第261話 キケンな空間
「ごくり……」
長町の一日マネージャーの仕事を終え、霧島プロダクションの社長室に入った翔太は思わずつばを飲み込んだ。
ソファでは橘が横になって仮眠を取っているようだが、寝姿だけでこんなにも色香を漂わせていることに恐ろしさすら感じるとともに、心拍数が加速度的に跳ね上がったことを自覚した。
橘は社長代理という重責と神代のマネージャー業務の一部を兼任している。
翔太の知る限りでは休みを取ったり、深夜以前に仕事を切り上げるのを見たことはなかった。
彼女の長く美しい髪はソファの肘掛けに広がり、柔らかい光が彼女の滑らかな肌を照らしていた。
その姿はまるで彫刻のように完璧で、呼吸が穏やかに続いていることが、かろうじて彼女が芸術品でないことを証明していた。
(よく考えたら、ずっとここで二人きりで仕事しているんだよな……)
翔太と橘は、霧島から役職を与えられてからはずっとこの社長室で仕事をする機会が多かった。
これまではあまりの忙しさに意識する余裕もなかったが、改めてこの静謐な密室で男女が二人でいるのは問題なのではないかと考え始めた。
「ん、柊さん……戻られたのですね」
「は、はい、ただいま戻りました。大丈夫なんですか?」
翔太は主語を省いて尋ねた。
「今日、ここには柊さんしか来る予定がなかったので、大丈夫ですよ」
橘は無防備な姿を晒すことは皆無だった。
これは彼女の行動原理に即しているが、この発言は翔太に対しては例外であると取れなくもない。
(まぁ、仮に俺が変な気を起こして襲いかかろうもんなら、速攻で返り討ちだからな)
翔太は男女二人きりという状況について、棚上げすることにした。
「ふふふっ、私はどちらでもいいですよ?」
翔太の心中を読み取ったかのような橘の表情に、翔太は頭がクラクラしてきたため、仕事の話をすることにした。
「いくつかご報告があります」
「シュナイダーの件については梨花から連絡を受けています。
檜垣が付いているので問題ないでしょう」
シュナイダーが行動する場合、神代の現マネージャーである檜垣が常に見えないところで付き添っている。
檜垣は霧島プロダクションきっての武闘派マネージャーだとのことなので、神代の身は安全と言っていいだろう。
(橘さんより強いらしいんだけど……バトルものが書けそうだな……)
「では、軽めのものから報告します。メトロ放送で、葵奏という人物に会いました」
「えっ!? 響音堂の葵ですか?」
「はい、名刺にはそう書いてありました」
「名刺までもらったんですか!?」
橘がここまで驚くのは珍しい。
葵が相当な人物であることが分かる。
「奏は歌手で、リリースされた楽曲はすべてミリオンセラーを記録しています。
彼女は一切メディアに出ない戦略を取っており、PVでしかその姿を確認することができません」
「なるほど……あの場にいたことを内密にするように言われたのは――」
翔太は芸能人としてはちぐはぐな葵の態度に合点がいきはじめた。
「ん? ミリオンセラー……あーっ! 思い出しました!」
翔太はようやく記憶から奏のことを引き出した。
「彼女は後に『最後の歌姫』と呼ばれるんですよ」




