8 全力疾走
前回までのあらすじ 触手に破壊された護送車から逃げ出せたかと思いきや、血まみれの男に捕まりかけた。
男の手を振り払い、私はすぐ近くの角を曲がりました。舗装もされていないような裏通りのに入っていきます。
とにかく、まずはあの男をまかなくちゃいけません。曲がれるところはできるだけ曲がり、できるだけ距離を開けることにします。
背後から「待ってくれ!」という叫び声が聞こえます。私は当然それを無視しました。
ごみ袋や、建物の壁に立てかけてある木材で道をふさぎ、あの男が追ってこれないようにできる限りのことをします。
ある程度走って、私は一呼吸つきました。ここがどこなのか全然わからないというのは、どうでもいいことです。あの男がまだ私を追いかけてきていることに比べれば。
「はあはあ、アリスちゃん、はあはあ……頼むから逃げないでおくれよ」
「来ないで、気持ち悪い! それになんで私の名前知ってるの!」
「そりゃ、さっき聞いたから――」
「盗み聞きしたんでしょ! ありえない!」
私はまた走りだしました。今度こそ、振り切るつもりで全力疾走です。
目についた曲がり角をぐにゃぐにゃと曲がりつづけて、私は丁字路にたどり着きました。どちらに行けばいいでしょうか。
あまり考えている時間はありません。とりあえず左を確認してみます……行き止まりでした。右に行きましょう。
まさか、右に行っても行き止まりだなんて、誰が考えるでしょうか? というか、どっちも塞がってるなら、ここにわざわざ丁字路を作る意味ないでしょ!
「はあはあ、アリスちゃん、やっと捕まえた。さあ、僕と一緒に行こうか」
結局、逃げ切ることはできませんでした。血まみれの男がふらふらとこちらに向かってきます。
私は左右に首を振りながら「やだ……来ないで」と言って後ずさることしかできません。
背中が壁にぶつかりました。もう逃げ場がありません。私にできるのは、ぎゅっと目を閉じて神様に祈ることだけです。
ごすっという鈍い音がして、私の肩にぽんと手が置かれました。
「お、お願い。一緒に行くから、ひどいことはしないで……」
「ひどいこと? あたしがアリスにそんなことするわけねーだろ」
びっくりして目を開けると、目の前にほうきを持ったリンが立っていました。ショートヘアに整った顔立ちのリンがとてもかっこよく見えました。私はリンに抱きついて言います。
「リン! 来てくれたんだね……ほんとにありがとう」
「あたし、目はいいからな。すぐ見つかったよ。あと、アリス……今回だけは特別にあたしの服使ってもいいぞ」
「ば、ばか。泣いてなんかない……し」
私が鼻をすすり、目元をリンの服の肩にこすりつけているあいだ、リンは私の背中を優しくさすっていてくれました。
「どうだ。落ち着いたか。この男が起きる前に逃げるぞ。これに乗れ」
リンはほうきの前のほうにまたがって、後ろを手で叩きました。
「う、うん。でも、飛べるの?」
「任せろ。なんかコツつかんだみたいだ」
リンは前を向いたまま言いました。
「ちゃんとつかまってろよ。二人乗りは初めてだからな」
「じゃあ、お願い。早く逃げよう……任せたよ」
ロングスカートをひざ上までまくってからほうきにまたがり、私はリンのお腹のあたりに腕を回しました。
「ああ、任された」
リンはとぎれとぎれに呪文を唱えていきました。それが終わったかと思うと、私たちは真上に向かって飛び出しました。
「リン―! ちょっとなにやってんのおおおおおおお!」
ほうきに足を絡めて、リンにしがみつき必死に落ちないようにします。ほうきは空中で上下左右に大暴れしました。
ですがそれも、リンの必死の操縦のおかげでなんとか収まりました。
「よかった……。とにかく今は触手から逃げるぞ。あれはやばい」
水平飛行できるようになったあと、リンは言いました。
「後ろに見えると思う。やっぱりあの男、うそついてたんだ」
振り返ると、リンの言うとおりに暴れる触手が見えました。確かに、その高さは魔導柱とは比べ物になりません。
五倍は軽くあるような気がします。無造作に振り回す腕が、近くの建物を次々に吹き飛ばしているのが分かりました。
怖くなって、私はリンにもっと強くしがみつきます。お師匠さま、なんてもの運ばせるんですか!
その後も私たちは順調に飛行を続け、丘のほうまでやってきました。
触手に跳ね返されでもしたのか、たまに流れ弾が通り過ぎていくこともありましたが、それが私たちに当たる、なんてことはありません。
リンもやっと落ち着いたようで、「このほうきさ、持ち手の先っぽのほうが竜の頭みたいな形になってるんだよ。アリスのこと助けられそうな道具探してるときに見つけて、借りてきたんだ」とこぼしました。
そのすごい偶然に驚いて、私は思わず身を乗り出してしまいました。
「それほんと? 妹ちゃんの絵みたいだね、見せて見せて」
「ほらよ」
リンはいきなり、体を少し左に傾けました。そのせいでリンにしがみついていた私も左に傾いてしまいました。
傾いた体を立て直そうと、とっさにリンから腕を放してしまったのが裏目に出ました。
私はぐるんとひっくり返り、鉄棒の「ぶたのまるやき」のような姿勢で、ほうきにぶら下がってしまうことになりました。
「もうやだあ……なんでこうなるのお」
ほうきから落ちないように必死にしがみつく私の目から涙の粒がこぼれ落ち、ずっと下の地面へ落ちていきます。
リンはさっきまでとは違い、とても焦った様子で私のほうを確認してきました。
「大丈夫か、アリス!」
「今は、大丈夫。だけど、ずっとこうしてはいられないかも……」
「わ、分かった。すぐ着陸できるようにする」
「ごめんね、なんか私、さっきからリンの足引っ張ってばっかりな気がする」
最初っから、私一人であの荷物を運んでいたらリンをこんなことに巻き込まなくてもよかったはずです。
それに、護送車が触手に壊されたときも、私は穴から出ることができませんでした。今だってそうです。
「気にすんなって。あたしたち、友達だろ?」
「ありがと、リン」
リンのほうを見ながら言った私の視界のすみに、オレンジ色のなにかが映りこみました。私は一気に不安になりました。
「あと、前をちゃんと見たほうがいいかも」
「そうだな……やばい! そういうのはもっと早く言ってくれよ!」
「ごめん!」
「とりあえず、頭をなんとかしろ! ああああああ!」
リンの叫び声とガラスが割れる音が響き、私は目の前が真っ黒になりました。