12 渡河
タイヤが河原の砂利を噛み、ジムニーは水際に鼻先をつけた。
小さなおじさんは変わらず杖を前方、川の中流をじっと指し示している。
「行くぞ……!」
田崎はブレーキで減速し、川に車体を滑り込ませた。
水がフロントバンパーを洗い、サイドの泥除けを越えて、車体下に入り込んだ。
「大丈夫か……? 吸気は……まだ上だ、まだ……!」
ジムニーは比較的高い車高とはいえ、深みに入れば一瞬でアウトだ。
吸気口が水を吸えば、ウォーターハンマー現象でエンジンが壊れる。
ジムニーの渡河能力は水深三十センチくらいだったよな……冷や汗が背中を伝った。
「止まるなよ、止まるなよ……!」
川の流れは見た目以上に強く、タイヤが時折砂利を滑らせた。
車体が少し流されながらも、斜めに切ったタイヤで川を横断した。
「ルー、もう少しだ……」
リューシャの膝の上でルーが不安そうに田崎を見上げた。
背後からは、なおも羽音と咆哮が響いてきていた。
振り返ると、竜猿が岸辺に迫っていた。
だが、ジムニーがすでに川の中央近くまで進んでいるのを見て、
バサァッ!
巨大な羽が一度、大きく波を立てた。
竜猿が飛び上がるかと思われたが、翼は大きくあおられ、上昇できずに地面に叩きつけられた。
「あれ……日の出……」
その瞬間だった。
東の空が、鮮やかに白み切った。
地平線から朝日が射し、川面が銀色に輝く。
朝日がその巨体を焼くように照らした瞬間、竜猿は唸り声を上げ、怯むように後ずさりした。
「効いてる……!?」
叫ぶ誰の声もかき消されるほどに、竜猿は鳴き声を上げた。
羽猿たちも、陽の光にさらされると急速に空中から姿を消し、森の上空へと散っていった。
竜猿は最後にもう一度、川の中央にいるジムニーを見据え、唸るような声を残して踵を返した。
しかし、危機はまだ去ってはいなかった。
ガシャッ、ヴオン……ガラガラ……!
田崎は急いでアクセルを踏み込もうとするが、エンジンが息継ぎをするように唸り、一瞬、止まりかけた。
「やばいっ……!」
エンジンの回転が急に不安定になり、田崎はハンドルを強く握りしめた。
しかし、辛うじてスターターは回り、再点火した。
「くそ……もうちょいだ、頼む……!」
陽がすべてを照らし、川の向こう岸へ向かってジムニーは音を立てて進んでいった。
狂乱の猿の群れが消えた水面を背に、田崎は両腕でハンドルを抱えるように固定し、息を殺して振り返った。
濁流の音だけが耳に残り、羽音も咆哮も、もう聞こえなかった。
「……オムカ」
小さな声で、ダッシュボードに視線を移す。
そこには、体を揺らしながらオムカが座っていた。
真剣な面持ちで、川岸の先を見つめていた。
「どっちに行けばいい……?」
田崎の問いに、オムカは無言のまま、杖をぐいと左前方へ振った。
「了解……頼んだぞ、ナビゲーター」
田崎はアクセルをじわりと踏み込んだ。
ジムニーのタイヤが川底の石を捉え、水飛沫をあげながら前進した。
水位は時折バンパーを超えたが、幸いエンジンは止まらない。
この車高じゃなきゃ、今ごろどんぶらこっこだ……
川の真ん中あたりで一瞬、流れに押され、ハンドルが不安定に軽くなる。
田崎は必死にそれを戻した。
「オムカ、次は……!」
すかさず呼びかけると、オムカがまた杖をふるい、左手の対岸の林を指した。
田崎はその方向へハンドルを切った。
いつ深みにはまるかわからない。泡立つ水面の中、田崎は必死の形相で浅瀬を探す。
「そっちはまずいって!」
杖が指し示す先は流れがやや緩やかに見えるが、浅瀬の気配はない。
「……どうなっても知らねえからな!」
叫びながらも、田崎は震える足でアクセルをじわりと踏み込んだ。
しぶきを上げながらジムニーが岸にたどり着いた。
タイヤがぬかるんだ土をつかみ、ようやく陸に乗り上げると、一同の口から自然と息が漏れた。
「……っぶなかった……」
田崎はハンドルにもたれかかるようにして、荒い息を吐いた。
車を止め、エンジンをアイドリングのままにして外へ出た。
冷たい風に、汗で濡れた服がべったりと肌に張りつく。
ぐるりと車体を確認した田崎は、思わず絶句した。
昨日の夕方まで、ピカピカだった相棒は、いまや「ガタガタのポンコツ」と化していた。
両側のサイドミラーは吹き飛び、前後のバンパーとボンネットは泥と血で汚れ、擦り傷が無数に走り、はげた塗装に凹みが幾つもあった。
ヘッドライトの片方はガラスが割れ、フロントガラスには斜めに大きな亀裂が走っていた。ただ、それでも運転に支障はなさそうだったのが、唯一の救いだった。
「……よく走ったな、お前」
田崎はジムニーのボンネットにそっと手を置いた。
その隣では、車から降りたグランとリューシャが肩で息をしながら座り込み、ホーガイは地面に這いつくばるようにして空を仰いでいた。
ルーは車の影に回り込み、水に濡れた体を振っている。
田崎は最後に、燃料ゲージを確認した。針はまだ五分の四を指していた。
走行メーターは前日の買い物の前から四十キロほど増えていた。
異世界にきてからはざっと二十七~二十八キロほど。
まだ焦る量ではないが、どこまで走れるかはわからない。
「燃料は……まだある。けど、このままどこまで行けるか……」
オムカは変わらずダッシュボードの上で、沈黙を守っていた。その小さな目は、すでに次の進路を見つめているようだった。
田崎はオムカの名をもう一度呼んだ。
「オムカ……次はどこへ行く?」
返事はなかったが、杖は下を指した。
今は、ゆっくり休めというように。
新しい朝の光が、震えるようにその道を照らし始めていた。




