10 夜をこえて
ジムニーのボンネットに月明かりが淡く射していた。
雲ひとつない満点の星空。半月の周りだけ月明かりが星の光を遮り、漆黒のリングを作っている。
フロントもリアも割れた車内は、冷えた風の通り道と化していた。
街道の闇を切り裂くヘッドライトも、右側はすでに光の半分を失っていた。
グランの肩の傷は、幸いにも革鎧が衝撃を和らげていた。
後部座席の救急箱を取り出し、グランの鎧を外した。
傷は浅いが出血が多い。ペットボトルの水で洗い流し、消毒薬を染み込ませたガーゼを押し当てると、グランは顔をしかめた。
リューシャの顔には、豹猿との戦いで受けた切り傷が走っていた。血で濡れた頬に水をかけ、そっとガーゼで撫でるように拭う。
消毒薬のしみる痛みに彼女は眉をしかめたが、何も言わなかった。
ただ、その手つきになぜか懐かしさが胸を揺らし、頬を赤く染める。
悟られぬよう、そっと目を伏せた。
田崎自身の腹は鈍く痛んでいたが、セーターとダウンジャケットが衝撃を吸収していたのだろう。
車内では、風に吹かれながらオムカが胡座をかいて座っていた。
ダッシュボードの上、木彫りのようなその姿が杖を前方に指す。
影の気配は、もうなかった。深夜の街道は静かで、人の気配すら遠い。
ジムニーのエンジンが唸りを上げる。田崎はヘッドライトに浮かぶ草原に伸びる街道を進めていった。
やがて、街道沿いにぽつりぽつりと民家の影が見え始める。田んぼのような湿地を過ぎ、小さな丘に差しかかる。
右手には、ぼんやりと明かりを灯した城壁の街が見えてきた。
高さはおよそ二メートル、石と土で築かれた簡素な防御線。
その背後に建物の屋根が重なっている。
そのとき、ホーガイが後部座席から身を乗り出し、何事か叫んだ。
オムカが杖の向きを変える。
ジムニーは街道を外れ、木立の小道に入っていく。
枝が車体をこすり、嫌な音を立てた。
道はじわじわと上り坂になり、山の中腹に達する。
その先、林に囲まれるようにして、ひっそりと佇む石と木の造りの屋敷が現れた。
ホーガイは真っ先に車から飛び降りると、鉄の扉を拳で叩き、大声で何かを叫んだ。しばらくして、ランプを手にした人影が扉を開けた。
恰幅の良い初老の女性だ。
彼女はホーガイを見るなり「ぼっちゃん」と声を上げて駆け寄った。
さらに、背の高い中年の男が部屋着のまま現れ、「おかえりなさいませ、旦那様」と深く頭を下げる。
グランとリューシャが不安げな様子を見せると、ホーガイは振り返って言った。
「ここは秘密の屋敷だ。わしの家ということを知っている人間は、この家の者しかおらん。安心せい」
田崎も膝を折り、頭を下げて屋敷に入る。
屋内は質素ながら、選び抜かれた家具が揃い、無駄のない温もりを感じさせた。
ホーガイは執事に何事か耳打ちし、奥の部屋に消えていった。
やがて戻ってきた執事は「娘の容体は安定しておりますが、油断はできません」と答えた。ホーガイの眉が寄る。
「この者たちは命の恩人だ。休ませてやってくれ」ホーガイはメイドに命じる。
起きてきた若いメイドが二人、軽く会釈し、部屋の準備を始めた。
初老の婦人に食事の準備を頼み、ホーガイは暖炉のそばに腰を下ろす。
その傍らの壁には、にこやかに微笑む婦人の肖像画が飾られていた。
田崎のその視線に気づくと、ホーガイが呟く。
「……死んだ妻だ」
ホーガイはそれ以上語らず、暖炉の火に目を落とした。
やがて執事が銀のトレイに地図と駒を載せて戻ってくる。
羊皮紙の地図を広げ、聖都、闇の森、竜猿との戦いの地、川、村、そして街道をたどって駒が置かれていく。
ホーガイとオムカは地図を前に言葉を交わしていた。
そのうちに、パンの焼ける香りとともに、温かなスープと熱いお茶が運ばれてきた。
素朴だが滋養のある食事だった。
皆が黙って食事を口に運ぶなか、田崎はふと気づく。
あの混乱の一夜を越えて、気づくと昼から何も食べてなかった。
いまようやく温かい食事にありついているのだ。
食べ終えると、ホーガイがメイドに指示を出す。
田崎とリューシャはメイドに、部屋に案内された。
廊下を抜けた先、厚手の扉の向こうに、整えられた簡素な客間があった。
ベッドが二つ並び、壁際にはもう一つ、細身の寝台が置かれていた。
ルーが田崎の足元をついてきて、ベッドの脇に丸くなる。
田崎は、もう何も考える余裕もなく寝床に身を沈めた。
欠けゆく半月が、ホーガイの屋敷を照らしていた。
その光の下、屋敷の庭先で、鉄のボンネットがひそかに銀色を返した。




