4 手帳
藁のベッドに身を沈め、田崎は手帳を開いた。
ページをめくるうちに、息をするのも忘れていった。
あの日、家へ帰る途中。ふとダッシュボードの上を見ると、小さな老人が座っていた。
父から何度も聞いたあの存在が、現実になっていた。
「本当に、いたんだ」と思った記憶だけが、鮮明に残っている。
ただ、その後の出来事は強烈だった。
地鳴りのような音とともに、大きな揺れが襲った。
岩石と土砂が容赦なく降りそそぐ中、死を覚悟した。
妻と、息子の圭一、そして父の顔が浮かんだ。
だが、衝撃は来なかった。
気づけば、そこは見知らぬ場所だった。
あの小さな老人が唱えていたのは、まじないの言葉だったのだろう。
ここに来て、三日は経っている。
田崎の父は帰る方法を探りながら、手帳に日々の出来事を記していた。
チョーローと名乗る小人に尋ねても、首を横に振るばかりだった。
「わしは一人なら行き来できる。だが、人を連れては行けんのじゃ」
父の筆跡で、その文章だけが妙に濃く滲んでいた。
「あの時だけ、影の力が強くなった。なんでかは、わからんのじゃ」
そう記したあとに、父はこう続けている。
「チョーローが唱えると、体が黒い霧に包まれた。夕方、彼は戻り、一本の煙草を差し出した」
銘柄は違ったが、ありがたく受け取る。それが最後の一本になった。
チョーローの様子は明らかに衰弱していた。
「向こうの闇の力は強すぎてな……おまえの父に会ってきたよ」
その笑みを見た瞬間、田崎の父は胸をなでおろした。
自分の無事が伝わったこと、それだけで十分だった。
昼食の時刻、小人の少年が迎えに来たが、田崎は気づかなかった。
手記に心を奪われていたのだ。
小人たちは本当によくしてくれた。
挨拶をすれば、笑顔で明るく返してくれる。
父もこの地で言葉を覚え、小屋を建て、仲間と笑っていた。
手記は、五年前の日付で終わり、最後には単語帳が二十ページほど続いていた。
一ページに四十から五十語。
千語もあれば、日常会話は成り立つはずだ。
田崎は使えそうな語を選び、声に出してはつぶやき、ひたすら暗記した。
だが気がかりは尽きなかった。
どうやって、発電機をジムニーまで運ぶか。
本当に軽トラックの工具だけで修理ができるのか。
タイヤのパンクも、エンジンの故障部位についても気になる。
不安を打ち払うように、田崎は首を横に振った。
「今は、できることをやるだけだ」
そう自分に言い聞かせ、現地の言葉を口の中で繰り返す。
昼下がりの太陽が小屋の窓から差し込む中、田崎は現地語を暗記していった。
手帳を読みふける田崎の小屋から、少し離れた丘の上。
その太陽の下、田崎の父の墓前にチョーローとオムカが並んで座っていた。
「のう田崎、お前の息子がやってきたぞ…」
チョーローは登山用ストックに語りかけた。
その瞳には、懐かしさと誇りが穏やかに宿っていた。
田崎の父と出会った時のことを思い出す。
十二年前、影が封印を蝕む速さが増していた頃、チョーローは毎日のように影を異界に送り返していた。
胸騒ぎがした。
あまりにも多くの影を送りすぎている。
影と一緒に渡った先が、田崎の父のトラックのダッシュボードの上だった。
その瞬間、大きな揺れが襲った。
それと同時にさらに多量の影が送り込まれる気配を感じた。
ちょうど十二年前の寺院での儀式の時だったと、あとで知った。
その影を間一髪取り込み、軽トラごと土砂崩れからこちらの世界に逃れたのだった。
「お前さんを、向こうに返すことは叶わんかった。」
「だが、お前の息子には…まだ望みがある。」
チョーローは腕に抱えた黒い箱を見つめる。
オムカも田崎の父と過ごした日々の事を思い、涙ぐんでいた。
「オムカもご苦労だったな……」
オムカはかつて商人が手に入れたイリナの病の元になったまじない道具を探していた。
ホーガイのところにきた時には、それはすでに人手に渡り行方知れずになっていた。
「オムカ、お前にもそろそろ、影を払うばかりではなく、影を”返す”術を教えねばな」
その言葉に目が輝くオムカ。
「それと、影と一緒に向こうに遊びにいく術もな」
「ほんとにっ!?」
オムカはくるりと宙返りし、嬉しさのあまり地面に転がった。
ホーガイが手に入れたまじないの道具の力があれば、オムカは向こうの世界に自由に遊びに行けると考えていた。
ホーガイと交わした約束のことは、すっかり忘れさったオムカだった。
「向こうの世界じゃ、道がすぐにできる。鉄の車に轢かれんよう、気ぃつけるんじゃよ」
チョーローはいたずらっぽく目を細めた。




