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第262話 最後の歌姫

「『最後』というのはどういう意味でしょうか?」

『最後の歌姫』のうち、『歌姫』の部分が葵を指すのは自明だが、橘は『最後』の部分が気になったようだ。


「えっと、未来では『ミリオンセラー』というのが死語になるんですよ」

「と、言いますと?」


翔太は橘が小首をかしげる仕草にどぎまぎしてしまった。

さきほど寝姿を見てしまった影響か、彼女が普段見せない表情するたびに新たな魅力を発見したように感じていた。


「未来の消費者は音楽を聴くためにCDを買わなくなるんです」


CDとはコンパクトディスクの略称で、音楽やデータを保存するための円盤型のメディアだ。

この時代ではCDの売上枚数がその曲が売れたことの指標になっていた。


「ダウンロード販売に変わるということでしょうか?」

「はい、今では携帯音楽端末にダウンロードすることが主流ですが、将来はスマートフォンという携帯電話にダウンロードしたり、ストリーミング配信されるのが主流です」

「主流ということは、CDは残るんですか?」

「記憶があいまいですが、CDもレコードも残っていたと思います。ピークの5%くらいでしょうか」

「そんなにですか……」


橘は発言とは裏腹にあまり驚いていないようだ。

これは橘が翔太と会った頃からインターネットメディアに注目しており、サイバーフュージョンとの連携を積極的に進めてきたことからも、想定の範囲内だったのだろう。

(「想定の範囲内」って、懐かしいけど、今流行っているんだよな……)


「加えて、消費者の嗜好が多様化し、特定の楽曲が大ヒットすることがなくなったんですよ」

「インターネットの影響ですか?」

「はい、加えてメディアの影響力の低下も要因のひとつです。

将来はプロや個人がインターネットを通じてさまざまなジャンルの音楽を配信できるようになります」

「ふむ、そうなると当事務所の今後の戦略にも大きく影響しますね」


橘は真剣に考え始めた。

(こういう表情もまた……って、今日の俺はどうかしているな……)


霧島プロダクションはCDの売上による収益比率はそれなりにある。

Powsなどの人気アイドルグループが所属しているためだ。


橘が言ったように、霧島プロダクションもいずれは事業転換を迫られる時が来るだろう。

そのときまで、翔太が関わっているかは未知数だ。


「つまり、ミリオンセラーになるほどヒット曲を生み出したのは、葵が最後ということですね」

「そういうことです。今でもそれだけCDが売れるのはすごいことですが」


CDの売上はすでにピークアウトしていた。

それでも尚、百万規模で売上を出せる葵は驚愕に値するだろう。

しかも、メディアに露出せずにそれだけ売れるということは、相当の実力であることがうかがえる。

PowsのCDもミリオンセラーになったことがあるが、テレビ出演など、さまざまなプロモーション活動があってのものだった。


「そういえば、彼女がメトロ放送にいたのは……」

「おそらく、歌番組を極秘で収録していたのでしょう。

放送直前で葵がテレビに初出演を発表することで、視聴率を稼ぐ狙いがあると思われます」

「そこに俺が偶然居合わせたってことですね」


翔太は長町が出演した歌番組にそんな大掛かりな仕掛けがあったことにまったく気づかなかった。

ここにきて、葵が会ったことを内密にしたがった理由が判明したことになる。


「柊さんが会えたのはある意味、豪運と言えるでしょう。葵は当事務所も喉から手が出るほどの逸材です」


翔太は葵が引退するという根も葉もない噂が流れたとき、響音堂の株価が大暴落したことを思い出した。

葵の影響力は企業の業績を激変させるほど甚大だということだ。


「それだけ表に出てこない人物であれば、もう会うことはないでしょうね」


翔太は葵からもらった名刺を眺めた。

原価では100円にもならないこの紙片が、高額で取引されるトレーディングカードよりも貴重なものだと実感した。


「柊さん、それフラグになりますよ」

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