3 ありがとう
軽トラの前で、田崎は工具を並べ、ひとつずつ手にとって確かめていた。
ぶつぶつ独り言をこぼすその横で、リューシャは興味津々に小屋を見て回る。
小屋は質素ながら天井が高く、頭上にゆとりがあった。
藁ベッドを見ると、顔を輝かせて飛び乗り、両手両足を思い切り伸ばした。
ふとリューシャを呼ぶ声がして戻る。
すでに鉄の箱は騒音と煙は出さず、沈黙していた。
チョーローと田崎が何やら話をしている。
昨夜の朗らかな笑みは消え、目の奥には、何かを伝えようとする影が落ちている。
田崎とリューシャが揃うと、チョーローはふたりを見て、短くうなずいた。
「……ついてきてほしい。見せたいものがある」
そう言って、細い背をひるがえす。
小道を抜け、坂道を登っていく。やがて、里を一望できる小高い丘にたどり着いた。
朝露に濡れた草が光り、風が梢を渡る。
草の中に、一本のストックが丁寧に立てられていた。
風に揺れるその姿は、まるで墓標のようだった。
言葉も出ず、田崎はその前に立ち尽くした。
父がいつも手放さなかった登山用のストック。
胸の奥が、静かに軋むように痛んだ。
「五年前、この村に熊猿が現れた。結界がゆるんで森から……迷い出たのだろう」
チョーローがそっと語り出した。
「わしは、その時、里を離れていて戻った時には、熊猿は倒されていた。しかし……」
たどたどしい日本語が、風に乗って耳に届く。
田崎は、うなずいた。わかっている。父は小人たちを守るために戦ったのだ。 消防団でもいつだって人の前に立つ人だった。
「村を救ってくれたが、傷は深く、いかなるまじないや薬草でも治せなかった。最後は穏やかに……」
チョーローの目が、かすかに潤んでいた。
言葉を探しながら、懸命に伝えようとしているのがわかる。
その小さな両手で、布にくるまれた一冊の手帳を差し出してきた。
「……のこして……いった。あなたの……おとうさん」
田崎は、手帳を受け取った。
擦り切れたビニールの表紙。ページを開くと、見覚えのあるボールペンの文字。
三月までの消防団の予定、町の清掃当番、そして「母さんの命日」の日付。
日常が、そこにあった。
その次のページから、日記の調子が一変した。
日付は乱れ、文字は走り書きに変わっていた。
「黒い霧」「見知らぬ森」「言葉が通じない」——
断片的な言葉が並び、必死に記そうとした息づかいが伝わってくる。
ところどころかすれ筆圧でにじみ、やがて明らかに違うペンへと変わっていた。
インクが切れ、自作のペンに切り替えたのだろう。
読み進めるうちに、涙がにじんできた。
最後の数ページをめくると、そこには辞書のような文字列があった。
後ろのページから、びっしりと書かれている。
日本語と現地の文字、そしてカタカナで発音が並んでいた。
父は、言葉を覚え、この世界で生き抜こうとしていた。
いや、この世界で生きたのだ。
誰かと心を通わせ、小人たちを助け、幸せに過ごしていたのだろう。
田崎は、ふと辞書の一番最初の単語に目を落とした。
そこには、こう書かれていた。
「ありがとう」
父の字だった。癖がありながらも、不思議と優しい線。
その下に、この世界の言葉で「ありがとう」とカタカナが添えられている。
田崎は目を閉じ、頬をなでる風に父の声を感じた。
「ありがとう、父さん」
涙をぬぐい、田崎はリューシャの方を振り返った。
それから少し躊躇して、異国の言葉で言った。
「リューシャ……ありがとう」
リューシャは目を見開いたまま、しばらく言葉を失っていた。
やがて頬がふわりと赤く染まり唇を結ぶと、くるりと背を向けて駆け出していった。
呆気にとられる田崎の隣で、チョーローがにやにやと笑っている。
「リューシャ?」と戸惑って声をかけたが、彼女の姿はもうどこにもなかった。
「ささっ、いくでな」
チョーローに促され、田崎は手帳を胸に抱きしめた。
そして、小屋へと新しい一歩を踏みだした。




