第295話 誘導
(よりにもよって、その囲いかよ……)
翔太は☖5一金と指しながら、波乱の予感を感じていた。
逢妻邸の離れでは、屋神と正体不明の指し手の対局が始まっていた。
逢妻のときとは異なり、持ち時間は1時間と長く設定された。
逢妻が行った振り駒の結果、先手は屋神となった。
屋神はこの後、研究会の予定だったようだが、これをキャンセルしてまでこの対局に臨んでいた。
それほど、この指し手に興味を持ったと言っていいだろう。
盤面は駒組まで進んでいたが、ここで翔太が想定していない展開になった。
翔太が屋神に指導対局を受けていたときと、ほぼ同じ戦型になっていたのである。
つまり、屋神は意図的にこの戦型に誘導したという仮説が立てられる。
屋神は居飛車党であり、飛車を振ることはない。 ※1
その屋神が飛車を振ったことで、観戦していた逢妻は大いに驚いていた。
翔太が指導対局を受けたときは対抗形であったため、屋神はあえて飛車を振ってこの形に誘導していると考えてほぼ間違いないだろう。 ※2
この囲いは今の時代には存在せず、理論上は翔太だけが知っており、今日になって屋神と逢妻が知ることになった。
しかし、現在、電話の向こうの指し手は同じ囲いを指している。
ここから導き出せる答えは、翔太が電話の向こうに指し手がいることを偽装しているか、電話の向こうの指し手と翔太につながりがあるということになるだろう。
そして、前者の可能性は翔太の棋力から除外される。
今の翔太の棋力では飛車落ちどころか、平手でも逢妻に勝つことはほぼ不可能だからだ。
以前、逢妻に勝利したのは、逢妻が知らない未来の定跡を使い、持ち時間に差をつけることができたためだ。
「まさか、こんなことが……」
盤上を横から見ている逢妻は、驚きながらも目を皿のようにして盤面を眺めていた。
逢妻も翔太と屋神の指導対局を見ていたため、同じような局面が再現されたことに驚いているのだろう。
屋神や翔太と同様に、逢妻も電話の向こう側の指し手と翔太に関係があるという結論を導き出していることが想像できる。
現に、逢妻は翔太のことを探るような目で見つめてきた。
そして、逢妻と同様に翔太も驚いていた。
電話の向こう側の指し手には、指導対局時の棋譜などの情報は送っていなかった。
この指し手は、数あるパターンの中から、たまたまこの戦型を選んでいる。
屋神の誘導があったにせよ、今の局面になったのは運命的なものを翔太は感じていた。
(いいのかな……?)
翔太の知る限り、屋神の振り飛車を見たのは今日が初めてだ。
指し慣れない戦型でどこまで自力を発揮できるのかは疑問だった。
しかし、屋神はプロの中でも上位10名のみが在籍できるA級の棋士だ。
最年少でタイトルを獲得し、当時は天才として騒がれていた。
現在ではその実力に磨きがかかり、年齢的にも脂が乗っている。
それほどの棋士が自信を持って指しているのであれば、負けるつもりはさらさらないのだろう。
離れの部屋では、逢妻の妻、孝子から出されていたお茶と和菓子があったが、誰もこれに手を付けていなかった。
それほどこの部屋の三人は盤面に集中していた。
※1 居飛車: 飛車を初期位置(先手なら2筋、後手なら8筋)に「居座らせた」まま戦う戦法
※2 対抗形: 将棋における基本的な戦型の一つで、一方が「居飛車」、もう一方が「振り飛車」という異なる戦法を採用して対戦する形




