見つめていた。その人の顔は男なのか女なのか分からない中性的な顔立ちをしていた。髪は短かったけど、多分女だろうと思った。ボーイッシュな女子って感じがしてかっこいい人だった。
「あの…あなたが助けてくれたんですか?」そう聞くと彼女は「うん」と優しく微笑んで返した。
でも彼女は急に表情を曇らせて言った。「でも…ごめんね…。村の人たちもあなたの腕も守れなかった。」
「いいえ…。私が守れなかったんです…。」死んでいった村の人々を思い出した。そして自分の弱さがつくづく嫌になった。
「そういえば、あなたは…?あのヒダルとかいう男を知ってるんですか?」思考が段々追いついてきて、一番の疑問を彼女に訊いた。
「そうだった。教えてなかったね。僕の名は『カオス』。捨て子だから苗字はないんだ。そしてヒダルは私と同じ復神教の教徒。アテナさんよろしくね。」
「えっと…よろしくお願いします。ていうかなんで私の名前知ってるんですか?」
「まあ…いろいろあってね…。大丈夫ちゃんと分かるように説明するから。」そう言って笑うと、彼女は多くのことを説明してくれた。
聞くところによると彼女は体は女だが、心はノンバイナリーな人間のようだった。また、幼い頃に親に捨てられ、ある団体に拾われた。その団体に名を「カオス」と名付けられ、その団体の一員として生きてきた。その団体は四年前の神の死亡以来、ある宗教と結びつき、「復神教」と名前を変えて活動しているそうだ。「復神教」は神を復活させるための活動を主におこなっているようだが、最近その中でも過激派が力を持ち始め、彼らは活動の邪魔になるものは罪のない人たちでも排除しようとするらしく、問題になっている。今回村を襲った「ヒダル」は復神教の過激派の幹部で「飢餓の神」を宿しているらしい。牛や村民が痩せこけて死んでいたのはその力のせいらしい。近頃、復神教では私の名前が有名になっていたらしく、ヒダルもカオスさんも私の名前を知っているようだ。
「どうして私が復神教で有名なんですか?」そう聞くと彼女は少し残念そうな顔をして言った。
「『神衰名家説』って知ってます?」
「しんすいめいけ…?いや、ちょっと分からないです…。」
「簡単にいえば、デメテル家やシヴァ家、アストライオス家などといった名家が、強大な神の力を持つのは、四年前に死んだ第一神の力を吸い取っているからだという説なんだ。」
「そんな説が…」
「まあだから、デメテル本家の長女のアテナさんに、神を復活させようとする彼らの怒りの矛先が向くのは、仕方ないことなんだ…。まあ…そんな理論…ぶっちゃけめちゃくちゃだと思うけど。」
その時、あることに気がついてしまった。
「じゃあもしかして…私のせいで村のみんなは死んだってことですか…私が全部悪いんじゃないですか…」
「あぁ…いや、アテナさんは何も悪くないですよ…。悪いのは復神教の過激派の奴らと、それを止められなかったぼくです。」彼女は責任を感じているようだったが、やっぱり私が悪かった。勝手に農村で生活していた私が…弱い私が…。
「あの…カオスさんは私が憎くないんですか?」
「僕?いや、ないない。」彼女は面白がるように首を振る。
「そもそも僕ね…元々、捨て子だった僕を拾ってくれた団体の皆さんには感謝してるんだけど、宗教と合併してからのやり方があんまり好きじゃなくて…。まして急進派のやり方に関しては…間違ってると思う。だから今回も、ヒダルをこっそり付けてきたんだ…案の定こんな結果になっちゃったけど…。」
「でも…どうして助けてくれたんですか?」
「そもそも…村の人たちを虐殺なんて見過ごせるわけないでしょ。それにちょっとアテナさんと話してみたかったし…。」彼女は少し恥ずかしそうにした。
「どうしてです?」
「実は昔…アテナさんのことを見に行ったことがあって。」
「私を?」
「もう死んじゃったんですけど、僕を小さい頃から育ててくれた、団体の幹部のお爺さんがいたんです。よくその人といろんなところに行きました。そしてある日『名門合同交流会』を見に行った時に、アテナさんを見つけました。その日からアテナさんは僕の憧れだったんです。」
「なるほど…」そう言って相槌を打った時、部屋のドアを誰かが強く叩いた。
「バン バン バンッ!助けて!誰かいませんか!」甲高い少年の声がドアの外から聞こえてくる。
「アテナさんはまだ動かないでください。僕が見てきます。」そう言ってカオスさんはドアの前へ立った。
ドアを開くと汚れた少年が立っていた。
「すいません…一晩だけ部屋の中に入れてもらえませんか…。玄関の端でいいので…。」声は何かに怯えるように震えている。
「もちろんいいけど…どうしたの君?」カオスさんはすぐさま少年を部屋の中に入れ、心配そうに少年に訊いた。
「外…バケモノがたくさん出て来ちゃって…口のでかいバケモノから逃げてきて…。」口ばやにそう言った。
「口のでかいバケモノ?どんな感じのやつ?」カオスさんが少年に目線の高さを合わせて訊いた。カオスさんは子供の扱いに慣れてるなーと思った。
「なんか目が一つで…口から木が生えてて…で…えっと…」少年は口籠もりながら特徴を伝えていた。そのとき…
「ズガーンッ!!」という大きな音と衝撃波とともに玄関があった側の壁が丸々崩落した。その壁が崩れてできた瓦礫の先には少年が言っていたバケモノがいた。
「カオスさん!」カオスさんは少年を抱きしめて瓦礫から守っていた。だが瓦礫はカオスさんに近づくとカオスさんに当たる前に弾かれて、カオスさん達に当たらず落下していた。これがカオスさんの能力だろうか。
バケモノは壁一面を覆い尽くすほど大きく、黒く、丸型をしていた。短い四肢でカオスさんに近づくと口を大きく開いた。口の中には確かに枯れた木のようにトゲトゲした舌のようなものが見られる。
「カオスさん!逃げて!」カオスさんはおそらく声は聞こえているが、少年を守るのに必死で動かない。私の体は動かそうと思えば動いた。でも、恐怖で動けなかった。こんなまじかで妖を見たことはない。そもそも私の力は戦うためのものではない。生命に富をもたらすものだ。そんな私が助けに入っても死ぬだけだ。でも命を救ってくれたカオスさんを見殺しにはできない。
そのとき「どうせみんな死んだんだ。今更生きる意味もない。家にも見捨てられたんだ。私が死んだって誰も悲しまない。」そんな言葉を悪魔が囁いた気がする。いや、悪魔じゃない…私だ。生まれて初めての心の底からでた本音だった。
ベットから立ち上がる。頭を空っぽにして、震えながら、その足はバケモノへと向かっていく。大きく息を吸って、天界をイメージした。これまでにないほどの力を引き出してみせる。たとえその力に体が耐えきれず、はち切れることになろうとも。
「アテナさん!来ちゃダメ!」瓦礫の中でカオスさんが叫ぶ。
「僕がこいつに食われる瞬間、少年を投げるからそっちに投げるから僕が食われてるうちに逃げて!」続いて、そんなおぼつかない泣きそうな声が聞こえた。
「グシャリ…ブシャァァァー」??????
急にバケモノの動きが止まった。バケモノの、鳥肌が立つような気持ち悪い声が聞こえたと共に、バケモノの上から誰かが降りてきた。
「おい、こんなところで何してる?」生気を感じさせない低い声が瓦礫が飛散した部屋に響いた。その若者は右手に青い血の滴るロングソードをぶら下げ、左手に夜光石の懐中電灯を持っている。その光が妖しく彼の顔を照らし出している。その顔は少年のような若々しさも見られたが、底知れない闇を抱えて疲弊しているようにも見えた。彼が王国軍の二等兵が着る、甲冑がついていない、コットンやウールでできた藍色の軍服を着ていることから、王国軍の軍隊の人であることがわかった。
「ここは子供が来ていいところじゃない。早く去れ。」その目は骸のように輝きを失っていた。なんだか恐ろしい気配がした。そして何より、この人からは生き物特有の気の流れが見えない。
私はそのとき、この人が剣をバケモノの上から突き刺し、死に追いやったことに気がついた。
「あ…ありがとうございます…。」なんとかこの一言を絞り出せた。なんだかこの人の前にいると言葉が詰まる。でも…なんだろう…なんか惹かれる…。
カオスさんは黙ってその男を見つめていた。怯えているようにも見えた。
「あの…ここはどこなんでしょうか…」思わず声が萎縮したが、ずっと疑問だったことをその男に訊いた。
男はちょっと驚いたような顔をして、一拍置いて話した。
「知らないでここに来たのか?ここは廃都ーアトラスだ。人の思いがゴミのように吹き溜まって、わんさか怨念が集まってくる。今のやつもそうだ。わかったらさっさと失せな。」
カオスさんは少年と手を繋いでゆっくり立ち上がり、私の方に近寄ってきた。
「アテナさん…この人…やばい…」恐怖というよりは畏怖しているようだった。
「もしよろしければ…お名前教えてもらえませんか?」怖がるカオスさんに構わず訊いてしまった。
その人はちょっと腑に落ちない様子で答えた。「え…あぁ…アルシエル…だけど。そんなことはどうでもいいんだよ。子供を守りてえなら早く逃げろ。俺がこの正面の街道にいる妖は退けてやるから。じゃあな…。」
なんとなくわかった。この人が気になる理由。ただなんか可哀想で仕方がないのだ。道端に捨てられた赤子を見捨てられないような、生きることに疲れた人間が自殺しようとするのを見捨てられないような、そんな気持ちになった。なんかこの人はどうしようもなく大きく、抗おうにも抗えない、そんなものに押しつぶされそうになっているような気がした。だからどうしても助けたいと思ってしまった。いや、もちろん命を救われた恩返しをしたいという気持ちもあるのだが。
「待ってください…あの…私たちもついて言っていいですか?」思わず言ってしまった。
「ちょっと待って。この人大丈夫なんですか。」カオスさんがアルシエルさんに聞こえないように耳打ちする。
「この人についていく方が妖の心配がいらないので安全です。」そんな詭弁でカオスさんを言いくるめた。
「なんなんだあんた…。まあ…いいけどちゃんと守ってやれるかわからないぞ。自分の身は自分で守れ。」少し考えてから、困ったような顔をして承諾してくれた。
その後、怯えるカオスさんと声も出せない少年を説得し、アルシエルさんと共に都市の外縁に伸びる街道を進んでいった。暗くてよく見えないが、夜天光のおかげで、この都市の中心にある、空まで伸びた摩天楼が、天下を睥睨する様を拝むことができた。この時に、この都市が、いつもあの台地から眺めていた廃都であることに気がついた。カオスさんはここまで私を担いで来てくれたのだと思うと、より感謝の気持ちでいっぱいになった。空には一面に星々が瞬いていた。
一キロメートルほど歩いたところだろうか。急にアルシエルさんが歩みを止めて言った。「子供のことちゃんと守りな」
すると次の瞬間にはもう妖どもに四囲を囲まれていた。
背が高く痩せたもの、グチャグチャな液体状のもの、羽が生えているものなど、その形態は様々である。
「これやばくないですか?私戦えませんよ…」そういうとアルシエルさんは黙って剣を前に構えた。
次の瞬間、雷でも落ちたかのような音と衝撃波が鳴り響いた。それはアルシエルさんが大きく息を吐き、大きく息を吸った直後だった。気づけば眼前にアルシエルさんの姿はなかった。辺りを見回すと、ある一つの閃光が、私たちを取り囲む妖の中を駆ける姿が目に止まった。その光は周りを一周まわると、前方で動きを止めた。その間は一秒経ったかどうかであった。
その男は黒っぽく汚れた姿で、剣を地面に突き刺し、そこに右手で体重をかけて立ち尽くしていた。その目はどこか遠い目をしている。心ここにあらずと言わんばかりに。
剣に血が滴るのを見て気づいた。周りの妖はみな荒々しく切り刻まれ、呻き声ひとつ立てず、静かに倒れ伏していた。この男は一秒間に百体を超える妖を抹殺したのだ。




