第313話 扇子
「すごっ……」
葵は誰にも聞かれないほどの小声でつぶやきながら、見坂の姿を携帯電話で撮影していた。
これまでさくさくと指していた見坂の手が止まった瞬間だった。
6五歩の前に銀をただで差し出した手であるが、☖6六同歩と取ると先手の攻めが続くことになる。
この手は翔太が合宿で研究していた手だった。
→→→
「ねぇ、柊さん、ここからはどう指すのが正解なの?」
合宿所で神代はひたすら見坂の棋譜を並べていた。
これはドラマの役作りと、光琳製菓杯のための棋力向上の両方を兼ねていた。
雫石は役作りはそっちのけで、定跡を研究したり詰将棋を解いたりしていた。
ドラマでは雫石が主役で、神代の出番は後半のため、本来なら役作りが必要なのは雫石のはずだ。
よほど前潟に負けたくないのだろう。
「ちょっと待ってね……えっと……」
翔太はラップトップPCで翔動のマシンを遠隔操作した。
新田が猛烈な勢いで開発している将棋AIは、プロに匹敵するほどの棋力を持っており、棋譜や盤面を入力するとAIが計算した最善手が得られる。
おそらく二人は、このAIに億単位の予算が投じられていることを知らないだろう。
「え!? マジで……6六同銀直だって……」
「ただで銀を渡すの!?」
「その後の6五桂から、先手の攻めが続くんだよ」
神代は食い入るようにPCに表示されているAIによる候補手を見つめていた。
(ち、近い……風呂上がりのいい匂いが……)
この後、翔太がさまざまな変化を神代と研究したことが、見坂との対局に大きく影響することになった。
「ねぇ、柊さん、こっちも!」
「はいはい」
翔太は雫石の催促にいそいそと向かった。
←←←
「パチン」
静謐な部屋で、扇子を閉じる音が響き渡った。
見坂は前のめりになって、盤面を凝視しており、その手には扇子が握られていた。
タイトル戦で見坂が扇子を持っていることはよくあるが、それ以外の対局で彼女が扇子を手にすることはない。
ましてや、アマチュア相手の対局で扇子を持つのは、極めて珍しいと言っていいだろう。
おそらくこの扇子は無意識に手に取ったもので、それだけ彼女がこの対局に集中していることがうかがえる。
「……」
対局者の二人が無言で指していくなかで、葵はさまざまなアングルから見坂を撮っていた。
翔太は見坂の集中力を削ぐことを心配していたが、今の彼女は盤面だけを見つめていた。
そして流れるような手つきで☖7六歩と指した。
「パシーン」
小気味よい駒音が響き渡った。