第311話 愛
「愛ですね」
見坂は盤上では、およそそぐわない言葉を口にした。
「どゆことん?」
葵は友人の意味不明な発言に首を傾げるしかなかった。
遅れている屋神を待っている間、翔太は将棋会館の研修室で見坂と将棋を指していた。
通常、プロはアマチュアと対局する際は駒を落とすが、この対局は平手で行われていた。
「今のこの盤面は、神代さんがドラマで指す内容とまったく同じなのよ」
見坂はドラマに出てくる棋譜の監修を行っていることから、翔太の思惑にすぐに気づいたようだ。
彼女は翔太の誘いに乗るように駒を進めていた。
「ええっ、一手一手をいちいち覚えているの?!」
葵の声はよく通り、部屋中に響き渡るため、彼女が発言するたびに周りからの視線を集めていた。
しかし、葵は普段の露出が少ないためか、身バレしている様子はなかった。
葵の歌声はこの世のものとは思えぬほど美しいが、普段の会話では耳に響き渡る以外は一般人の声と大きく変わらなかった。
(こういう声、どっかで聞いたことあるな……あっ)
翔太は大河原という少女が、印象に残る声をしていることを思い出した。
素人の翔太には詳しい原理は不明だが、人間の耳に響きやすい周波数帯が二人の声から発せられるのだろうと考えた。
「プロなら誰でも覚えているけど……」
「それで、皇さんはくまりーが出演するドラマのことをしっかり勉強しているから……愛なのね……インスピレーションが湧いてきたぞぉ」
葵はうっとりとした表情になり、途端にやる気を出し始めた。
「?」
「奏は今回の曲の作曲もするんですよ」
「あぁ、そうでしたか……」
葵はシンガーソングライターで作詞作曲もこなす。彼女が天才と言われるゆえんの一つだ。
(しかし、将棋のドラマで愛って関係あるか……?)
翔太はドラマのあらすじは把握しているが、神代の役にラブコメ要素があった記憶はなかった。
仮に、濃厚なシーンがあったならば、橘や檜垣がNGを出しているはずだ。
「神代さんは皇さんのことを大切に思っているようですが、なるほど……」
見坂は何やら勝手に納得している。
見坂はたまに神代との指導対局を行っており、神代のことをよく見ているようだ。
「何々? 惚れた腫れた的な感じ?」
「仮に私が神代を愛しているとしても、立場上、それは絶対に言えないんですよ」
今の翔太は霧島プロダクションの関係者だ。
その立場で所属タレントと恋愛関係を匂わせることは許されないだろう。
「葵さん、いいものを見せてあげますよ」
翔太は話題をそらすため、携帯電話で撮影した写真を葵に見せた。
「なになに? ……ああああっ!」
館内に葵の声が響き渡った。
「飛香じゃん!」
「奏、声」
「あっ……」
写真には翔太の目の前にいる女流棋士と、そっくりな神代の姿が映っていた。




