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第238話 棋士

「あらあら、ハンサムな子ね。若い頃の川奈くんみたい」

孝子は翔太を見るなり顔をほころばせた。


孝子の背筋は年齢を感じさせないほどピンと伸び、整えられた髪は白髪交じりながらも清潔感に満ちていた。

彼女の声は落ち着いており、長年培われた上流階級の品位が滲んでいた。


逢妻家は都内とは思えないほどの広大な敷地にあった。

逢妻家が代々所有してきた日本家屋は歴史を感じさせ、荘厳な雰囲気があった。


(ここでフランス料理作るの?)

屋敷は薪でご飯を炊くと言われても信じてしまいそうな佇まいであった。


「それでは。失礼します」

「あら、先生、もうお帰りになるの?」

「はい、研究会がありますので」


(あれ? この人はもしかして……)

翔太は入れ違いで去って行った真面目そうな青年に見覚えがあった。


「皇と申します。霧島プロダクションに所属している者ですが、本日は助手としてお伺いいたしました」

「ええ、聞いているわ。料理もお上手なんでしょ? 楽しみね」


翔太は霧島プロダクションの関係者であることのほうが、この場にいることの不自然さがなくなると判断し、皇に扮している。


***


「まあっ、すごいわね」

孝子は調理室に並べられた食材に感嘆していた。


前もってマリネされた塊肉には、料理に使うにはためらいそうな赤ワインが使われていた。

タイムやローリエなどのハーブ、フランス産バターなど、川奈の食材に対するこだわりが随所に見て取れる。


「少しずつ炒めるのがコツなんですよ」


川奈は熱した鋳物鍋に牛肉を入れていた。

孝子はメモを取りながら、翔太の様子を眺めて言った。


「皇くんもすごく手際がいいわね」


翔太はものすごいスピードで玉ねぎをみじん切りにしていた。

包丁は手入れされており、恐ろしいほどの切れ味だった。


「普段のお食事は奥様が作られているんですか?」


翔太は逢妻との面会が叶わなかった場合、孝子から情報を得ようと考えていた。

そのため、翔太は差し障りのないところから切り出した。


「孝子でいいわよ。川奈くんのおかげですっかり料理にはまっちゃって、最近は外食することもなくなったので三食作っているわ」

「孝子さんの手際がいいのはそういうことでしたか」


孝子は調理室の食材や調理器具をすべて把握していた。

少なくとも料理に関しては使用人には任せず、孝子が行っていることが見て取れた。


「さきほどお見かけしたのは、屋神(やがみ)棋聖ですね」

「あら、先生を知っているの?」

「ええ、将棋界では有名なかたですから」


屋神は最年少でタイトルを獲得したA級の棋士だ。

プロ棋士へのハードルは高く、将棋連盟の会長をして「兄は頭が悪いから東大に行った。私は頭が良いから将棋の棋士になった」と言わせるほどだ。

A級は将棋のタイトル戦の一つで、名人戦の予選リーグである順位戦の最上位クラスに該当する。


「弘尚さんに指導対局をしていただいているのよ」

「それはまたぜ――素晴らしいですね」

「ふふ、贅沢って言っていいのよ?」


将棋界では、かつて七冠を制した生稲(いくいな)が絶対的王者として君臨しており、将棋ファンでなくとも有名な存在である。

この生稲に対抗し得る棋士の一人として、屋神が注目されていた。

その屋神が家まで出向いて単独で指導対局をしてもらうことは、ファンにとっては垂涎だろう。

翔太が見た感じでは、屋神は定期的に通っているようだ。

このことから、途方もない指導料がかかることは容易に想像できるが、逢妻の財力であれば大した支出ではないだろう。

人間不信から人と会わない逢妻にとって、屋神は例外的な存在であると思われた。


「弘尚さんが若い頃は奨励会にいたのよ、銀行に就職するか、プロになるかぎりぎりまで迷っていたみたいなの」

「それはまたすごいですね……」


奨励会は八級から三段までの段階があり、一般的にプロ棋士になるためにはまず奨励会に入会する。

入会試験は非常に厳しく、プロ棋士の推薦を受けるか全国大会での優秀な成績を収める必要がある。


逢妻は経営を退いてからは、将棋にのめり込んでいるようだ。

元々の素質があることに加え、トッププロの指導があることで相当な実力を持っていることがうかがえる。


「うむ、いい匂いがするな」

「あら、弘尚さん」


翔太にとって、本命の人物が現れた。

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