8 決戦
車は不自然に静まり返っていた。森は「闇の森」ではないが、街道沿いに広がるその木々の連なりには、じっとりとした湿気があった。
ジムニーの中で田崎は目を閉じ、早鐘のように打つ心臓と背中に冷たい汗を感じた。
最初の日、スコップで猿を殴り倒した、あの重い手応えが腕に蘇った。
ハッと目を開き、後部座席のスコップを握りしめると、喉の奥で息を飲んだ。
「リューシャ!グラン!」
名を呼ぶと、リューシャが振り返り、鋭い目が田崎をとらえ短くうなずいた。
田崎も黙って首を縦に振る。
「……やるしかない」
田崎は車のドアを開けて降りた。林にドアが閉まる音が響く。
湿った土の匂いが鼻を突いた。
田崎を真ん中に、左右にリューシャとグランが並ぶ。
じりじりと距離をつめてきた異形の猿、三体。
飛び出してきた豹猿が、獣じみた叫びをあげてジムニーに跳びかかろうとした。
「させないッ!」
リューシャが何かを叫び、前に出て剣を構え、剣と爪が激しくぶつかり火花が散った。
もう一頭がリアハッチへ向かい、車内に侵入しようと身をかがめた。
「こいつは俺がやる!」
グランが吠えながら、斜めに飛び出してその豹猿と取っ組み合う。
田崎は前を見据えた。
鬼のようなツノをはやした猿。その赤い目は、明らかに知性を宿している。
体格はリューシャよりも低いが、ずんぐりした骨太の体と、太もものような二の腕。
その手には木の幹のような棍棒を、無造作に構えている。
心臓が激しく鼓動しているのを感じる。
スコップを握る手が震える。
スコップを構えた瞬間、鬼猿の棍棒が唸りを上げて襲いかかった。
「うおっ!」
土煙があがる。
ギリギリのところで身体をひねり薙ぎ払いを避けると、田崎はスコップを突き出した。
ジャブのような牽制。だが、鬼猿は怯まない。
田崎はスコップを振るというより、ただ振り回していた。
恐怖と必死さが混じる。
自分が何をしているのか分からず、ただ目の前に鬼猿を倒さなければならない一心で動いていた。
やらなきゃ、殺される……!
豹猿と組み合うグランは、獣の腕を絡め取りながら膝を入れ、かみつこうとする顎に拳を叩き込んだ。
グランはかつて家族を失ったときの、床下から聞こえた悲鳴を思い出していた。
しかし、今はもう、そんな恐怖には負けない。
戦士でもない、あの異邦人も戦っている。
もう目の前で仲間は死なせない!
だが豹猿の爪が肩をかすめ、深く裂く。
グランが苦悶の唸りを上げる。
リューシャは相手の動きを読むように剣をさばき、切っ先で肉を削っていく。一瞬の隙をついて豹猿の前足が跳ね上がり、リューシャの頬をかすめ、血が飛んだ。
そのとき、
「ワンッ!」
怒号のような吠え声とともに、ルーがジムニーから飛び出してきた。
豹猿に組み敷かれているグランの背中めがけて、覆いかぶさっていた豹猿の首筋に、一直線に噛みついた。
その瞬間を見逃さなかった。
グランが短剣を逆手に取り、豹猿の胸部を一気に突き刺し肉を抉った。
リューシャは剣を高く掲げると、豹猿の頭頂めがけて突き立てた。
刃が頭骨を貫き、豹猿は崩れ落ちた。
そのとき、小さな声が車内から聞こえた。まじないの詠唱。ホーガイの傍らで、オムカが神妙な面持ちでなにやら呟いている。
闇の気配が、少しずつ薄れていく。
田崎と鬼猿は、まさに力のぶつかり合いだった。
棍棒とスコップが火花を散らすようにぶつかる。が、体格では明らかに劣る。
田崎の頭を砕こうと振り下ろされた棍棒が、すれすれで空を切る。
リューシャは血の気が引くのを感じた。
それでも、彼は止まらない。
呪いの子と呼ばれ、誰も私を見てくれなかった。
タサキ!あなただけが私を人として見てくれる。
心が張り裂けそうになりながら剣を片手に駆け寄ろうとした時、鬼猿の棍棒が田崎に迫っているのが見えた。
「ぐっ……!」
鬼猿の棍棒が田崎の腹部にめりこんだ。
内臓が捻れるような衝撃。視界が白く弾け、足が勝手に折れた。
その視線の先、愛犬の姿が見えた。
「やめろルー、来るなッ!」
かすれた叫びもむなしく、ルーが再び突っ込んだ。
鬼猿の腕に食らいつく。しかしあっさりと振り払われ、ルーの体が宙を舞う。
「ルーッ!!」
しかし、その一瞬の隙。
駆け寄ったリューシャの長剣が、鬼猿の右腹から左胸を切り裂いた。
だが浅い。臓器には届いていない。
「まだ……っ!」
リューシャの目の前で、田崎が立ち上がる。
逆手に構えたスコップを鬼猿の首筋へ突き立てた。
鈍い手応え、切れはしないが巨体がよろめく。
そこに、リューシャの最後の一撃が走る。
踏み込み斬り下げる。鉄を割るような音とともに、鬼猿の頭部が割れ血が吹き出した。
膝を折り、鬼猿は崩れ落ちた。
木の影にいた黒衣の男。豹猿にまたがっていたその姿が、スッと霧のように消えた。
田崎は力なく膝から崩れ落ちる。
「う……っ」
すぐにルーが駆け寄り、田崎の顔をぺろぺろと舐める。
生ぬるい血の匂いとともに、森に静寂が戻る。
「……消えた」
リューシャが剣を地面に突き立ててつぶやく。
影の気配が、まじないとともに確かに消えていた。
リューシャもその場に座り込むようにして倒れた。
グランが肩を押さえながら、よろよろと立ち上がる。
肩口には咬み傷があり、血が滲んでいる。
田崎は腹を押さえながらジムニーのバックドアを開け、荷室を漁る。
「あった……応急セット……」
ガソリンと獣臭が鼻をつく。
泥と羽、血で汚れた荷室に手を突っ込みながら、ぼやく。
「……なんだよ、なんでこんな目にあうんだよ……」
静かな風が、森を通り抜けていく。
倒れた猿の血が、土に吸い込まれていく。
戦いの匂いだけが、まだそこに残っていた。




