王子さまとのエンカウント
びしょ濡れの状態でドレスを身にまとったのは、生まれて初めてのことである。腹部に空いた大穴からそよぐ風が心地よい。
「あ、あの!」
ぶるぶると毛を震わせているパーチを、濡れることも厭わずに抱きしめていた少年が口を開いた。
……まずい。お礼を言われそうな気がする。
それも「どうもね」とか「ありがとやんす」というフランクな礼ではなく、「この御恩は一生かけてでも…」的な御礼の予感がする。僕は反射的に、
「では」
と言い捨て、さきほど誕生したばかりの『獣道』ならぬ『僕道』を引き返すことにした。
「お待ちください!」
と、凛々しく、それでいて温かみのあるバリトンボイスが飛んできたが、僕は振り返ることなく、へし折られて間もない生木に右足を乗せた。
――いや待て。よくよく考えれば、これは異世界人とのファーストコンタクトである。恩を着せるのはいやだけど、ヴァザリア帝国への行き方くらいは聞いておくべきかもしれない。
考え直して振り返った瞬間、頭上から、分厚く、それでいて柔らかな布をかぶせられた。それが藍色のマントであることに気付いたのと同時に、大きな手のひらが腰に添えられる。
数舜ののち、僕の体は優雅な軌道を描きながら『僕道』から引き離されてしまった。
「むさくるしいでしょうが、ご容赦ください」
と、頭上からバリトンボイスが降ってきた。マントをめくって見上げると、そこにはさっきまで少年の横で唖然としていた、騎士っぽい格好をした銀髪の青年がいた。その腰には、宝石に彩られた鞘が差さっている。
――さすが異世界。剣士が普通に歩いとる!
僕の心は大いにときめいた。
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「はぁぁ……。全く、お嬢さま! リディアめは心臓が縮み上がりましたよ!」
「ああ、はい。ごめんなさい」
「イェルドさまにお連れいただいたとき、私がどれほど安心したことか……。お嬢さまになにかあったら、旦那さまと奥さまに、私は、私は……」
「うん、そうね。申し訳ないわ」
イェルドという名前の剣士に捕まった僕は、マントに包まれたまま、庭園から見えたお城に担ぎ込まれた。そしていま、城の上層部にあるドレッシングルームの中で、リディアと名乗る『御付きのメイド』さんに髪を整えてもらっているわけである。
考えてみれば当たり前の話だが、前世と同様、今世の僕にも『家族』というしがらみがあったのだ。しかも厄介なことに、僕は『やんごとなきご令嬢』に転生してしまったらしい。僕はため息をつきながら、正面の鏡を見つめた。
そこには、艶やかな黒髪を胸の下まで伸ばした、10歳くらいの少女が映っていた。
「――ょうさま、お嬢さま? 聞いてらっしゃいます?」
「あ、はい。聞いております」
そのあいまいな返事に満足しなかったのか、リディアさんは「ふぅ」と小さく、上品なため息をついた。
「今回の件、旦那さまも奥さまも、たいそうお怒りです。さきほど、お屋敷から『今すぐに帰ってこい』との通達が届きました」
「はぁ」
……旦那さまに、奥さまかぁ。僕は必死に、今世の自分の記憶を探ってみた。しかし、どれだけ頑張っても、頭の中に浮かんでくるのは前世の家族や友人たち、道場の師範と先輩後輩、中華料理屋の李さんと陳さんの顔だけである。
困ったことに、僕の中には貴族のご令嬢としての記憶が、かけらも存在しないのだ。
つまり、これからの人生を貴族として生きていくためには、テーブルマナーやダンスレッスンを覚えなおす必要がある。その後、社交界に参加し、貴族同士で交友を深め、最終的には親の決めた男性と愛のない結婚をするわけだ。
無理無理無理!
これはもう、全部捨てて逃げるしかない!
……とはいえ、あとに残される家族の戸惑いや悲しみを考えると、どうにも腰が重い。どうしたもんかなぁ、と俯きながら悩んでいると、耳元で「お嬢さま」と震える声がささやいた。
僕は「うっす?」と脊髄反射をしながら顔を上げる。正面の鏡には、眉をひそめているお嬢さまの隣に、青ざめたリディアが映っていた。彼女の肩には、首を90度横に回転させた『銀色のフクロウ』がとまっている。
「アイン、おいで」
と、部屋の入り口から、優し気な、それでいて妙に油断のできない声がした。声に向かって飛んでいくフクロウを横目で追いかける。
いつのまにか開け放たれていたドアの内側と外側に、二人の少年が立っていた。どちらも身長は160台前半。顔の若々しさを見る限り、年齢は12から13といったところか。
フクロウが身を寄せたのは、ドアのすぐ横、ドレッシングルームの壁に背を預けている黒髪の少年だった。彼は細長い脚をゆるくクロスさせながら、あご先に手を当ててこちらを見ている。目は微笑んでいるが、どことなく敵意を感じる。
廊下には、青髪の凛々しい青年が無表情で立っていた。その立ち姿から、なにかしらの武術を修得していることがうかがえる。
「ヨハンを助けてくれたらしいね」
とフクロウの少年が言った。顔立ちが、さきほど別れた『金髪の少年』とよく似ている。髪の色は異なるが、兄弟かもしれない。
「キミが、おぼれていたパーチを救い上げてくれただなんて、とても信じられないよ」
フクロウの少年は、少しも真心のこもっていない声色で「ありがとう、ニーナ嬢」と言った。偉そうな子供である。いや、実際に偉いのかもしれない。これは丁寧に返事をしなければいけないぞと、頭の一部では考えていたのだが、日本人として培った礼儀作法が、僕の口を突き動かした。
「いえ、全然、お気になさらず」
二人の少年が、「ん?」という感じで僕を見た。肩に感じていたリディアさんの震えも止まった。
なんか、出鼻をくじいてしまったらしい。少年は「んんっ」と喉を鳴らして調子を整えている。
僕は後ろを振り返り、リディアさんを見上げて、『だれですの?』とアイコンタクトを送った。
パチッと目があったリディアさんは、僕の考えとは異なる意図を察したらしい。引き締まった口元を『キッ!』と食いしばると、覚悟を込めた表情でフクロウの少年に語り掛けた。
「アーベル様、ここは、『ノワール家』専用のドレッシングルームです。失礼ながら、殿方が足を踏み入れるべき場所ではないかと存じます」
彼は、アーベルという名前なのか。
……どこかで聞いた気がする。僕は記憶の引き出しを開いてみたが、『外国人』の棚からは李さんと陳さんしか出てこなかった。『中華は火力ヨ!』という師の教えを頭から払いのけると、僕はアーベルに目を向けた。
空気が、凍っていた。
パキパキと音を立て、アーベルの背後から巨大な氷の結晶が壁を這うように伸びていく。
毛皮の絨毯は霜柱とともに逆立ち、冷気に舞い上げられた空気が、天井に張り付いて氷柱に変わった。フクロウが、アーベルの肩で、威嚇するように低く鳴いた。
アーベルは壁から離れると、冷たい微笑みを浮かべたまま近づいてきた。その涼し気な唇が、僕の耳元に寄せられる。彼は僕だけに聞こえる声で、
「悪いけど、キミを『ノワール』だとは思っていない」
とささやいた。
「何を考えているのか知らないが、その薄汚い肌を、二度と、ヨハンの目に晒すな」
当然、僕にもね、と言い捨てて、アーベルは顔を上げた。フクロウが乗っていない方の肩を、青髪の少年がつかんでいた。
その手に引かれるまま、アーベルはドアに向かっていく。廊下に足を出す寸前、立ち止まって彼はこう言った。
「今度の独奏会、楽しみにしてますよ」
二人の少年が去った後、背後でリディアさんが崩れ落ちた。僕は立ち上がって彼女の無事を確認する。よくわからないが、僕はアーベルにめちゃくちゃ恨まれているらしい。今世の僕は、一体なにをしでかしたのだろうか。
それはそうと、去り際、彼は奇妙なことを言い残していた。僕はリディアさんを椅子に座らせると、彼女に尋ねる。
「あの、『独奏会』って、なんのことですかね?」
落ち着きを取り戻し始めていたリディアさんは、目を丸くして僕を見つめた。
「ピアノでございます」
「ぴあの?」
あるのか、ピアノ。というか、
「僕、弾けませんけど……」
その言葉聞いたリディアさんの中に、先ほどの恐怖を上回る感情が生じたらしい。彼女は「はぁぁぁ……」と品のないため息をついてから、僕の肩をつかんでこう言った。
「お嬢さま、しっかりしてください。あなたはこの『フリーディア王国』が誇るノワール公爵家の長女、『ニーナ・ヴィン・ノワール』さまなんですよ」
その言葉聞いた瞬間、僕の脳裏を、ある言葉が流れていった。
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「フリーディア王国一択です。だって、……だって『アーベル王子』や『イェルド団長』、『リオンさま』もいらっしゃるんですよ!!! ええ、当然、『ヨハンたん』も見逃せません!! あぁ、できるなら貴族令嬢に産まれて壁のシミになりたい……。とはいえ、位が高いと『ノワール家のニーナさま』に目をつけられちゃう……。あああでもでもでもッ!! 没落しても追放されたとしても、『カイくん』に出会えれば安泰です!!!」
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僕は、ふわふわし始めた頭を小突きつつ、ひとつの予測を組み立てていく。
うーん、これは……、
これは、もしかして、ひょっとすると、
「女神さま、転生先、取り違えてません?」
僕のつぶやきは、凍ったドレッシングルームの壁に溶けていった。