第137話 コンフォートゾーン
「いやー……ホントに別人にしか見えなかったですよ。品田さんも豊岡さんも全然気づいていなかったですし」
石動は豚肉と湯葉のアスパラ巻を食べつつ、感心しながら言った。
エンプロビジョンの買収交渉がまとまった夜、マンスリーマンションの一室では、関係者を集めた慰労会が行われていた。
「石動さん、大事な商談の場で梨々花を使ってもらってありがとうございます」
橘は丁寧にお礼を言った。
橘は「サクサクで美味しいですね」と言いながら、れんこんのはさみ揚げを食べている。白川の母、紗華に教わったものだ。
神代は、映画『ユニコーン』の役作りの一環として、秘書に変装して石動に同席していた。
映画で買収を仕掛けるシーンがあり、今日の交渉の場はうってつけだった。
特に、作中の神代が演じる的場が若いことで、交渉相手に舐められるシーンがあり、これが再現できたことを神代は喜んでいた。
神代を同行させる対価として、橘は霧島プロダクション専属の公認会計士である吉野をアドバイザーとして付けた。
神代は吉野からのアドバイスをすべて頭に叩き込んでおり、そのうえで交渉に臨んでいた。
「こちらこそ、神代さんがいてくれてすごく助かりました」
石動は買収交渉の場での経緯を語った。
「――ほとんど梨花さんがやっていたんじゃないか……石動は仕事したのか?」
翔太は鯛の兜煮をつっつきながら、ジト目で言った。
「ふふ、大丈夫だよ」
神代は上機嫌に言った。
神代は「ホント、柊さんはなんでもできるよねー」と言いながら、あんきもポン酢を食べて日本酒をあおっている。
柊が作ったメニューは、和食を好む神代に合わせている。
「――それで、デバフって……?」
「エンプロビジョンで一番稼いでいる人を引き抜いたんだ」
「うわっ……えぐっ! ……それで品田さんが手のひらを返してきたのかぁ」
石動はドン引きしていた。
エンプロビジョンの事業規模は小さいため、下山一人の影響は甚大だ。
稼ぎ頭を失った今、品田は事業を売却したほうが得だと判断したのだろう。
「もちろん、下山さんにとって悪い話じゃないぞ。
あのままアクシススタッフにいたら、間違いなく不幸になる」
翔太は以前より給与が増えることと、柔軟な勤務形態により、彼の配偶者を支えやすくなったことを話した。
「うわー、三田さんって人も相当だね……」
神代は三田の傲慢な態度に立腹していた。
「俺もこれ以上三田さんのところにいるのは嫌なので、そろそろかな……」
「おや? いよいよですか?」
橘は柊の去就に関心を持っているようだ。
神代に関しては言わずもがなだ。
「今の会社なら、柊にばばーんと給料払えるからな!」
石動は胸を張った。
アクシススタッフは副業が禁止されており、翔動からは報酬を得ていない。
「MoGeの株が売れるようになって、手元の資金に余裕ができたんだ」
翔太は「ん?」と首を傾げる神代に説明した。
「これもお二人のおかげです!」
石動は心から礼を言った。
霧島プロダクションとの資本提携がなければ、上場すらままならなかった可能性もあった。
***
(若いときの柊さん……)
神代は映画の役作りのため、買収交渉の場での石動を観察したことを思い出した。
石動からは、まるで核融合のエネルギーが渦巻くかのように情熱が溢れ出し、それが周囲に伝播していく躍動感を感じていた。
(そして、今の柊さん……)
柊には石動とは対照的に、さざ波の優しいさざめきに身を委ねるような深い落ち着きを感じている。
神代は今の柊に対して強く魅力を感じており、過去の柊である石動を知ることで、自身の感情がさらに高まっていることを自覚してた。
そして、柊と石動の二人がそろうことで、高揚感と安心感が絶妙に交じり合い、心の中には多幸感が溢れ出すような、言語化しきれない特別な感覚に包まれている。
神代は長町がこの場に来たことを知り、対抗心からここに来ることを希望した。
実際に来てみると、二人がいるこの空間は非常に居心地が良かった。
異性を苦手としている彼女にとって、この二人は特別であった。
「あの……橘さん。ここに来るのは初めてですが、ここがなくなるのは寂しいですね」
石動は会社のオフィスを構えると言っていたが、神代にとっては今のほどよい狭さがいいと感じており、叶うのであれば、ずっとここにいたいと思っていた。
「そうね、私もそう思うわ」
橘も神代に同意した。




