8 黒石の祭壇
キキーッ!!
ジムニーは黒光りする石畳の上で横滑りし、壁面の手前でかろうじて停まった。
一瞬の静寂。
エンジンの低い唸りだけが、闇のドームに響いている。
片目のヘッドライトが、広間の奥をぼんやりと照らしていた。
田崎は、ふんばった右足をブレーキに乗せたまま、止めていた息を吐き出した。
心臓の鼓動が喉元まで上がっているのを感じる。
バックミラーを覗くと、法王は目を閉じて祈りを捧げている。
その隣で、盲目の僧侶が微笑みを湛えていた。
……何かが、違う。
その笑みに、ぞっと寒気が背筋を走った。
『リューシャ、大丈夫か?』
思わず声をかける。
『問題ない』
言葉とは裏腹にリューシャの声は上ずっていた。
祭壇の上には、長老と影使いが立っていた。
影使いが長老の耳元に口を寄せ、低く囁く。
「民は地下に避難させております」
鈴の音が、ちりんと響く。
猿使いが手首をわずかに振った。
その音がドームに響くと、広間の隅に控えていた鬼猿が三体、ゆらりと前へ進み出た。
牙をむき低い唸り声を響かせながら、ジムニーを取り囲むように距離を詰める。
ルーが怯え、狂ったように吠え立てる声がドームに響いた。
田崎は、ルーを膝の上に引っ張り上げるとやさしく抱き上げ、頭を撫でた。
「良い子だから、もう少しの辛抱……」
助手席のリューシャが剣に手をかけ、ドアのロックを外す。
田崎は咄嗟にその腕をつかんだ。
しかし、止めるべき言葉が出てこない。
短い沈黙の中で視線が交わる。
リューシャはふっと微笑み、静かにドアを開けて外へ降り立った。
『行って』
その一言が現地語で柔らかく響く。
背を押されるように、グランも荷台から飛び降りた。
続いて二人の騎士長も後部座席を乗り越え、バックドアから降りて地面に足をつけた。
チョーローは彼らを見据えたのち、祭壇の前方斜め下を杖で指す。
「くそっ!」
田崎は舌打ちし、アクセルを踏んだ。
杖の先で祭壇を示し、ダッシュボードを叩くたび、胸の奥に不吉な音が響いた。
チョーローはそこで停車を示し、後部の二人を降ろせと合図する。
いつの間にか、小人の二人は腰に結んでいた縄を解いていた。
背後では、リューシャ、グラン、騎士長二人が鬼猿と刃を交えていた。
金属のぶつかる音と獣の叫びが、石の壁に反響する。
田崎はため息をついて車を降り、助手席のドアを開ける。
シートをスライドさせ、法王と盲目の僧侶を車外に降ろした。
チョーローと法王、盲目の僧侶は祭壇の前で詠唱を始める。
聖戒の言霊の響きが、波のように広間を満たしていく。
運転席に戻った田崎は、バックミラーを覗く。
戦う仲間たちの姿が、まるで別世界の光景のように揺らいで見えた。
やがて、法王の手に抱えられた封印の箱から、吹き出すように黒い霧が漏れ出す。
だが、その影はすぐさま逆流するように箱の中へと吸い込まれていった。
祭壇の上では、長老と影使いが影を操り、再び影を封印の箱に送り込もうとしていた。
その時、田崎の内側で何かが軋んだ。
胸の奥に熱い塊が膨らみ、理屈もなく誰かを叩き潰したくなる。
視界の端が、黒く滲む。
「俺の……ジムニーを」
自分の声が、自分のものとは思えなかった。
喉の奥から這い出てくるような、低く歪んだ声。
あの黒い奴ら……あいつらがすべての発端だ。
制御できない怒りが心の中で膨れ上がるのを感じる。
車を降り、荷台からステンレススコップをつかみ取る。
「ルー!待ってろ!動くな!」
厳しい声で愛犬にステイを命じる。
その声の響きに、ルーがくぅんとうずくまった。
祭壇へと歩み寄る田崎の前に、猿使いが立ちはだかる。
腰の高さに及ばない貧弱な体、一瞬躊躇する。
だが、腕が勝手に動いた。
スコップが猿使いの胸を打ち、その体はあまりにも軽く吹き飛んだ。
床に転がり、鈴が不協和音を奏でる。
祭壇の狭い階段を三歩でのぼる。
二人の影使いの横に立つ。
田崎はためらいもせず、スコップを横薙ぎに振ろうとした。
しかしその瞬間、影がスコップに絡みつく。
長老が、蛇のような影を田崎に伸ばそうとしている。
振りほどこうとするが影は重く、びくともしない。
「ざけんな!」
田崎はスコップから手を離すと、もう一人の影使いの胸を蹴り飛ばした。
青白い体が、祭壇から弧を描いて落ちていく。
そして長老の胸ぐらを掴むと、そのまま祭壇から突き落とした。
蛇のような影が、糸を切られたように薄れていく。
その瞬間、怒りが嘘のように消えた。
呼吸が荒い。
手が震えている。
スコップを拾い上げながら、その感情の変化に首をひねった。
リューシャの方を振り返ると、戦況はほぼ決していた。
リューシャが相手にしていた鬼猿は、首を刎ねられ地面に沈んでいる。
グランも巨体の鬼猿に確実な打撃を与えていた。
二人の騎士長は押されていたが、それでも剣を振るい続けている。
リューシャが加われば勝敗は揺るがないだろう。
祭壇では詠唱が続き、封印の箱から流れ出た影がゆらゆらと霧を形作っていた。
障碍はなくなった。
大変だったけど、最後はあっけなかったな……
田崎は車に戻りながら、ぼんやり考える。
後はあの霧の中に飛び込めばいいだけだ。
ルーの頭を撫でる。
ダッシュボードの上で、オムカが田崎をじっと見つめていた。
いつもの陽気さはない。
その顔は、なぜか浮かない色をしている。
「どうした? オムカ」
田崎の声が、不安げに震えた。




