第307話 盾
「6四歩」
「1六歩」
「1四歩」
「3七桂」
翔太と雫石は車内で目隠し将棋を指していた。
対局者二人が駒の移動先を棋譜の読み上げ方法に従って口頭で伝え合い、対局を進める将棋だ。
神代と檜垣にCMの撮影の仕事が入っているため、将棋会館からの帰りは翔太と雫石の二人だけだった。
もはや翔太は雫石のマネージャーや保護者的な役割を果たしていた。
目隠し将棋を始めたのは、雫石の棋力向上を少しでも図るためでもあったが、一番の理由は、名瀬と遭遇したことを彼女の頭から追い出すためだった。
彼女は父親と対峙したことがよほど嫌だったのか、普段の饒舌さは影を潜めていた。
***
「ほら、ココアいれたぞ」
「ん」
合宿所に戻った翔太は、雫石にマグカップを渡した。
彼女は携帯電話で、新田が開発した将棋学習アプリケーションを操作している。
このアプリケーションは、翔太の未来の知識と新田の技術力を取り込んだAIが動作するサーバーと接続されている。
サーバーは二桁台のクラスターで構成され、この時代では最もハイスペックなマシンが使われていた。
このように巨額の資金が投入されたのは、マーケティング戦略の一環だった。
二人きりということもあり、合宿所のリビングはいつも以上に静まり返っていた。
翔太は雫石が座るソファの隣に腰掛けた。
普段はできるだけ彼女と距離を取るようにしているが、今日だけはそばにいたほうがいいと判断した。
「何も聞かないのね?」
雫石は携帯電話から目を離さず、ぶっきらぼうに言った。
「多少は状況を聞かされているからな」
本来なら家庭の事情に踏み込むべきではないが、霧島と橘が翔太に情報を明かしたことから、何らかの思惑があるのだろう。
翔太はなんとなくその理由を察していたが、それをあえて口にするつもりはなかった。
「あれでも昔はまともな父親だったのよ」
雫石が言うには、彼女が子役としてデビューするまでは名瀬が台本の読み合わせに付き合ったり、オーディションに落ちて落ち込んでいるときには誰よりもそばで励ましたりしてくれたという。
これが名瀬の純粋な親心によるものか、それ以外の思惑があったのかは、わからなかった。
「それが、今では庭場組とかいう暴力団ともつながっているみたい」
「庭場組ぃ!?」
「えっ! 知ってるの!?」
「まぁ、ちょっとな……俺のことはどうでもいい」
翔太はかつて遭遇した絶体絶命のピンチを思い出した。
まさか雫石が、こんなところで庭場組とつながりを持っていたとは思いもしなかった。
「あー、勘違いしないで聞いてくれ」
「何よ」
相変わらずダウナーな雰囲気だ。
「俺はこれから雫石を守っていくことになると思う。
それは個人的な感情じゃなくて、ビジネス上の判断だ。
あの父親とは違う意味で、お前は翔動の金蔓となりそうだからな」
「えっ……!?」
よほど驚いたのか、雫石は見たことがないほど目を見開いている。
翔太の発言がビジネス上の判断であることに間違いはないが、もう一つの理由は伏せている。
「さっきの話聞いてなかったの? 自分で言うのもなんだけど、私の周りは危ない奴らばっかよ?」
「それもわかっている。霧島さんと組むことになってからある程度は覚悟していたからな」
「ばかじゃないの……」
ここに来て、雫石の表情は少し明るくなってきた。
そして、彼女は思わぬ行動に出た。
「ちょっ……」
雫石は翔太に向き合う形で乗っかり、抱きついてきた。
その力は中学生とは思えないほどの強さだった。
「ちょっとだけでいいから、このままにさせて」
「仕方ないな……今日だけだぞ」
合宿所はひっそりと静まり返っていた。




