7 山道
ギャアアア……!
夜空を裂く、金属をこすり合わせたような悲鳴。
田崎が思わずフロントガラス越しに見上げると、何かが滑空していた。
ヘッドライトが闇の森を一瞬だけ切り裂く。
逆光の中、巨大な翼が、光を遮って広がった。
「……ついてきてるのか……」
十数体の影が森の上を滑るように飛び、赤い目を光らせながら、ときおり枝に止まっては追ってくる。
手に汗がにじんだ。ジムニーは根を越え、泥をはね、段差で激しく跳ねた。
ルーが低くうなり、女戦士は車体の揺れに体をぶつけていた。
やがて影たちは高度を落とし、木々の奥に消えた。
羽音も遠ざかると、山の静寂が戻ってきた。
「……諦めた……のか?」
女戦士はルーの背をなでていた。
手はまだ震えていたが、そこにわずかな安堵が混じっていた。
ジムニーはなおも暗い山道を進む。
ただ一秒でも長く距離を稼ぐしかなかった。
ふいに外から、低く太い鳴き声が響いた。
猿でも人でもない、確かな何かの声。
田崎は思わずサイドミラーを見た。
木々の隙間を、何かが並走している。音だけ、姿はない。
それでも確かに何かの気配があった。
沈黙を破ったのはオムカだった。
「……カゲツカイ……ヤミノタミ……気ヅイタ……」
異国の言葉。
意味はわからない。ただ耳に残った。
小人族のオムカは、里長の言葉を思い出していた。
影の向こうには、巨人の住む世界が広がる。
巨大な建物、馬のいないのに速く走る鉄の車、爆音を立てて空を飛ぶ何か。
商人の箱が、影の向こうからこの鉄の車を呼び寄せた。
この商人は大変なものを手に入れた。
オムカの胸の奥で、熱が静かに灯った。
これだけの影の力があれば、自分も向こう側に行けるかもしれない。
森のケモノたちからは、逃げ切れる自信があった。
人目につかず隠れて逃げ回るのは得意中の得意なのだ。
しかし、影使いの気配を感じた時、密かに驚きがあった。
光と闇の均衡を守り、闇の力の暴走を止めているのが森の民のはずだった。
あの箱の影の力が森の獣を呼び寄せ、それに森の民が気づいたのだろう。
それでも、この異界の車ならば、きっと逃げ切れる。
そうオムカは揺れる車内で含み笑いを漏らした。
再び森が唸り、葉がざわめき、木の幹が鳴る。
巨大な何かが車と並行し、闇の中へ溶けるように消えた。
「……頼む、もう来るな……」
アクセルを踏み込んだが、逃げ切れている確信はない。
曲がりくねった坂が続き、後方には姿も音もないのに、確実な存在だけが追ってきていた。
谷を下り、沢を渡り、また登った。
泥に取られたタイヤが横滑りし、エンジンが唸って車体が軋んだ。
その時、小人のオムカがダッシュボードに飛び乗り、杖を左前方に向けた。
ヘッドライトの先に開けた空間が現れた。
倒木と岩に囲まれた、自然の庇のような地形。
月が雲の切れ間から覗き、淡く輪郭を照らした。
バックミラーに映る背後は、黒々とした森。
気づかぬうちに森の端を抜けていたらしい。
田崎はハンドルを切り、ジムニーをその空間に滑り込ませた。
岩陰に寄せて停め、サイドブレーキを引き、エンジンを切った。
……ぶるるるる。エンジンが止まり、ライトを消す。
闇が全てを呑み込んだ。鼓動の音だけが、耳の奥で鳴っていた。
重くるしい影が森の入り口に漂っていた。
何かの息づかいを確実に感じ、田崎の背中をざわつかせた。
あの国道の峠道で感じた影とは違う、禍々しい意思を持った獣のようだった。
オムカは、ダッシュボードの上で、腰の袋から白い粉を撒いた。
そして、歌うような声で言葉を紡ぎ始めた。
意味は分からない。けれど、その抑揚には奇妙な安らぎがあった。
詠唱が止んだ時、影の気配がふと消えるのを感じた。
田崎は額に汗をかいているのに気づくと手の甲で拭き、シートに身を沈め深く息を吐いた。
ここはいったいどこなんだ…
そして、自分は確実に、何かに巻き込まれている……
胸の奥では、恐怖がまだ暴れていた。
森のさらに奥で、蛇のような影が、黒い木々の間を這っていく。
それは谷を越え、峠を越え、月明かりに照らされた巌窟へと続いていった。
その少し前、
赤い焔がゆらめく影を落とす漆黒のドーム。
その祭壇の前に、黒づくめの人影が慌ただしく蠢いていた。
「………森が騒ぐ。獣どもがざわめいておる……また奴らか」
赤い目がぎらりと光った。しわがれたうめくような声が漏れた。この森の民の長老だった。
「!……封印の脈動を感じる?」
影使いの長が長老と顔を見合わせた。
「影を伸ばせ、封印の居場所を突き止めろ」
その声に暗がりから一つの影が立ち上がった。
「ぜひ私めに」
一人の若者が名乗り出た。許されると深い瞑想に入る。印を組んだその指先から黒い蛇のような影が伸びていく。
長老も黒い影をジムニーに向かって伸ばしていった。




