9 緑の衝突
風を切る音すら呑まれて、緑がすべてを包み込んだ。
結界を越えた瞬間、ジムニーの周囲の空間が緩やかに傾き、重力の感覚が失われる。
光も音も曖昧になり、次の瞬間。
ズドンッ!
ジムニーのタイヤが地面に激突した。草と泥が宙を舞い、車体が跳ね上がる。
右に傾いたジムニーは草地を滑り泥をえぐり、ズズズ……と草むらに沈み込むようにして止まった。
エンジンが苦悶のような唸り声を上げ、そして、プツン。
すべての音が途絶えた。
風も、鳥のさえずりも消え、むせかえるような青草の匂いと、車体のどこかから漏れる冷却水のかすかな滴り音だけが残った。
「……う、っ……」
最初に動いたのはリューシャだった。
彼女はとっさに、ホーガイと彼が抱える娘イリナを庇うように覆い被さっていた。
背中に鈍い痛みが走る。天井に強く打ちつけたようだ。
右の腰背部を強く打ったらしい、疼くが出血はなかった。
「タサキッ!」
運転席に目を向け、リューシャが叫ぶ。
田崎はぐったりと背もたれに身を預け、左側頭部を押さえていた。
手のひらが血で濡れている。ヘッドレストの左側が抉られ血が付着していた。
田崎の顔を舐めているのは、ルー。レトリバーの優しい舌が、何度も頬を撫でていた。
「……ルー……? 無事か……」
かすれた声に、リューシャは安堵の息を漏らす。
すぐに革鎧の下のチュニックの裾を裂き、田崎の頭に布を押し当て、血が広がるのを押さえた。
田崎はわずかに首を垂らすと、再びシートに身を沈め目を閉じた。
後部座席ではホーガイが呻いていた。こめかみに手をやりながら顔をしかめる。
「イリナ……イリナ!」
彼の腕の中で、イリナは声にならない嗚咽を押し殺していた。
顔に擦り傷があるが、手足は無事だ。
ホーガイは娘を抱き締めるようにして力を抜いた。
「オムカ...!」
グランの声が響いた。彼は床に頭を突っ伏したまま、体を起こせずにいる。
そのとき、リアの荷台から何かが飛び出す。
潰れた紙コップをかぶったオムカだった。
彼はひょいと後部座席に乗り移ると、きらきらした目で言った。
「ようこそ!小人の里へ!」
その一言に、一同の顔にかすかな生気が戻る。
田崎は歪んだドアを押し開けようとしたが、曲がったヒンジで開かない。
体重をかけると、ガンッ!と蝶番が外れ、ドアが地面に落ちた。
外の空気が、ひんやりと車内に流れ込む。
一行は疲労と安堵を抱えたまま、のろのろと車外へ出た。
歪んだバックドアを開けたリューシャが、ホーガイとイリナを抱えて草地に下ろす。
続いてグランもよじ登って外へと出る。
足元の感触を確かめるように、全員がそろそろと草の上に立った。
グランは深々と息を吐き出し、胸に抱いていた短剣をゆっくりと鞘に戻した。
ホーガイはぐったりとしたイリナを胸に抱きながら、その場に崩れ落ちるように座り込み、ただ天を仰いだ。
「助かったのか……」
車体は半ば草地に沈み込み、泥と草に覆われて無惨な姿をさらしている。
田崎はそのそばに崩れ落ちるように座り込み、再び頭を押さえた。
リューシャが隣に膝をつき、再び布を押し当てて止血を続ける。
「しっかりして。まだ……終わってない」
しかしその言葉は、田崎には、届かない。
視線を上げると、懐かしくなるような、里山の風景が夕暮れに溶け込んでいた。
田崎は、草むらに座ったまま、呆然と空を見上げた。
青かった。まるで、すべてが新しく始まるような色をしていた。




