第310話 女王と歌姫
「んじゃ、俺は先にオフィスに戻るわ」
長麦との話を終え、石動は新しいプロジェクトの発足にいてもたってもいられなくなったのか、早々と将棋会館を後にした。
翔太は屋神に面会するために休憩スペースに残っていたが、思わぬ人物と遭遇した。
「こんにちは」
「お世話になっております」
翔太に挨拶をしたのは、女流棋士の見坂だ。
六つの女流棋士のタイトルを防衛中で、女流棋士のなかでは突出した存在で、将棋界の女王と呼ばれている。
かつて七冠を制した生稲が棋士の顔であるのに対し、見坂は女流棋士の顔として広く知られている。
以前は棋士と女流棋士の間には棋力に大きな差があったが、見坂は男性棋士に対しても公式戦で互角以上の戦績を挙げていることもあり、大変な人気がある。
そして、将棋の実力もさることながら、芸能界にいてもおかしくはないほどの整った容姿がさらに人気を高めていた。
その実力と人気から、テレビ番組に出演することもある。
見坂は神代が出演するドラマの役のモデルであり、翔太もその関係上、何度か見坂には会ったことがあるが、単独で会うのは初めてだった。
見坂に遭遇したのも驚いたが、さらに驚いたのは一緒にいた女性だった。
「おや、お兄さんじゃないですか」
「葵……さん?」
思わぬ人物との遭遇に翔太は頭が追いつかなかった。
葵はお忍びで来ているのか、多少の変装をしているようだが、変装に慣れている翔太は気づくことができた。
「奏、皇さんと知り合いなの?」
「んー……ちょっとね」
(いゃ、特に隠すことでもないだろ)
メディアの露出が極端に少ない葵は世間にとってミステリアスな存在だが、実際の言動にも思わせぶりな面がうかがえた。
「失礼ですが、お二人は――」
「同じ大学で同期だよん」
「それはまた、すごいですね……」
翔太は小並感のある感想しか述べられなかった。
「葵さんは将棋も指されるのですか?」
将棋会館にいる以上、葵は将棋界と何らかの関係を持っていると思われた。
「いんや、全然よ」
「ここだけの話ですが、例のドラマの主題歌が、奏の曲なんですよ」
「それは、ありがたいですね」
ただでさえ、神代と雫石の出演によって注目が集まっているが、葵が主題歌を歌うことになれば視聴率は跳ね上がるだろう。
非常勤とはいえ、芸能事務所で働いている翔太にとっては、所属タレントの露出が増えることは歓迎だった。
「そんで? お兄さんはなぜここに?」
「会長とお仕事の話をさせていただいたのですが、屋神先生にも面会予定でして」
「あら? 屋神先生なら、渋滞に遭って遅れるそうですよ?」
「本当だ……」
翔太は携帯電話にメールが届いていたことを言われて気づいた。
長麦との会談のときに電源を切っていたため、まったく気づかなかった。
見坂は「んー」と美しい顔で思案に耽っていた。
そして彼女は意外なことを切り出した。
「屋神先生が来られるまで、私と一局指しませんか?」




