『私』のこれから
早朝。ノワール家が誇る広大な薔薇園に、やわらかな陽の光が差し込んだ。
朝露を乗せた花々は、宝石をまとった貴婦人のように輝き、地面から立ち上る霧は、荘厳な雰囲気を醸し出している。
その片隅で、長い黒髪が揺れていた。
髪の主である幼い令嬢は、何かをつぶやきながら、上下に細かく震えていた。
――否、震えているのではない。
超高速でスクワットをしていた。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
「375、376、377……」
ふはは。軽い。体が軽いぞ!
体内時計、AM4:30。
早朝トレーニングに励んでいる僕こと、ニーナ・ヴィン・ノワール(10)は、『毎秒2回』という爆速でスクワットをしていた。
本来、スクワットとは『ゆっくりやるべき』トレーニングである。スピードと回数を求めてやみくもに太ももを伸縮させても、効果が出ないどころか、大きな怪我につながりかねない。
しかし、しかしである。『身体強化』スキルの影響か、僕の筋肉と神経は人体の限界を超えた挙動が可能になっており、この程度の負荷をかけなければ疲労しないのである。
「398、399……、400!」
目標の回数に達するのと同時に、僕は両足に力を込めて跳びあがった。2メートルほど浮かんだ僕は、空中で体を一直線にピン、と伸ばしてから、上半身を下げ、地面と平行になって落下する。
地面にぶつかる寸前、僕は両の拳を小さく前に突き出した。
ガチン! と音がして、地面と拳がぶつかる。衝撃が空気を揺るがし、周囲の草花の朝露を払った。
……普通なら、手首にひびが入るほどの衝撃である。腕を伸ばし、拳立て伏せの姿勢をとった僕は、自分の拳に目を向けた。
石畳に3㎝ほどめり込んだ両拳は、銀色に輝く手甲に包まれていた。
体の一部を鎧に変える『鎧化』スキルが発動したのである。僕はにやりと笑うと、「けんたてはじめぇ~」と唱えてから、両腕を宙に引いて、思い切り地面を殴りつけた。全身が、50センチほど跳ね上がった。
「いち、に、さん、しッ!」
ガチン、ゴチン、バゴン! と、音を立てて大地が揺れた。途切れることのない衝撃に身の危険を感じたのか、薔薇の生垣から見慣れない昆虫や小動物がわらわらと飛び出してくる。
――まずいなぁ、このままだと庭師のおじさんだけじゃなく、メイドさんや執事さんも出てきちゃうぞ。と思いつつも、燃え上がった体は止まってくれない。
僕は、生まれて初めてテーマパークにやってきた幼子のように、足の先から脳天まで、全身をくまなく躍動させていた。
楽しい! 楽しいよこれ!!
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
「お、おじょ、おじょう、お、お」
砕けた石畳を見下ろして言葉を失ったリディアさんの前で、僕は正座をしていた。『高そうな服は汚しちゃダメだし、動きにくいよな』という理由で薄着だった僕を、メイドの皆さんが覆い隠すように取り囲んでいる。むき出しのすねから伝わってくる石畳の冷気が心地よい。
リディアさんはしばらく「おぉ、おおぉ」と繰り返していたが、やがてなにも言わなくなった。見上げると、彼女は静かに泣いていた。
『あれ? 弁償じゃすまない感じ?』とうろたえる僕を、リディアさんは優しく抱きしめた。姉以外の女性に抱かれるのは初めての経験である。硬直した僕に、リディアさんは優しい声色で語り掛けた。
「大丈夫でございます、お嬢さま。
ゆっくり。ゆっくりと『ご自分』を取り戻していきましょう」
――そうなのである。僕は今、記憶喪失ということになっているのだ。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
この世界の人間には、生まれつき『魔力』というものが備わっている。その力を使って発動するのが『魔法』だ。ごく一部を除いて、ほとんどの人は魔法で火を起こしたり、木を切ったり、怪我を治したり布を編んだりして暮らしている。おととい、ドレッシングルームがバキバキに凍ったのも、アーベルによる魔法だという。
「とはいえ、あれほどの力は、王族や高位貴族の方々のように、魔力の高い血筋でなければ扱えません」
と、リディアさんは言った。30畳ほどのバカでかい応接間のなかで、あいまいに「はぁ」とうなずいた僕をよそに、彼女の講義は続く。
「ノワール家という名門貴族の出であるお嬢さまには、生まれつき、高い魔力が備わっていました。しかし、それを魔法として発現することができなかったのです」
「ほぉ」
「……通常、7歳にもなれば、簡単な魔法は使えます」
「へぇ」
ことごとく初耳である。しかし、この世界の住人にとってはごくごく常識的なことらしい。リディアさんは懐からハンカチを取り出すと「おいたわしや……」と言って目元をぬぐった。
つまるところ、リディアさんの考えはこうだ。
おととい、僕ことニーナ嬢は、突如として『魔力』を『筋力』に変える魔法に目覚めた!
しかし肉体の変化に精神が耐えられず、記憶や性格に悪影響が発生してしまったのである!
………。
オッス!
ぼく、悪影響!
(まあ確かに、さっきは体のことも立場のことも無視して力に溺れたしな)と反省しながらも、僕は「あのう」と手を挙げた。
「普通、こういうことになったら、お医者さまとかに見てもらうんじゃないでしょうか?」
(まあ、見てもらっても困るけど)と思いながら、僕は疑問を述べる。そのとたん、リディアさんの細く整った眉がゆがんだ。
「それは、旦那さまに禁じられております」
「それ?」
「はい。……旦那さまは、」
と、言葉を詰まらせたリディアさんはハンカチで口元を覆った。数秒ほど経ってから、彼女は意を決してこう言った。
「旦那さまは、お嬢さまの状況を、恥じてらっしゃいます」
「………」
「元に戻るまで、『外部には決して漏らすな』との仰せです」
ふむ、と僕は腕を組んだ。これが貴族というものなのだろうか。なんとも冷たい話である。
転生後、いまだに顔を合わせたことのない両親に反抗期を迎えつつある僕に、リディアさんは優しい声で、「お嬢さま」と語りかけた。
「お辛いでしょうが、そろそろピアノのレッスンの時間です」
「えぇ……?」
「これまでの習慣を続けることで、きっと、心も良くなるはずです」
僕はリディアさんの目を見た。
あ、マジで心配してらっしゃる。両親が亡くなったとき、僕と姉さんに対応してくれた婦警さんもこんな目をしていた。僕は、こういう裏表のない善意に弱い。
「はぃ……」とうなずいた僕は、促されるままに応接間を出て、レッスンルームへ向かった。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
弾けるわけがないのである。
ピアノの前に座り、小学生の頃のおぼろげな記憶をたどりながら『ねこに対する虐待的な曲』をつっかえつっかえ演奏する僕の横で、リディアさんはさめざめと泣いていた。
顔の前に浮かんでいる楽譜は、読めなかった。音符もト音記号も無いのだから仕方がない。ピアノはあるのに、どういうことだ、異世界。
……しかしである。楽譜の隅に書いてある『日本語でも英語でもない文字』は読めるのだ。考えてみれば、リディアさんとも普通に会話ができている。これはあれか? 『翻訳スキル』的な、『転生者へのサービス』的なあれなのだろうか。そこまで気が利くなら、ピアノも弾けるようにしといて欲しい。
そんなことを考えながら鍵盤をたたき続け、一通りねこを踏み終えた僕は、リディアさんに顔を向けた。彼女は涙を流しながら、眉をひそめて首をかしげていた。
「……そのぅ、メロディーは、素晴らしい? ですわね」
当然だ。前世では世界中でスーパーロングヒットをかましている名曲である。僕は少しだけ胸を張った。
……とはいえ、曲がどれだけ良くても、人に見せられる演奏はできそうにない。僕は恐る恐る、リディアさんに声をかけた。
「あの、ぼ……わたしは、こんな状態ですし、独奏会っていうのは、ちょっと……」
そうなのである。僕はこのままだと、5日後には王族や貴族の前でピアノの独奏会をしなければいけないのだ。無理無理無理。考えただけで、額を冷や汗が流れた。僕のためにも、みんなのためにも、なんとしてでもキャンセルしなければ。
「……私も、そう思うのですが、」
と、これまたリディアさんは言葉に詰まった。彼女はハンカチで涙をぬぐい、音を立てず、上品に鼻をすすると、こう言った。
「奥さまに、考えがあるそうです」
「……つまり?」
「独奏会は、『予定通り行う』との仰せです」
ふむ、と僕は頭を抱えた。
これはもう、家出しかないな。
幸いなことに、ノワール家には馬もいる。ここはひとつ、盗んで走り出してみよう。
そんなことを考えていた時、廊下から、若いメイドさんが顔を出した。興奮しているのか、頬が赤い。彼女は唇を震わせながら、上ずった声で「お、お客さまです!」と叫んだ。
リディアさんは怪訝そうな顔を浮かべながら、「どなたです」と尋ねる。メイドさんは、
「い、イェルドさまと、ヨハンさまです!」
と答えた。
その名前には聞き覚えがある。嫌な予感がする。
リディアさんが慌てながら何かを言おうとしたとき、廊下に立つメイドさんの背後から、長身の男が顔を出した。彼の長い銀髪が、しゃらりと音を立てて揺れた。
頭の中の記憶の引き出しから、ひかれ仲間の橘さんが飛び出して叫んだ。
『い、イェルド団長!!』




