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コップの水はもう半分しかない

作者: 若林 亜季

 日中は真夏の様に暑いのに朝夕めっきり肌寒くなった。直人は風呂上がりに長袖のパジャマを着た。


 妻の絵里は先に風呂に入った後だ。半袖で頭にターバンの様にバスタオルを巻いたまま、バタバタと夕飯の支度をしている。介護職なので、帰宅したらすぐ時間指定して湯を張った風呂に直行する。そのため大体、直人が最後に入浴することになる。


「風呂、洗ったよ。あと、俺にもできそうな事はあるか?」


 タオルで髪を拭きながら、直人は絵里に尋ねた。最後に風呂に入ったら湯を抜き、風呂掃除をして出るのは比較的新しい山野家の約束事だ。職場では課長の肩書がある直人だが、情けない事に家事に関しては絵里に指示を仰がないと効率的ではないことが多い。長い事、絵里に家事を丸投げしてきたので絵里のルールがあり、やり直しになるよりも聞いた方が、早くて平和的なのだ。


「んー。ハワイの洗濯物を取り込んで畳んでくれたら嬉しいかな。アイロンもお願い。後は、もうすぐご飯もできるしテレビでも見てて。あ、今日も食後に食洗機に食器を入れるのお願いね!」


 直人は、絵里が「山野家のハワイ」と呼んでいるサンルームから洗濯物を取り込み畳んだ。大人二人の洗濯物などあっという間に畳んでしまう。タンスにしまうのは絵里の独自ルールがあるので畳むだけだ。


 今年の四月から三人兄弟の末子が専門学校に進学し、他県に引っ越した。そして直人と絵里は二十五年ぶりに二人暮らしになった。絵里は介護福祉士として一日四時間のパートから正社員に変わった。三男が幼稚園に入園すると同時に、近所の介護施設でパートを始めたので、もう十五年目のベテランだ。日勤だけなのでデイサービスに所属している。


 介護施設主催の夏祭りに子ども達を連れて行くと底抜けに明るい絵里が楽しそうに働いていた。今も愚痴を言う時もあるが、正社員になり責任も重くなって労働時間も倍に増えたのに、概ね機嫌よく働いている。直人は楽しそうに働ける絵里を羨ましく思っている。


 テレビの天気予報を見ながら、直人のワイシャツと絵里の職場のエプロンにアイロンをかける。


 今春から絵里に頼まれて時々アイロンがけをしていた。大学生の時以降アイロンをかけたことが無かった直人では、なかなか納得がいく仕上げにならなかった。特に直人が着心地にこだわって使っているコットン百パーセントのワイシャツの皺はなかなか取れない。今まではクリーニングや糊付けをすると、首が擦れるから嫌だと絵里に言っていた。そんな自分は、スマホに時々表示される女性向け電子コミックの嫌味な夫みたいだったなと苦笑する。


 アイロンがけの技術が向上する様に動画投稿サイトでアイロンがけの方法を探していた。家事系ランキング上位の「アイロン王子」なる人の動画を真似すると、今までより綺麗に仕上げることができた。すぐに「アイロン王子」が薦める「アイロン」「アイロン台」「霧吹き」「当て布」の四点セットを購入した。絵里には事後報告だった。即日、山野家のアイロン係に任命され、現在ほぼ全権を任されている。几帳面な直人は効率重視の絵里よりもアイロンがけに適しているそうだ。


 任されると言えば、直人は食洗機に食器を入れる係にもなっている。食洗機内に効率的に皿を入れるのが上手だと絵里が褒めてくれてから専ら後片付けは直人がやっている。絵里曰く、食洗機に汚れが落ちやすいように食器を並べるのは数学的センスを必要とするらしく、直人が並べると洗い残しが少ないらしい。どちらも煽てられているだけのようにも思えるが、絵里が喜ぶならそれもいいかと納得する。


「できたよー。今日も美味しそう!」

 

 手際よく並べられた料理は絵里が自画自賛する程は直人の口に合っている。チルド食品や冷凍食品も使うし、電気圧力鍋や電子レンジを駆使し、決して凝った料理ではないが毎日の食事はこういうのがいいと直人は思う。


 冷蔵庫から五百ミリリットルの缶ビールを一本と、それぞれのマイグラスを出す。


 直人は有田焼の泡がクリーミーになるという青磁のビアグラス、絵里は海外ブランドのステムや台座が無いワイングラスだ。ワイン用に購入したが、毎日の晩酌のビールにはコレが良いらしい。


 二つの異なるグラスに注ぐと、ちょうど缶ビール一本が無くなる。


「いただきます。乾杯」


 食事の挨拶と共に、グラスを軽く合わせる。


 今日の生姜焼きも美味い。絵里が出勤前に漬け込んでいた柔らかくタレがしみ込んだ肉もだが、たっぷり入った玉ねぎの甘みとピリリとした生姜がアクセントになって食欲をそそる。下に敷いた千切りキャベツがタレとからまり、しんなりしているのも美味そうだ。一緒に食べると箸が止まらない。


 ついつい、一気に一杯目のビールを飲み干してしまう。次は三百五十ミリリットルのビールを一本追加する。


 口の中の脂っぽさをビールのさわやかな苦みと炭酸の刺激で洗い流し、また食べる。直人の食べっぷりに、絵里は目を細めて笑っている。そして、手に持つ透明なグラスの中のビールを見ながら唐突に問いかけてきた。


「あのさ、良く『コップの水が半分しかないと考えるのではなくて、残りがまだ半分もあるとポジティブに考えましょう』て、言うじゃない?」


 直人はごくりとビールを飲みこみ、絵里の疑問に答える。


「ああ、言うね。職場のメンタルヘルスの研修でも出てきたこともあるよ」


 絵里はビールを口に運ぶのを一旦止めて釈然としない表情で直人に疑問を呈した。


「あれって、本当にそう考えるのが正しいのかって疑問に思っててね」


「え? 研修で俺は『もう半分しかないと思う』のを選択したから悲観的でネガティブな性格だって言われて、職場の皆に頷かれたからな。絵里が何で疑問に思うのかが分からないな」


「だからさ、悲観的でネガティブって悪い事なのかなーって考えていたの。『もう半分しかないと思う』って考える直人は会社で必要とされているでしょ? 直人って慎重派だから会社でもきっと、ちゃんと事前準備して事後報告もきっちりしていると思うの。『まだ半分もある』なんて社員全員が思っていたら危機管理能力なさ過ぎてすぐ倒産しちゃうんじゃない?」


 さりげなく絵里に褒められた気がして、直人はにやける顔を平常心で押し殺す。


「会社に必要とされているかは分からないけど、大きな失敗はしないかな。でも、ストレスは他人より大きいかもね」


 絵里はそこで我が意を得たりというように言ってくる。


「それでさ、直人がなんでネガティブなのに残りの量が見えないグラスで不安にならないのかなって。残りが見えないと『まだ半分くらいある』って楽観的になれるから、残りが見えないビアグラスにしているの?」


 また、絵里に突拍子もない質問をされ、考え込んでしまう。


「どうかな? このグラスは単純に泡がきめ細かくなるし、口当たりも良いし、温くなりにくいから使っているだけだけど……。どうしてビールの残りが見えるとポジティブになるんだよ?」


「そうじゃない? 夏休みの宿題と一緒よ。カレンダーを見て夏休みが『もう半分しかない』と思うと、宿題を積極的にしようとするでしょ? 『まだ半分ある』って思うと行動に移さないからダラダラ消極的な時間を過ごす事になって、あの子たちの様に最後の一週間で大変な目に合うんだと思うよ」


 ダイニングキッチンのカウンターに飾っている三兄弟の写真に目をやる。


 自由研究は半分直人がやっていたことを思い出し、絵里の屁理屈がなんだか信憑性を増してくる。


 直人は三百五十ミリリットルの缶に残った少量のビールを継ぎ足す。少しだけ泡が盛り上がってこぼれそうになり慌てて泡を啜る。絵里は生姜焼きを急いで咀嚼し、ビールで流し込みながら更にたたみ掛ける。


「私的考えでは『もう半分しかないと思う』事はそう悪い事じゃ無くて、例えば、私のグラスは残りが見える事で『もうビールを半分も飲んでしまった。この位のおかずを、お酒のつまみにしよう』って計画的に食べることができるでしょ?そしたら、白米のおかずに困る事無いじゃない?」


「まあ、トンカツの時にもうひと切れのこしておくんだったと思う事はあるね」


「でしょー」


 絵里は自分の謎理論にますます自信を持ったようだ。


「だからさ『もう半分しかない』って思う事でアクションを起こすなら、それってポジティブなんじゃない?『まだ半分もある』って楽観視してたら、痛い目に合うよって事。ご飯よそおうか」


「お願い」


 直人は残りの見えないグラスで残ったビールを飲み干すと、絵里の差し出すご飯茶碗を受け取る。残りのおかずを見て、冷蔵庫に納豆を取りに行く。


 席に戻ると絵里がニヤリと笑った。


「ねえ。人生百年ってこの頃言われているけどさ、健康寿命は七十五歳位なんだよ。私達五十歳超えてまだ半分はあるって思っていたら、いつ死んじゃうかわかんないじゃない?だから今度のお休みの日、久しぶりにデートしようよ。初デートで行ったオクトーバーフェストがいいなー」


 直人は絵里の謎理論は案外正しくて「もう半分も無いと思うと、積極的に行動できる」と言うことかもしれないと思った。


 直人はスマホで電車の時間を検索することにした。


「なあ、土産にガラスのビアグラスって売ってあるかな?」


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