10 ただいまと言えたなら
ジムニーは、草むらの中に佇んでいた。
タイヤのひとつはひしゃげ、ルーフが歪み、あちこちに泥と草が絡みついている。
数日前まで「ぴかぴか」だったその車は、今やただの金属の箱と化していた。
田崎はそのジムニーの傍にしゃがみ込み、ぼんやりと前を見つめていた。
両膝を抱え、顔を影に沈める。
身体の力は抜け、何もかもが遠く思えた。
周囲の木々は、どこか懐かしかった。
カラマツ、コナラ、クヌギ。
ヤマザクラにエノキ、ケヤキ、モミジにカエデ。
視界の端をそっとなぞるように、懐かしい木々の名が浮かぶ。
「……うちの裏山と……変わんねえな」
つぶやきが、霧のように口元からこぼれた。
あの坂の下を降りて林道に出れば、家の裏手につながっている。
じいちゃんが、大鍋で味噌汁を作っている。キノコたっぷりのやつ。
油の跳ねる音。芋とキノコの天ぷら。新聞紙の上に置かれたあつあつのやつ。
風呂に入って、さっぱりして、ぬるめの熱燗。
天ぷらを一切れ口に入れたあとで、酒をすっと流し込む。
うまいんだよな、この時期のてんぷらは……
「明日の仕事……なんだっけ」
頭が勝手に、現実の生活へと戻ろうとしていた。
午前中は、残していた書類の整理。
午後は観光案内所に顔を出して、商工会議所で年末年始の打ち合わせ。
いつも通りの仕事。
いつも通りの道。
ぴかぴかのジムニーに乗って、役所のジャンパーを着て……
それは確かに、つい先日までの現実だった。
だが、もう、手が届かない。
届かない場所にある「いつも通り」は、あまりにも残酷な幻に思えた。
田崎の目に、ふっと涙が浮かぶ。
こらえようとしても無駄だった。
気づけば肩を揺らし、膝に乗せた腕の中に、顔を深くうずめていた。
「……帰りてぇよ……」
嗚咽がこぼれた。
次から次へと、涙が頬を伝っていく。
ただ無言で、子供のように泣いていた。
そのとき、ふわりと毛の感触が肩に触れた。
ルーだった。
ゴールデンレトリバーの大きな身体を、田崎に寄せるようにして、そっとすり寄る。
そのつぶらな目は、心配そうに揺れていた。
田崎は、震える指先でルーの耳元を撫でた。
その優しさに、また涙がこぼれ落ちた。
左側頭部がずきずきと痛む。
リューシャは、血で濡れた布で頭の傷を押さえてくれている。
田崎は言葉を出せなかった。
ただその優しさが胸に沁み、呼吸がうまくできなくなった。
自分は、どこにいるのか、それすらもわからなくなる。
リューシャは、子どものように泣く田崎の頭をそっと胸に抱き寄せた。
守りたい、そばにいてほしい。その思いだけが、胸にじんわりと広がる。
そのときだった。
茂みの向こう、小さな影がひとつ、またひとつと現れ始めた。
誰もそれに気づかなかった。
ルーも、リューシャも、田崎も。
ただひとり、オムカだけがそれを見つめていた。
小さな足音が、湿った土の上に落ちる。
その音はまだ、誰にも届かないほどにかすかだった。
ひっそりと小人たちが、集まりはじめていた。




