5 下弦の月の下で
いつの間にか、昼下がりになっていた。
窓の影から、チョーローが顔をのぞかせる。
「風呂って、あるのか?」 田崎は、手帳をめくると、チョーローはにやりと笑い、
「ささっ、ついてきなっせ」と手招きした。
田崎の胸が高鳴った。久しぶりの入浴だ。
ひょっとしたら、父がこの里で温泉でも見つけてくれていたのかもしれない。
皆も汗を流せるだろう。
しかし、脳裏をよぎったのはリューシャの入浴姿だった。
田崎は慌てて頭を振り、雑念を追い払った。
父の墓がある丘の反対側。
林の中の小径を下りると、木々の間から水音が響いてくる。
やがて視界が開け、小ぶりな滝と、その下に広がる透き通った滝壺が現れた。
紅葉の赤がひらひらと舞い落ち、水面にゆらめく。
チョーローは滝壺の縁でぴたりと足を止めた。
まるで「ここが風呂だ」とでも言いたげだ。
「……ここ?」
恐る恐る水面に手を浸すと、指先に鋭い冷たさが突き刺さった。
「さあ、はいりゃんせ」
振り返ると、満面の笑みのチョーローが立っていた。
田崎は古びたブーツを脱ぎ、つま先をそっと水に入れてみる。
不安げにチョーローを見やると、彼は悪戯を隠しきれない子供のように頷いた。
そこへ小人たちが現れ、木で編んだ籠を田崎に差し出す。
中には、父が着ていたと思われる、つぎはぎだらけの浴衣のような服が入っていた。
覚悟を決めた田崎は、服を脱ぐと、深呼吸して勢いよく滝壺に飛び込んだ。
「つッめてえぇぇッ!!」
滝壺にこだまする絶叫。
チョーローと小人たちは腹を抱えて転げ回り、手を叩いて笑い続けた。
夕暮れ。
石畳の広場では夕食の支度が整っていた。
かがり火の明かりがゆらめき、料理の香りが夜空に乗って漂う。
リューシャは深緑色のチュニックを脱ぎ、浴衣に着替えていた。
水浴びをしたのだろう、しっとりとした肌が、かがり火の明かりを受けて淡く光った。
田崎は思わず見とれたが、彼女はどこかよそよそしい表情をしていた。
『寒くない?』
現地の言葉で声をかけると、リューシャは驚きと喜びが混じったような目で田崎を見つめた。
田崎が言葉を覚え、自分に話しかけてくれた。
それが嬉しかった。
胸の奥に暖かなものが灯ると同時に、どこか遠ざかっていくような切なさもあった。
『問題ない』とだけリューシャは現地語で答えた。
もし、車が直ってしまえば、どこかにいってしまうのではないか。
その不安を、彼女はずっと胸の奥に押し込めていた。
二人は黙ったままだった。
かがり火の爆ぜる音の合間に、言葉にできない何かが流れていた。
グランは茶色の質素な上下から現地の浴衣に着替え、ホーガイとイリナも清潔な衣服に身を包んでいた。
イリナの頬にはまだ青白さが残るが、わずかに血の気が戻っている。
薬湯を飲み干す娘を、ホーガイが静かに見守っていた。
その顔には、奸商の面影など微塵もなかった。
ただ、娘を愛する父の顔だった。
田崎は、そんな光景を眺めながら、心のどこかがじんわり温まるのを感じていた。
不思議と、この里が懐かしい。
まるで、遠い昔からここにいるような。
夜。
藁の寝床に横たわる田崎の枕元に、気配が満ちた。
目を開けると、そこにリューシャが立っていた。
窓から差し込む月光に濡れた瞳が、田崎を愛おしげに見下ろしている。
「リューシ…」
唇が触れ合った。
田崎の目が大きく見開かれ、全身が硬直する。
ただ、彼女の体温だけが確かにそこにあった。
今朝のことを、リューシャは思い出す。
丘の上で、田崎に告げられた愛の言葉。
胸の奥で、その響きがずっと消えなかった。
逃げ出した自分の背に、あの声が残っていた。
愛を受け入れた女は、その夜、男のもとを訪れるという。
リューシャは郷の習わしを思い出していた。
自分には縁がないと思っていた。
田崎に惹かれる自分の想いに気づいた時、もう気持ちは決まっていた。
軋む寝台で寄り添う二人を、ルーがじっと見ていた。
やがて藁の寝床を抜け出し、外へ出る。
下弦の月が、静かな里を淡く照らしていた。
この夜、二人の間に授かった命が、のちに闇の森を駆け抜けることになる。
だが、それを知るものはまだ誰もいなかった。
翌朝。
石畳の広場での朝食。
グランが笑顔でミルクの椀を差し出した、その瞬間。
『愛してる、グラン』田崎は真顔で言った。
場が凍りついた。
お椀を取り落とし、目を白黒させるグラン。
ホーガイはミルクを盛大に噴き出し、イリナは何かの予感に目を輝かせる。
リューシャは眉間に深い皺を寄せ、田崎を覗き込んだ。
チョーローとオムカは腹を抱えてのたうち回りながら笑い転げる。
「わん!」
ルーの一声が、石畳の広場を貫いた。




