第322話 事件
「お前、ホント強くなったよなぁ」
ドラマのロケ地からの帰り道で、翔太はしみじみと雫石に言った。
神代と雫石は超多忙であるため、将棋の指導を依頼している屋神には特別な日当をつけて、撮影現場に来てもらうようになっていた。
翔太は石動と違い、自由に動ける時間があるため、二人の撮影中は屋神の指導を受けていた。
撮影中に将棋を指すことは普通であれば問題となってもおかしくない行為だが、将棋が舞台のドラマであるため、役作りの一環として認められていた。
また、前潟が現場に居合わせる場合は屋神の指導はなしにしている。
「屋神先生も絶賛でしたね」
檜垣も翔太と同様に感心している。
雫石が受けている屋神の指導対局は、回を重ねるごとに屋神が落とす駒の数が減っていき、今では二枚落ちまで進んでいた。
彼女は翔動が開発している将棋AIを大層気に入ったようで、『カストル』という名前までつけていた。
撮影現場は車で乗り入れることができない場所のため、翔太、雫石、檜垣の三名は徒歩で駐車場まで移動していた。
ちなみに神代の出番はなく、橘とともに公開間近となった映画の広報活動をしていた。
(傍から見ると親子だな……)
翔太と夫婦に見られることを檜垣が嫌がるかもしれないため、心の中で思うにとどめた。
このところ、ピリピリとしたイベントが続いていたことから、翔太は今の長閑な時間を満喫していた。
「ふっふーん、さすが私」
雫石は翔太にもらった扇子で顎を指しながら、ドヤ顔で言った。
雫石はこの扇子をかなり気に入ったのか、片時も手放していないのではないかと思わせるほど、いつも持ち歩いていた。
さらには小道具として採用され、ドラマの撮影時にもこの扇子が使われた。
ドラマの放送後、日本橋の扇子店には注文が殺到し、品切れ状態となったのは後の話である。
「嬢ちゃん、俺と一緒にいいとこ行かないか?」
「は?」
明らかにカタギではない人物から声をかけられ、ほのぼのとした空気は一変して張り詰めた。
「「五人か……」」
翔太と檜垣は、相手に聞こえないよう、同時に小声でつぶやいた。
屈強な男たちが雫石を取り囲んでいる。
ニヤニヤと笑っている男たちをよそに、檜垣はダイヤモンドダストが発生するのではないかと思うほど、神経を研ぎ澄ませていた。
「申し訳ありませんが、仕事が控えているため、お相手しかねます」
雫石はよそ行きモードで、きっぱりとかつ丁寧な物腰で言った。
強面で威圧感たっぷりの相手に対し、雫石が平然と応対していることに、翔太は内心で驚いていた。
連中は十中八九、庭場組の構成員だろう。
人けのない場所で、雫石に対して絡んでくるガラの悪い人物はそれ以外に考えられなかった。
名瀬はサイバー攻撃だけでなく、物理的、精神的にも雫石を追い詰めるようだ。
彼らが仮に暴力団だったとして、何の口実もなく暴力を振るうことはないだろう。
雫石はそれがわかっているからこそ、相手に付け入る隙を与えないよう振る舞っている。
(まったく……この年でどんな人生歩んできたんだ……)
「彼女が言ったとおり、仕事がありますので我々は失礼いたします」
檜垣が慇懃に言って立ち去ろうとしたときに、事件は起こった。