第298話 見えざる手
「なぁ、新田。神って信じるか?」
「は?」
唐突な翔太の発言に新田は露骨に不審な目を向けている。
翔太と新田は水上バスに乗り、隅田川を下っていた。
新田は「ちょっと風が強いわね」と言い、髪をアップに結っている。
うなじが見え、普段とは違う彼女の魅力に翔太はドキッとしてしまった。
「あー……表現が悪かった。『見えざる手』とか……そういうニュアンスを伝えたかった」
「アダムスミス?」
「あれ……思ったより言語化が難しいな……例えば世の中が危機的状況に陥った時、自浄作用が働くみたいな概念だ」
「未知のウイルスで人類が死滅しそうになったら、誰かがワクチンを開発して救われるとかそんな話?」
「そうだな、俺の言いたいことはそれに限りなく近い」
翔太は新田を誘い出すことに成功したが、話の切り出し方には失敗していた。
業務中に異性をデートに誘うことはセクハラ案件とされてもおかしくはないが、今日の二人は社長命令で業務外ということになっている。
翔太の中ではこの状況はセーフだと勝手に判断していた。
新田とは業務上では頻繁に会話をしているが、翔太は新田とじっくり話す時間がほしいと常々感じていたのだ。
「柊にしてははっきりしないわね」
「そうだな……どっから話すかな……」
翔太は新田の表情を窺った。特にいぶかしがるでもなく、ちゃんと話を聞いてくれそうな雰囲気だった。
(それにしても、どんどんキレイになっていくな……)
新田の美貌は初めて会ったときから健在であったが、化粧が格段にうまくなっていた。
翔太は自分がメイクをするようになって、新田のメイク力が向上していることに気づくようになった。
石動は「新田がどんどん可愛く見えるんだけど、俺大丈夫かな……」などと自分の感情に要因があると思い込んでいるようだ。
しかし、翔太はもう少し踏み込んで新田のことを分析していた。
料亭の板前が常連客の好みに合わせて料理を調整するように、新田のメイクが調整されているように見えた。
こんな分析ができるようになったのも、芸能界という特殊な環境に置かれているためだろう。
「俺が石動景隆としての最後の記憶がないということは言ったかな?」
「えぇ、聞いたわ」
「仮にだ。俺が失った記憶の出来事に人類が滅亡する危機があったとしよう」
「大きく出たわね。それで?」
「人類は滅亡を防ぐため、過去に戻ってやり直すという手段を選んだとする。もしくは神のような存在――世界を正常化するためのシステムがそのような処理をしたとする」
翔太はここにきてようやく抽象化しすぎた表現を、やや具体化できるようになった。
「それで過去に送られたのが柊ってわけ? 肉体は過去に戻れないけど、情報だけは過去に飛ばすことができるようになったってこと?」
「過去に送られたのは俺だけとは限らんけどな」
「その手のことは全然知らないけど、タイムパラドックスってやつじゃないの?」
新田は「でも、柊が親殺しもやろうと思えばできるわけだし、本当の親は石動の親だし……この世界はマルチバースだと考えれば……」などとつぶやきながら考え込んでいる。
「えっと、俺が言いたかった論点はそこじゃなくて、俺と新田が出会ったのは必然じゃないかという仮説だ」
「何? 運命ってこと? もしかして私、口説かれてる?」
「少なくとも今の俺には人類の危機レベルに対処できるほどの力はないんだよ。残念ながら」
「私もないわよ」
「俺はそうは思わない」
「えっ!?」
新田は深淵を覗き込むように翔太を見つめている。
「この先、俺と石動は世界を変えるつもりだ。そしてその鍵を握るのが――」
「私ってこと?」
「そうだ。俺は新田が後の世界史の教科書に載るんじゃないかと思っている」
「柊の知っている未来にはそういう技術者がいるってこと?」
「それに近い人物に何人かの心当たりはあるが……俺の中で新田はそれ以上の存在なんだよ」
「そんな……でもそれは柊の未来の知識込みってことね」
「そうだ。俺だけじゃ無理だが、新田のような逸材がいれば世界は確実に変わると俺と石動は思っている」
「……」
水上バスは勝鬨橋をくぐっていたが、二人はその景色が目に入っていなかった。




