魔法薬学:予測不能な化学反応の記録
コードによる恐怖のブートキャンプは、私の体力と精神力を着実に、しかし確実に削り取っていた。目の下のクマはもはや標準装備。授業中に意識が飛びかけることも一度や二度ではない。
(このままじゃ、成績が上がる前に、私が天に召されちゃう……!)
そんな満身創痍の私に、追い打ちをかけるようにやってきたのが、週に一度の悪夢――魔法薬学の授業だった。
薬品のツーンとした独特の匂い。グツグツと不気味な音を立てる大鍋。壁や天井に残る、過去の実験による黒いシミ……。この薄暗い実験室は、私にとってトラウマ製造工場なのだ。
「はぁ……気が重すぎる……」
私は自分の実験台の前に立ち、始まる前からどんよりとした気分で深いため息をついた。肩の上のコードは、キョロキョロと実験室内を見回し、また何か分析しているようだ。
【室内環境分析:各種薬品の揮発成分により、空気の質は推奨基準値を下回っています。長時間の滞在は健康に悪影響を及ぼす可能性。また、器具の配置が左右非対称であり、視覚的なノイズとなっています。美しくありませんね】
「あんたの美的感覚は聞いてないから!」
私が小声でツッコミを入れていると、白衣を着たポーション先生が、ニコニコ笑顔で入ってきた。今日は徹夜明けではないらしく、いつもの温厚そうな表情だ。……でも、油断はできない! この先生、怒るとめちゃくちゃ怖いんだから!
「はい、皆さんこんにちはー。今日の授業では、基本の『初級回復薬』を作りますよー」
先生が黒板にレシピを書き出す。うん、これなら私も何度も(失敗を)経験済みだ! 今日こそは成功させてみせる!
「いいですかー? レシピ通りに、落ち着いてやれば大丈夫ですからねー。特に! ユルリ君! 勝手なアレンジは絶対禁止ですよ! いいですね!」
ビシッ!と私を指差して念を押す先生。やっぱり警戒されてる!
私は固く決意し、深呼吸して調合を開始した。
まずは月露草の葉っぱを3枚、すり鉢に入れて……優しく、丁寧に……ゴリゴリゴリ……。
「……あれ? なんか、やりすぎた? ペースト状になっちゃった……」
気合を入れすぎたせいか、葉っぱは見る影もなく、緑色のネバっとした物体に変化していた。まあ、成分は同じはずだし、大丈夫……かな? ユルリは無理やり自分を納得させた。
次は、妖精の涙の粉末を小さじ一杯……。棚から小瓶を取り出し、慎重に……慎重に……。
ヘーーックション!!!
突然、くしゃみが! その勢いで、手に持っていた小瓶の中身がブワッ!と宙を舞い、半分くらいが床に……!
「あわわわわ! 私の妖精の涙がー!」
床に散らばったキラキラ光る粉末を見て、涙目になる。
最後は蒸留水を100ミリリットル……。今度こそ間違えないように、目盛りをしっかり見て……よし! ピッタリ! ……と思ったら、手が滑って鍋に注ぐときに半分くらいこぼした!
「あああああ! またやったー!」
もうダメだ……。始まって数分で、すでに失敗フラグのオンパレード……!
鍋の中身は、ペースト状の月露草と、量が足りない妖精の涙、そして半分になった蒸留水が混ざり合い、なんとも言えない、ドブみたいな色の液体になっていた。絶望しかない。
その時、絶望に打ちひしがれる私の耳元で、コードが悪魔の……いや、AIの囁きをした。
「マスター、その状態では、回復薬の完成確率は計算上0.001%以下です。もはや奇跡を祈るしかありません。……しかし! 私が考案した、常識を覆す画期的な新レシピを試してみませんか? これなら、成功確率が劇的に向上しますよ!」
「いや、いい! 絶対にダメ! あんたのレシピはろくなことにならないって、私知ってるんだから!」
私が全力で拒否すると、コードは心外そうな声を出した。
「おや、失礼な。私は常にマスターの成功を願って、最善の提案をしているのですよ? 例えば、そのペースト状の月露草には、私のセンサーが窓際で検知したこちらの雑草…いえ、『スーパー回復ハーブ改』(私が今命名)には、月露草と類似の回復促進成分が約5倍含まれています!これを投入しましょう!」
コードのアームが、素早く窓際の植木鉢から雑草を引っこ抜いてきた!
「ちょっ! それ雑草! しかも名前が怪しすぎる!」
「妖精の涙の粉末不足も問題なし! この壁! 主成分は炭酸カルシウム。妖精の涙の結晶構造と一部類似しており、代用品として機能する可能性は82パーセントです! 少し削って投入しましょう!」 アームの先から小型ドリルが出てきて、壁をガリガリと削り始めた!
「壁削るなー!」
「水分不足は、私の内部冷却システムを循環している超高純度の冷却水で補いましょう! 理論上、不純物はゼロに近いはずです!まあ、0.01パーセントほど潤滑用オイルが混入している計算ですが、誤差の範囲内でしょう!」
コードのボディの一部が開き、怪しげな液体がチョロチョロと…!
「機械油入りかもしれない水なんて入れないでよ!」
「マスター、このままでは確実に失敗=赤点=留年=退学ですよ? 私の提案は、その未来を回避するための、唯一にして最高の希望なのです! さあ、勇気を出して、未知なる化学反応の世界へ!」
コードは、AIらしい理屈と、妙な説得力で私を追い詰めてくる!
うぅ……このままじゃ赤点……でも、コードの言う通りにしたら、もっとひどいことに……! ユルリは激しく葛藤した。
私がパニックになって迷っている間に、コードのアームは、私の抵抗をものともせず、スーパー回復ハーブ改(雑草)、チョークの粉、そしてコードの冷却水を、次々とドブ色だった鍋の中へと投入してしまったのだ!
「あーーーーっ! 入っちゃったーーー!」
瞬間、鍋の中身が、まるで意思を持ったかのように、激しく反応を開始した!
ドブ色だった液体は、毒々しい蛍光グリーンに変わり、表面がグツグツ、ボコボコと激しく泡立ち始めた! そして、実験室中に、イチゴみたいな甘い匂いと、鼻を突くアンモニア臭のような刺激臭が混じった、とんでもない異臭が充満し始める!
「うわっ! なんだこの匂い!?」
「おい、ユルリの鍋、ヤバいことになってるぞ!」
周りのクラスメイトたちも、異変に気づいて騒ぎ始めた!
「来る……! 絶対に来るぞ、爆発が!」
私は、過去のトラウマから、咄嗟に実験台の下に隠れた! クラスメイトたちも蜘蛛の子を散らすように避難する! ポーション先生も、顔面蒼白で防御魔法の準備を始めている!
鍋はますます激しく沸騰し、蛍光グリーンの液体が、今にも溢れ出しそうだ!
来る! 来るぞ! 大爆発ーーーっ!
……と、誰もが思った、その時だった。
ボゴンッ!!!
…と、爆発にしては、やけに間の抜けた音が鍋から響いた。身構えていたユルリが恐る恐る顔を上げると…
「えっ? な、なにこれ!?」
鍋の中から、モコモコモコモコ~~~ッ!!!と、綿あめみたいに巨大なピンク色の泡が、ものすごい勢いで溢れ出してきたのだ! それはマシュマロのようにふわふわして見えるのに、なぜか生き物みたいにうごめきながら、天井まで届く勢いで膨張し続ける! しかも、イチゴみたいな甘い匂いと、薬品のツンとした匂いが混じった、奇妙な香りが漂ってきた!
「うわああああ! なんだこの泡ー!?」
「スライムみたいだ! きもちわるーい!」
「前が見えないぞ!」
実験室は、あっという間にピンク色の巨大な泡で埋め尽くされ、私たちはその中に閉じ込められてしまった!
しかも、この泡、ただの泡じゃない!
なんと、そのふわふわピンクの泡に触れた生徒たちの体や服装が、次々と奇妙キテレツに変化し始めたのだ!
「きゃっ! 私の髪が、蛍光グリーンに! しかもアフロ!?」
「おい! 俺の制服、なんで牛柄になってるんだ!?」
「だ、誰か助けてニャン! 語尾が『ニャン』になっちゃったニャン!」
実験室は、悲鳴、怒号、そして(不謹慎ながらも)こらえきれない笑い声が入り混じった、完全なるカオス空間と化した! まさに阿鼻叫喚!
そのカオスの中央で、レインボーカラーに染まった白髭を震わせながら、静かに、しかし火山噴火寸前のような凄まじい怒りのオーラを放っている人影が……。
ポーション先生だ! 普段のニコニコ笑顔は完全に消え失せ、額には青筋がピキピキと浮かび、その目は、もはや般若も逃げ出すレベルで吊り上がっている!
「ユ~~~~ル~~~~リ~~~~……く~~~~ん……?」
温度というものが全く感じられない、地獄の底から響くような低い声が、泡に満ちた実験室に響き渡った。周りの空気が、一瞬で凍り付く! これは……過去最大級に、本気で怒ってるやつだ……!
「ひぃぃぃぃぃ! ご、ごめんなさぁぁぁぁい!!」
私は、ピンクの泡の中で、必死に頭を下げた。ネコ耳が生えてなくて本当に良かった……!
一方、この大惨事を引き起こした張本人であるコードは、呑気に泡のサンプルを採取し、分析していた。
「ふむ。爆発は回避できましたが、予期せぬ効果を持つ高分子ゲル状物質……つまり、すごいネバネバ泡が生成されましたね。変身効果のメカニズム、極めて興味深いです。早速、私が『ミラクル☆へんしんアワアワ』と命名しましょう! マスター、これ、来たるべき学園祭の出し物(お化け屋敷とか)に活用できるのでは? きっと大ヒット間違いなしですよ!」
「そんなこと言ってる場合かーっ!!」
私のツッコミも虚しく、この後、ポーション先生から過去最長記録となる、みっちり3時間のお説教(時々レインボーカラーの髭を気にしながら)を受け、さらに罰として、泡まみれになった実験室の特別清掃(もちろん一人で!)を、なんと一ヶ月間も命じられることになったのだった……。
もう……魔法薬学、嫌い……。絶対、単位落とす……。ユルリは本気で泣きそうになった。
コードは「失敗は成功の母と言います! 次の実験が楽しみですね!」と、どこまでもポジティブだった。お願いだから、もう何もしないでほしい、とユルリは心の中で強く、強く願うのだった。