10 修理
血の跡と泥にまみれたボンネットは、無数の傷と凹みに覆われていた。
手をかけてもなかなか開かず、田崎は歯を食いしばり、両手で端をつかんで力を込めた。
鉄板が軋む嫌な音が森に響く。ようやく重い蓋が、ぎぎ、と開いた。
むっとする焦げ臭さと油の生臭さが混じり合って鼻を突いた。
ライトをかざし、エンジンの奥まで目を凝らす。
亀裂や大きなへこみも幸い見当たらなかった。
それを確認した瞬間、胸の奥に張り詰めていた糸がわずかに緩んだ。
オルタネーターもセルモーターも固定は生きている。
ベルトは張り直せば何とかなりそうだった。
緩んだボルトは、スパナで締め直せば何とかなる。
バッテリーは端子が外れて転がっていた。
ラジエーターのホース接続部は裂けて外れたまま。
二日間の乾ききった白い冷却水の跡が、金属の表面にこびりついていた。
バッテリーをまず金具で台座に固定した。バッテリーが死んでいたらここで終わりだ。
接触不良を避けるため、工具箱からウェスを取り出し泥汚れを丁寧に磨いていく。
配線に目を移すと、何本かが根元からぷつりと切れている。
「……これ、ハンダでいけるかもな」
ヒューズボックスを開くと、透明ケースの中で金属線が稲妻のように断ち切れている。
軽トラのものを流用できるかもしれない。
田崎は二人に発電機をジムニーの前まで運ぶよう声をかけた。
発電機が低く唸り、森の静寂にくぐもった振動音が広がる。
工具箱からハンダゴテを引き抜き、コンセントを差し込む。
じわじわと先端が赤く染まり、切れた配線にじゅっ、と湿った音が走った。
瞬間、甘く焦げたハンダの匂いが鼻を刺す。
田崎の脳裏に父の作業風景が浮かんだ。
あの頃と同じ匂いだ。
田崎の手は止まらない。
小さい頃から、壊れた家電や車を修理する祖父と父を見て育った。
十八歳で免許を取ってからは、先輩に譲ってもらった中古車を大切に乗ってきた。
洗車時にはエンジンルームまで掃除し、不具合の兆候があればすぐに修理工場に駆け込んだ。
その都度、整備士に原因と対策を聞いたものだった。
工学系の知識と、車好きが高じて培った経験が、この極限の状況で田崎を支えていた。
配線を絶縁テープと布テープで丁寧に巻き固定していく。振動で切れないことを祈るしかない。
二人は興味津々にエンジンルームを覗き込み、時折顔をしかめて煙を払った。
ラジエーターのホースは、応急処置として布テープと針金で無理矢理固定。
ラジエーターのフィンは泥と葉クズで詰まっていた。ブラシで掃除をしていく。
それが終わると冷たい井戸水をペットボトルからラジエーターに流し込んだ。
ホースの応急処置をした部分に水漏れがないことを確認する。
水面に細かい泡が浮かび、やがて吸い込まれるように消えていった。
作業に没頭しているうちに、森の影が長く伸び始める。
小人が呼びに来た時には、日はすでに山の端に沈みかけていた。
いつの間にかリューシャは、材料を取りに戻ったのか、横で矢を削っていた。
ルーはリューシャのそばで、あくびをひとつ。
広場に戻っての夕食後、当然のように、しかしどこか照れくさそうにリューシャは田崎の小屋についてきた。
今晩もルーは、小屋の入り口で、やや薄くなった下弦の月に照らされながら丸くなった。
翌朝。
田崎は夜明けとともに目を覚ました。
眠りは浅く、夢の中で何度もジムニーのキーを回していた気がする。
待ちきれぬ思いで軽トラの助手席からヒューズボックスを外し、大事に胸に抱えて里の広場を横切る。まだ朝霞が薄く漂い、草の葉に朝露が光っていた。
ジムニーの傍らにはリューシャがいた。
腰を下ろし、矢羽を小刀で削っている。
目が合うと、彼女は柔らかい笑みとともに、現地の言葉で「おはよう」と告げた。
その響きはまだ完全には理解できない。
それでも、穏やかな挨拶の温かさは、はっきりと胸に届いた。
ジムニーが動く保証はない。だが、手をこまぬいているわけにはいかなかった。
ヒューズボックスを、はやる心を抑えて開ける。
「頼む!」
軽トラのヒューズは同じ規格だった。車のメーカーは同じだったが年式も違う。
同じヒューズを使っている可能性は低かった。
いくら修理をしてもヒューズが違えば再起は不可能だったことに昨晩思い当たったのだ。
ここでも幸運だった。
父に感謝せずにはいられなかった。
この里のどこかでやはり見守ってくれている気がした。
しかし番号とアンペア数までは一致しなかった。
アンペア数の違うヒューズは一致するものを探した。
アンペア数が異なるヒューズの使用は、過電流による配線の焼損、ひいては車両火災に繋がる。
細心の注意を払い、一致するものを探して取り付けた。
はやる心を抑えてイグニッションキーを回す。
……無音。
田崎は耳を澄ませた。
森を通る風が、草を鳴らす。
ライトも、計器も、死んだまま。
胸の奥に冷たい影が広がる。
田崎は再びボンネットを開いた。
配線を一本ずつ辿り、断線は絶縁テープで巻き直し、緩んだボルトはスパナで締める。
かすれたハンダごての匂いが油の匂いと混ざり、鉄と熱の苦い空気が鼻を刺した。
手の甲はすでに黒く、爪の隙間まで油が入り込んでいる。
オルタネーターのベルトの張りもスパナで調整していった。
バッテリーを取り付け直す。衝撃で外れないように工具箱から針金を取り出しペンチで端子とケーブルをしっかり固定した。そして磨き直した端子を、確実に繋いでいく。
額の汗を拭おうとしたとき、ふいに木陰が動いた。
見上げると、木の籠を抱えたリューシャが立っていた。
中には色づいた果実がぎっしりと詰まっている。
「……ありがとう」
彼は一つを取り、ためらいなくかぶりついた。
梨のような、柿のような甘酸っぱさが舌に広がり、果汁が指と服を濡らす。
思わず顔をしかめると、リューシャが小さく笑った。
その笑みは、不思議と力をくれる。
昼が過ぎ、陽は高く、そしてまた傾き始めていた。
外せる部品を一つずつ外し、磨いて、組み直す。
何度も試み、何度も沈黙に打ちのめされる。
それでも田崎は諦めなかった。汗が顎から滴り落ち、鉄板に黒い染みを作る。
油にまみれた両手を、布で拭っても黒ずみは消えない。
サスペンションとシャフトに絡まった泥や蔓も除去していった。
やがて夕陽が西に傾き始めたころ、田崎は深呼吸をして再び運転席に座った。
胸の奥で心臓が速く打つ。ブレーキを踏み込み、キーを回す。
「……頼む」
しかし、無情にもエンジンは沈黙したまま。
「バッテリーかな……?」
ライトはつかない。
無音の状態は、バッテリー上がりというより回路のどこかが死んでいるのだろう。
大元のヒューズかアースを見落としている可能性が高い。
田崎はため息をついた。この暗さではもう作業は出来なかった。
明日、ジャンピングスターターと充電器を用意して再チャレンジだ。
「頼むぞ、相棒」
田崎は一つ伸びをして、ジムニーのボンネットを閉めた。




