8 結界の門
オムカは杖をダッシュボードに突き立て、低く歌うような声でまじないを唱える。
ジムニーの前方、岩場の斜面の空間がわずかに波打った。
水面に風が吹き込んだように空気が揺らぎ、ひずみ、ぼやけていく。
その歪んだ空間の向こうに、異なる世界のような緑の風景が、ちらりと覗いた。
夕暮れの赤い光に染まる岩場とは対照的に、その先には草木が息づき木々が淡く輝いていた。
それは、まるで希望の風景だった。
ジムニーはごとごと音を立てながら登坂を這うように進み、岩の頂上にたどりつこうとしていた。
下りの斜面に、緑の里山が口を広げて待っている。
「…もう少し!」
だがその刹那、獣のような唸り声とともに豹猿にまたがった鬼猿が、岩陰から跳ねるように飛び出した。
猿使いの叫びがこだまする。
ドンッ!
鬼猿を乗せた豹猿が、ジムニーの側面に体当たりする。
衝撃にハンドルを取られるが、車体を立て直す。
しかし鬼猿の腕が窓枠を掴み、そのままボンネットに飛び乗った。
フロントガラスのない運転席に、鬼のような形相が迫る。
鬼猿は棍棒を構え、田崎の頭部を狙って突き出した。
ザンッ!
咄嗟に頭を右に逸らした。ヘッドレストの左側が綿を出して吹き飛ぶ。
左側頭部に激痛が走った。
直撃は避けたが血が滴り落ち、じんじんと焼けるような痛みが田崎を襲う。
田崎の視線と、鬼猿の燃えるような瞳が交差する。
その瞬間…
キィィィィン!
騎乗したまま駆け寄っていた部隊長デルグラが、馬上から矢を放った。
風を切り裂いて飛んだ矢は、鋭い音を立ててジムニーの左後輪に突き刺さった。
ボンッ!
タイヤが潰れ、ハンドルが左へ大きく引かれる。
田崎は瞬時に両手で押さえ込み、何とかコントロールを保つ。
ボンネットの上で体勢を崩した鬼猿が滑りかけが、一声吠えて踏みとどまり、再び襲いかかろうとする。
田崎はアクセルを踏み込んだ。
「もう少し、もう少しで……!」
目の前に広がる、淡い緑の里山の景色。
カンカンカンカン‥
左後輪に刺さった矢がホイールアーチを擦り、金属をえぐるような不協和音と、鈍い振動が車体を震わせていた。
田崎の両手にも、嫌な震動が伝わってきていた。
頼りなく揺らぐ風景が、結界の向こうに見えている。
ハンドルを戻し、ジムニーが再加速する。
鬼猿も体勢を立て直し、再び棍棒の先端を田崎の頭部へと向ける。 凶悪な口元が歪んだ。
ガッ、ガツン、ガガッ……!
その音は不規則になり
そして…
バァンッ!!
耳をつんざく破裂音。
左後輪が完全にバーストし、ジムニーの後部が弾けるように跳ねた。
ハンドルがさらに左へ取られ、車体が下りの岩場を斜めに滑る。
「くそっ……!」
田崎はとっさに急ブレーキを踏み込んだ。
…しまった。
その瞬間、左側のタイヤが岩を蹴り、車体が宙に舞った。
ふっと、浮遊感。
「きゃああああああああああああああああああああああ!!」
絶叫が車内を突き抜ける。
鬼猿の姿が、フロントから吹き飛んだ。
次の瞬間、ジムニーのルーフが岩にぶつかり、大きく跳ね上がる。
バシュ!
耳元で鈍い破裂音が響き、頭上のルーフサイドから白い袋が一瞬で膨らむ。 ジムニーの残っていたガラスが砕け、白く舞う。
白いナイロンの塊が田崎の視界を奪った。
…宙を回転するジムニー。
そのまま、結界の中へ。
ゆらめく空間が、ジムニーを包み込む。
ぐにゃりと空気が歪み、緑の世界が車体を呑み込む。
そして…
ジムニーを待っていたかのように、結界はぱたりと閉じた。
赤黒い岩場に、静寂が戻る。
風がひとすじ通り抜け、残された猿使いと騎士たちは、ただ唖然としてその向こうを見つめていた。
もう、ジムニーの姿はなかった。




