第242話 対価
「きみにとって大切なものを差し出すのであれば、私も相応のものを差し出す必要がある。違うかね?」
どうやら逢妻は翔太の役職に価値を感じていると勘違いしているようだ。
翔太は役員の立場を失ったところで、特に困ることはない。
むしろ、重責から解放される利点まである。
しかし、逢妻は翔太とは全く異なる価値観を持っているようだった。
逢妻は放送局のトップという強大な権力を一夜にして失った。
それを失ったときの心境は当事者でなければ理解できないだろう。
いずれにしても、翔太にとっては望外の展開になった。
「私の目的をご存知で?」
翔太は☖7六歩と指した。☗同銀と取れば、☖9九角成が成立する。
「私に近寄ってくる輩の目的は大抵そうなんだよ」
逢妻は☗6六銀と銀を交わしながら、吐き捨てるように言った。
刈谷のクーデターに加えて、逢妻が人間不信となった一因のひとつだろう。
さくら放送株を巡って、船井や北山 ※3 らが逢妻と接触したのだと思われた。
「対局の報酬にしては巨額過ぎますね」
翔太は☖6五歩と、さらに銀取りをかけた。
将棋のタイトル戦の賞金は最大でも3000万円程度だ。
一方で、さくら放送株はTOBが実施されると、1割から2割は株価が上昇することが期待できる。
仮に今の時価で逢妻の持ち株を取得し、TOBに応じた場合は10億円から20億円の利益が見込まれる。
余興と思っていた対局は、期せずして大金を賭けた戦いとなった。
「私が絶対に勝つのだから、何を賭けても問題ないのだよ」
銀取りを放置して、☗2四歩と指した逢妻の表情は自信にあふれていた。
翔太は逢妻から持ち株放出の情報を得ることができれば上等と思っていた。
逢妻の提案はオペレーションイージスにとって、それをはるかに上回る好条件だ。
市場で株を買い付けた場合、自身の注文で株価がつり上がってしまうことになる。
決められた額面で株を取得できる利益は計り知れない。
そして、逢妻の持ち株が船井に渡らないことが特に大きな意味を持つ。
翔太は☖同歩と歩を取ったが、手が震えていた。
この対局の結果が霧島プロダクションや翔動の行方を左右すると言っても過言ではない状況になった。
翔太の反応に満足したのか、逢妻はニヤリと微笑みながら、☗同角と歩を取った。
目の前に巨大なニンジンを用意することで、翔太の動揺を誘う作戦なのかもしれない。
しかし、翔太には逢妻がこの対局にそこまでする理由が思い至らなかった。
ここで初めて翔太は長考する。
後手玉には王手がかかっており、普通に受けるなら、☖6一玉と躱すか、☖4二歩と受ける手が考えられる。
「「……」」
離れの部屋までブフ・ブルギニョンのいい香りが届いていたが、対局している二人は盤面に集中していた。
翔太が☖4二金右と指したことで、逢妻は顔をしかめた。 ※1
一見すると、☗同角成と角を切る手が有効である。
今度は逢妻が長考する番だった。
「「……」」
逢妻はじっくりと時間を使い、☗同角成を決断した。
翔太は今度は時間をかけず☖同玉と応じた。
一度は長考したが、翔太の持ち時間は逢妻の倍ほど残している。
ここからお互いの指し手は加速した。
【☗2三歩☖3一角☗5七銀☖5二玉☗二歩成☖同角☗5五歩☖2六歩☗4六銀☖8五桂☗8六歩☖7七桂成☗同桂☖同歩成☗同金☖7六歩☗8七金☖3四桂☗同銀☖同銀☗2六飛☖7五飛☗7八歩】
一時は心が揺さぶられていた翔太だが、今は目の前の勝負に勝つため、盤面に集中していた。
逢妻も同様に盤面を鋭い眼光で睨みつけている。
「「……」」
二人はゾーンに入っている状態だった。
一手のミスも許されない局面で、ここまでは絶妙に均衡が保たれていた。
この時二人は、100億円の時価評価を持つ株などお構いなしに、目の前の勝負に勝つことに全身全霊をかけていた。
翔太が☖4五歩と指したところで、逢妻はびくっと震えた。
逢妻は☖2五銀打と予想していたようだ。
逢妻はここが勝負どころと判断したのか、残り時間を全て使い切った。
そして、☗2二飛成と飛車を切った。 ※2
離れの部屋に「パシーン」と駒音が響き渡り、逢妻は勝利を確信しているような表情を浮かべた。
※1 局面図: https://x.com/kurumi_baker/status/1939212969256329575
※2 局面図: https://x.com/kurumi_baker/status/1939213293564182577
※3 「俺と俺で現世の覇権をとりにいく」 163話 https://ncode.syosetu.com/n7115kp/163/




