【幕間-1】ヴァザリア帝国にて
2007年8月25日、あるゲームが発売されました。
『白竜のいざなうままに~エンドレス、トゥルーラブ~』
ファンから『ハクナウ』と呼ばれているこの作品は、一言でいうと、よくある『乙女ゲー』です。
舞台は中世の西洋っぽい国、フリーディア王国。
平民出身の主人公は、「兄ちゃん」ひょんなことから王立魔法学園に通うこととなり、そこで出会う貴族や王族、他国の魔法使いと恋に落ちるという「兄ちゃんよぉ」実にオーソドックスな作品です。
とはいえ、特徴がないわけではありません。それが『聖獣』です。
フリーディア王国が存在する異世界には、聖獣と呼ばれるさまざまな動物が存在しています。土地を豊かにし、人々に豊穣を約束する聖獣たちは、心を通わせた少年と契約し「そこに突っ立ってられると、邪魔なんだよなぁ」寝食を共にする形で人間と交流しています。攻略対象の多くも、聖獣たちと契約を交わした巫子であり、プレイヤーは攻略対象だけでなく、聖獣とも友好な関係を構築していく必要があるのです。
なかでも私が推しているのは、第一王子の『アーベル』さまです。雪の聖獣である銀色のフクロウ『アイン』と契約を交わした彼は、かつてのつらい出来事から、その心を「兄ちゃんよぉッ!!」
「……なんでしょうか」
と言って、私、橘ひかりは振り返りました。
見下ろすと、そこには背の低いがっしりとしたひげモジャの男性が、金づちと長剣を手に立っていました。
……ドワーフですね。フリーディア王国には存在しない人種です。私は、こちらを胡乱げに見上げる彼から目を離すと、自分が立っている場所をあらためて確認しました。
目の前には、日が落ちているにもかかわらず、活気の絶えない大通りが広がっていました。道の両側には、鍛冶屋や魔法具店、ギルドや酒場が所狭しとひしめき合っています。私の背後には武骨な看板を掲げた鍛冶屋が建っていました。どうやら、入口をふさいでいたようです。
私は眼下に立つドワーフのおじさまに「すみません」と伝えて、道を開けます。
彼は「ふんっ」と勇ましい鼻息をたてて私の横を通り過ぎると、鍛冶屋の入り口にある小さな鉄製の椅子に、ドシンと腰を下ろしました。
……この人、見覚えがあります。
私は彼に、
「ドンナーさん」
と声をかけました。金づちを足元に置き、手に持った長剣の切っ先をまじまじと見つめていた彼は、「ン?」と言って、顔を上げました。
「なんでぇ兄ちゃん。オレのことぉ知ってんのかい」
私は「ええ」とうなずいて、鍛冶屋『ドンドトット』の店主であるドンナーさんを見つめます。彼には以前、スクリーン越しにいくつもの武器や防具を作って、鍛えてもらいました。
「照れるねえ」と鼻をこする彼から目を離すと、私は通りの向こう側に店を構える魔法具屋『キャサリン』に目を向けました。店の奥には、巨大なサイクロプスのドクロの上に身長90㎝ほどの老婆が座っています。彼女が売ってくれる『帰還魔法具』は、冒険に必須のアイテムです。
私は大きく息を吸い込むと、天に向かって両手を伸ばし、夜空を仰ぎました。
開いた指と指の間から、きらめく星々に加えて、二つの月が輝いています。
――間違いありません。ここは、国民的RPGゲーム『ドラグーンファンタジー5』の舞台、『ヴァザリア帝国』です。
私が転生先として希望した『フリーディア王国』ではありません。
ここを希望していたのは、隣に座っていた加藤少年です。
「女神さま、
お取り違えになったのね」
と、私は前世と今世のはざまを振り返りながらつぶやきます。
まあ、たいそうお疲れのようでしたし、『女神為的ミス』が発生するのも、仕方のないことかもしれません。
けれど、と私は思います。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
社会人一年生の夏、慣れない仕事で大きなミスを犯した私は、死を意識するほど落ち込みました。そんな私に、社会人二年生の友人は「推しを持て」という言葉とともに、あるゲームを送ってきました。それが、『白竜のいざなうままに~エンドレス、トゥルーラブ~』との出会いでした。
真っ暗な部屋の中、うつろな瞳でゲーム画面を眺める私の前に、アーベルさまは現れました。
大人たちの権力争いに巻き込まれて親友を亡くしたアーベルさまは、幼馴染であり自らの護衛でもあるケヴィンさんにすら心を開いていません。深い氷に閉ざされた彼の心を、屈託のない主人公が溶かしていったとき、ふいに漏れた彼の笑顔とその本心を目にしたとき、私は、自分の生まれた意味を知りました。
働くためではない。泣くためでもない。
上司のためでも、クレーマーのためでもない。
『この笑顔』を見るために生まれたんだ、と。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
フリーディア王国に転生したら、私は陰ながら主人公を支えつつ、国にはびこる悪を暴き、迫りくる脅威への対策をとろうと考えていました。そうすることで、いつの日か国民の前に王として現れるアーベルさまの御顔を見られたら……。いいえ、同じ空気を吸うことができたなら、
――ああ!!
なんて素晴らしい事でしょう。
ダンスホールの片隅で『壁の花』もとい『壁のシミ』になった私を想像するだけで、全身が震えてしまいました。
その幸福の絶頂を、私は目の前にして、奪われた。
背後から「……兄ちゃん?」と不安げな声がかけられます。
私は我に返るのと同時に、この世界の設定を思い出しました。
「……3大迷宮の奥にある聖印。それらをすべて集めたものは、いかなる願いも叶えられる」
「なんでぇ、兄ちゃんも冒険者かい」
私は振り返らず、「はい」とうなずいてから、大通りに足を踏み入れました。この時間帯でしたら、ギルドはまだ開いているはず。人波を潜り抜け、私は『冒険者ギルド』に向かって進んでいきます。
歩きながら、両手を体の前に出して「ステータスオープン」と唱えます。手の手の間に生じた半透明のボードの下部には、
【所持スキル】
『裁縫』
『隠密』
『回復魔法』
と書かれていました。
――残念です。加藤少年の選んだスキルごと取り違えられていたなら、冒険も楽に進んだことでしょうに。私は落ち込む心に鞭を打って顔を上げます。視界の隅に、冒険者ギルドの看板が見えました。
世界樹の絵が描かれたその板を眺めながら、私はこれから始まる冒険の日々に思いをはせます。裁縫は『死にスキル』と化しましたが、隠密と回復魔法、そしてやけに鍛え上げられたこの屈強な肉体があれば、やれないことはありません。
緊張か、武者震いか。震える唇が、意図せず言葉を紡いでいきます。
「待っていてください、女神さま」
ギルドの入り口に立った私は、ドアに手をかけました。向こう側から轟く、強者たちの豪快な喧噪に心が震えます。けれど、こんなところで負けてはいられません。
これから私は、いくつものダンジョンを踏破し、3大迷宮の奥に眠る『魔王の欠片』を打ち破り、聖印を集めるのです。
そして――
「私は、あなたを」
ドアの向こうに、受付嬢の立つ窓口が見えた。
「『壁のシミ』に変えてやる」