11 霧の彼方へ
石畳の広場でも異変が立て続けに起こっていた。
いったんは静まり返っていた猿たちが、再びうなり声をあげ始める。
血走った瞳に狂気が宿る。
竜猿の石化も、もはや表面から剥がれ落ちるように解けかけていた。
石の鎧がそれ以上の燃焼を遮り、火の勢いはすでに消えていた。
だが焼け爛れた皮膚、顔面に無数の矢を突き立てた竜猿は、もはや理性など持たず暴れ狂う。
「退避ー!!」
グリファスの絶叫が広場に響く。
「森の中へ!森を抜けて道へ逃げ込め!」
「隊列を崩すな!」
デルグラの怒号が響く。
「副官!指揮を預ける!」
怒涛のように指示を飛ばしながら、グリファスは馬首を返す。
「親衛隊第一部隊は、ワシについて来い!」
十騎にも満たぬ部隊を率い、巌窟を目指して駆ける。
「法王猊下をお救いするッ!」
錯乱した竜猿は羽猿を振り払い、熊猿を踏み潰す。
苦しげな吼声が響くたび、大地が震えた。
やがて岩山の裏手からも地響きが湧き上がる。
封印の地の奥から、数十体の竜猿が目覚めようとしていた。
石化したその巨躯に亀裂が次々と走り、血走った赤い目を覗かせる。
広場では、暴れる竜猿が翼を広げては飛び損ね地面に墜ち、その度に地鳴りを轟かせた。
逃げ損ねた狂乱の猿たちは、石畳に赤い染みとなる。
血と焦げの匂いを撒き散らしながら、竜猿は苦悶の絶叫を上げた。
*
巌窟のドーム内も揺れが続く。
重い衝撃が起こるたびに、漆黒に磨かれた岩壁に亀裂が走り、石のかけらが落ちて鈍い音を響かせた。
祭壇では、三者の静かな戦いが続いていた。
盲目の僧侶の背にまとう影が蛇に喰われかけた瞬間、リューシャはそれを見逃さなかった。影が剥がれ、白い法衣が一瞬覗く。
再び蛇が影を狙う刹那、彼女は弓を引き絞り、矢を放つ。
矢は影に絡め取られることなく、法衣の裾を貫いた。
体までは届かない。
それでも僧侶の心を揺らすには十分だった。
その隙を逃さず、法王とチョーローとオムカが声を張り上げる。
白い法衣が徐々に姿を現す。
盲目の僧侶は呪言を一段と強め、影を引き戻そうとする。
その時、ドームが激しく揺れた。
飛び上がろうとした竜猿が巌窟に突っ込んでいた。
側壁が崩れ、巨大な猿の顔が覗く。
続いて太い腕が壁を突き破り、ドームの中央の白い影に伸びる。
それは、闇の力を求めるように鉤爪を伸ばし——
力尽き、そして祭壇を粉砕した。
何事かと目を見開く盲目の僧侶。
だがその目には何も映らない。
それでも最後まで呪言を止めようとはしなかった。
瞼の奥で光が揺れた。
——法王猊下、これで、均衡は……
その思いは、闇に呑まれて消えた。
鈍い音とともに、祭壇ごと盲目の僧侶は竜猿の岩のような手に押しつぶされた。
*
「猊下ー!!」
グリファスの声が響く。
漆黒の岩壁が次々と落ち、赤い灯火を揺らす。
崩落の危機が迫るドーム。
闇の民の長老も影使いも、竜猿の下敷きになって動かない。
やがて影が霧となって形を成し始めた。
「今だ!タサキッ!」
オムカの叫びで田崎は我に返る。
振り返ると、リューシャが今にも泣き出しそうな顔で立っていた。
彼女は田崎の顔を両手で包み、唇を重ねた。
「行って……さよなら」
それは片言の日本語だった。
声が震えていた。
あの夜の返事を、今ここで返してきたのだ。
田崎はその涙を見て、言葉を失う。
ただ、胸の奥で「ありがとう」「愛してる」と返す。
ブレーキから離す足が、震えていた。
絡めた手が離れていく。
さらにアクセルを踏み込み、ジムニーが加速しかけた時だった。
ぷつん……
計器盤の表示がすべて消失した。
アクセルを踏む足の感覚がふっと抜ける。
「…止まる?…ここまで来て……」
田崎の顔から血の気が引いた。
心なしか霧の塊が薄くなった気がする。
そう思った瞬間、竜猿のもう一方の手がジムニーへと落ちてきた。
石化が再び始まったその腕は、伸ばし切った先から崩れ落ちていく。
その瞬間——
巨腕の鉤爪がジムニーの左後輪をかすめながら抉り、鋼を裂くような悲鳴を上げた。
車体が大きく横に弾かれ、地面を跳ねる。
鉄の軋みとともにスピンしたジムニーは、左後輪を失ったまま霧の縁を滑り込むように突き抜けた。
火花が尾を引き、黒い霧に吸い込まれていく。
同時に霧も闇に溶けるようにして霧散していった。
やがて静寂が、崩れかけのドームを支配した。
*
「……いっちまったな」
立ち上がり、埃を払うグラン。
オムカはその場で泣き崩れる。
「法王猊下!」
グリファスが法王の元に駆け寄り、無事を確認すると胸をなで下ろした。
「……次は、闇の…影の管理をせねば…、信頼に足るもの……生き残った森の民と交渉をしなければなるまい」
法王は、将来の秩序に向けてすでに先のことを考えていた。
闇の力に捕らわれた盲目の僧侶のことを思うと胸が痛んだ。
「追放された闇の民と月の民との仲違いも、なんとかしないとね」
チョーローもそのための努力を惜しまないつもりだった。
リューシャはしゃがみ込み、ジムニーが消えた空間をじっと見つめていた。
「行ってしまった……」
その時、弾け飛んだジムニーのスペアタイヤが岩壁に跳ね返り、彼女の前まで転がってきた。
そのタイヤは、まるでまだ旅の続きを探しているように、ふらつきながら進んでいた。
そして彼女の前で力なく前進を止めると、その場で回転しながらパタンと倒れた。
リューシャは自分の腹部に手を添える。
あの夜、確かに新しい命を授かった。
もう、一人ではない。
確信が胸を満たしていた。
小人の里で静かに暮らそう。
イリナもいる。
リューシャは顔を上げて、涙を拭った。




