第241話 雁木
「むむむっ」
逢妻は唸った。
22手目に翔太が繰り出した☖7二飛は、飛車の前の桂馬が進行を邪魔している形だ。
翔太が知っている未来では流行した手だが、この時代では「含みがない」や「味がない」と言われていた。
しかし、最近の研究では☖7五歩☗同歩☖8五桂とすれば後手が指せると言われている。
翔太は逢妻が知らない未来での研究済みの形に持っていくことで、棋力の差を補う作戦だった。
逢妻は時間を使って、☗5六歩と指した。
翔太はすかさず☖4四歩と応じる。
☖4五歩で先手の銀取りと、角を使っていく狙いだ。
「私の考え方は古いのだろう。今なら経営権をすべて刈谷に奪われた理由も納得できる」
逢妻は☗5八金と指しながら言った。
「考え方や価値観は時代によって移ろいます。
逢妻さんのお考えが今の時代に合わなかっただけで、また必要となる時が来るでしょう」
翔太は☖5二金と指しながら、実感を込めて言った。
「知ったふうなことを」
逢妻は☗6九玉と指しながら、言い放った。
逢妻から見れば、翔太は人生経験が短い若者だ。
いくら言葉で説明したところで、戯言にしか聞こえないだろう。
「この対局で、それを証明します」
翔太は力強く☖4三銀と指した。 ※1
「むぅ、雁木か……」
盤面を睨みつけていた逢妻は、驚いた表情を見せた。
雁木は古くからあるにもかかわらず、矢倉の優秀性に押され、プロ間で指されることはなくなった。
それゆえに雁木は「B級戦法」と言われるほど淘汰された。
一言で表現すれば「オワコン」である。
しかし、AIが指したことをきっかけに優秀性を再評価され、雁木は蘇った。
翔太はこの雁木と同様に、逢妻の考え方が再評価される時期が来ることをこの対局で証明するつもりだ。
「いいだろう。受けて立つ」
逢妻は☗3五歩と指し、この対局で初めて駒と駒がぶつかり合った。
仮に☖3五同歩と取れば、先手の棒銀が炸裂し、後手の翔太は一方的に攻められる。
翔太は☖7五歩と指し、攻め返す手順を選んだ。
逢妻は☗同歩と応じる。
翔太はすぐに☖4五歩と指したのに対し、逢妻は手が止まった。
ここに来て持ち時間は徐々に差がついていった。
翔太はほぼノータイムで指しているのに対し、逢妻は要所要所で時間を使って考えている。
これは、今の盤面がプロの棋戦で研究済みであることを翔太が知っているが、逢妻は未来の情報を知らないために発生した差である。
翔太がハンデなしの平手を承諾したのは、事前情報で優位に立てると判断したからだった。
逢妻は時間を使って☗同銀と指した。
「弁護士一家が教団に殺害された事件は、放送局の行動が引き金となりました。
逢妻さんがトップであれば、起こらなかったと思われます」
翔太は☖3五歩と歩を取った。
かつてテロ事件を起こした宗教団体の被害者を担当していた弁護士とその家族が、この教団の幹部に惨殺された事件があった。
後の調査で、テレビ局のプロデューサーが教団の幹部に弁護士の情報を渡したことが殺害の動機となったことが判明した。
当時はこの教団が大きな話題を呼んでおり、テレビ局は教団に便宜を図っていた。
これは報道機関としての倫理よりも、視聴率を優先させた弊害と言えるだろう。
そして翔太は、報道機関がこの教訓を一切活かすどころか、偏向報道を繰り返すことで国民の信頼を失墜させる未来を知っている。
何をどう報道するかは報道機関の都合で決められ、その内容には角度が付けられる。
ありもしない神代の熱愛報道や、東郷の所業を知りつつも、それを一切報道しないこともその一例である。
逢妻は翔太の発言に思うところがあるのか、神妙な表情をしていた。
「もしこの雁木で私に勝つことができたならば――」
逢妻は「パシーン」という音を立てながら、力強く☗同角と指し、歩を取った。 ※2
翔太は形勢を互角と見ているが、棋力差を考えると序盤で優位に立つ必要がある。
この盤面が翔太が知っているプロの実践と同じような進行をしているということは、逢妻はプロに近い実力を持っているということにほかならない。
翔太は内心の焦りを表に出さないよう努めた。
「私の持ち株を今の時価できみに売ってもいい」
「ええええっ!?」
※1 局面図: https://x.com/kurumi_baker/status/1939210942451196226
※2 局面図: https://x.com/kurumi_baker/status/1939212040557715695




