入学式
「ご入学おめでとうございまーす」
明るい声を上げながら、おそらく先生なのであろう、スーツ姿の大人たちが玄関でせっせと紙を配っている。桜色のその紙がクラス分けの表であることは、今までの経験から皆も予想がついているに違いない。
信号待ちの間に形成された新入生の集団は、知らない者同士の半端な距離を保ちつつ、じりじりと玄関に近づいている。スマホを取り出して時間を確かめると、ちょうど八時十五分。目標通りの時間である。視線を動かすと、広いガラス張りの玄関の中にも、たくさんの新入生がひしめいていた。
「ご入学おめでとうございまーす」
少し進んでちょうど私の正面に来たのは、若い女性教員だった。軽く頭を下げ、桜色のつるりとした紙を受け取った。
「クラスだけ確認して、立ち止まらないで進んでくださーい」
ついつい気になって、皆して紙を覗き込んでしまうのだ。
前の集団も玄関のところでもたついており、ちょっとした渋滞が起きている。友人といる人はクラスを確認し合い、そうでない人はなんとなく周囲を窺って、自分と同じクラスの下駄箱に向かう生徒を探す。私はというと、八クラスあるうちの一番後ろ、つまり八組に名前があった。
人数の割に妙に静かな新入生の群れは、よそよそしい空気と得も言われぬ期待感を漂わせつつ、靴を脱ぎ、鞄から取り出した上履きを履き、そして各々のクラスへと向かう。どうやら一年八組の教室へは、校舎の端の階段が近いようだ。七組と八組だけが端の階段を割り当てられているようで、私はなんとなく固まってしまっていた集団から抜け出した。
一人で階段を上っていると、真新しい上履きとゴムの床が擦れるキュッキュという音が、やけに響く。それを聞いていると、つい一ヵ月前まで通っていた中学校の生活が思い出される。しかし、踊り場の窓から見える景色や校舎の壁の色が、ここは新しい場所だと語っていた。不思議なことに、中学校の絶望的な意匠のジャンパースカートとは全く違う……憧れのブレザーとチェックのスカートを纏っているのに、校内の様子の違いの方が新生活を意識させる。どうにも制服を見慣れた気分なのは、受験生のとき、モチベーション維持のためにと制服の写真を何度も見ていたせいかもしれなかった。
せっせと階段を上って、四階に向かう。二階と三階にいるはずの上級生は、今日は休みであるらしい。三年生になれば教室は二階のようだから、きっと登校が楽に違いない。ああ、春休みをゴロゴロ過ごしていたのが祟ったのか、八組の教室にたどり着いたころには、ぜいぜいと息を切らすことになってしまった。後ろのドアからそうっと覗くと、静まり返った教室には、既にぽつぽつと生徒が座っている。一昔前の少女漫画なら、元気よく挨拶しながら教室に入るのかもしれないが、そんなことをする度胸もない。キャラでもない。かくして私は、あくまで自然な動きを心がけて席に向かった。
前を向いたままの子もいれば、ちらっと振り返ってくる子もいる。目が合ってしまった女の子になんとなく会釈を返し、私の席、窓際の一番後ろの机にリュックを置いた。この席は、教室を見渡すのにもってこいである。真面目そうな子もいれば、髪の毛をきれいに巻いた女の子もいる。中学校とは違い、制服があることと染髪・ピアスの禁止を除けば、この高校の校則は厳しくない。私ももう少し気合の入った髪型にすればよかったかと、無難なひとつ結びにしたことを少し後悔した。
その少し後、まとまった数のクラスメートがやってきた。ギリギリでも早すぎでもないちょうどいい時間だから、そこを狙う人が多かったのだろう。そうして教室は三分の二ほどが埋まっていた。しかし、一年八組の教室は、しいん、と静まり返ったまま。人のことをとやかく言えるほどでもないが、私を含め、近くの誰かに声をかけてみようという猛者はまだ現れない。実は、同じ中学校や小学校だった子が別のクラスにならば数人いるので、八組には、たまたま知り合いがクラスにおらず、動くに動けない生徒ばかりが結集してしまったという可能性もある。それにしたって、三十人近くもいるのに無言というのは、なかなかきついものがあるけれど……。
重苦しい空気に耐えかね、意味もなくお手洗いに行って帰ってくると、後ろのドアのところに一人の男の子が立っていた。登校してきたばかりらしい、とても、背が高い子だ。ドアが塞がれてしまっているので、少し遠くで立ち止まって彼を観察する。後ろ姿しか見えないが、羨ましいほど足が長いことはよく分かった。すっと綺麗な姿勢の割にもたついているのが不思議で、少しずつ近づいていく。
軽く身を乗り出して、教室を覗いているようだが、入らないならどいてほしい。でも、なんだか気になってしまったのだ。首を教室の中に差し込んで、戻す。彼が幾度となく繰り返すその不審な動きのたびに揺れる髪に、目が惹かれた。窓の少ない廊下は薄暗いが、紺色のブレザーとの対比から見るに、彼の髪色は黒というより、茶色に寄っている。しかし、染めているような感じではなく、もともと茶髪だった友人のそれのように、自然な色味のように見えた。あるいは、この彼が校則違反をしている子であってほしくない、という願望なのかもしれなかった。
「……あの、入ります?」
「え」
入りたいのだか入らないのだか、どちらにせよ一向に動く気配のない彼に、私はとうとう声をかけてしまった。彼が勢いよく振り返った拍子に、真っすぐ伸びた髪がさらりと靡き、一瞬で元の位置に収まった。すごく、髪がきれいな人なのだ、と私は理解した。いくら短髪であるとはいえ、こんなにまとまっているなんて。何のシャンプーを、あるいはトリートメントを、と尋ねたい。思い切り見上げて視界に収めた彼の髪は、教室の窓の光を後光のように受けて、ほんのりと淡くきらめいている。
「……」
さらに、きょとんと私を見つめる彼の目は、見事に均整のとれた切れ長の目だった。よほど腕のいい彫刻家か画家が彼の造形を担当したのではないか、と見入りそうになるほど、目の縦幅も、横幅も、角度までも美しい。開かれ過ぎず、細すぎない具合でこちらを見つめるその目には、どうにもクールな印象を抱く。しかし、薄く染まった頬は少し丸く、つついたらきっとぷにぷにしていると確信できた。長身と切れ長の目、柔らかな髪と頬という絶妙な組み合わせが、得難い自然な魅力を感じさせた。
「教室、入りますか? 私、ここのクラスなので、入るなら入っちゃってほしいんですが……」
心を占める衝動のようなものを蹴りつけて、いっそ冷静に私は彼に言った。合点がいった様子で、
「あ、すいません。じゃあ入ります」
と焦りながら教室にすっと彼は入る。ああ、感じ悪いって思われたかもしれない。いや、それでも、きっと、彼の高校生活で最初に言葉を交わしたのは、きっと私になった。
そして私は、彼が私の斜め前の席に座ったのを見た――そう、見てしまったのだ!
これといって珍しいことは起きなかった入学式を終え、私は総勢三百二十人の新入生のうち、最後に体育館を出た。八組で、出席番号も最後だからである。教室に戻り、最後に席に着いたのも私だ。それを笑顔で見届け、先生が最初の号令をかけた。
「これからホームルームを始めます。起立、礼」
「よろしくお願いします」
出身中学は様々なはずなのに、号令は揃うのである。不思議だなと思いながら、私は斜め前に座るあの男の子に視線を向けた。
窓から差し込む春の眩しい陽光が、彼のさらさらとした髪を照らす。柔らかそうな真っすぐの髪に天使の輪っかが浮かぶのは、今、世界中で私にしか見えていないに違いない。席の位置から出席番号を数え、クラス表と突き合わせると、望月くんという子であった。式の途中の新入生呼名の際、しっかり彼の番はチェックしたが、「もちづき」で正解のようだ。あだ名で呼ぶなら「モッチー」かな、などと不毛な考えが頭を過る。
「では、みなさんには自己紹介をしてもらいます。一人ずつ前に来て、自己紹介をお願いします。言ってもらいたいことは、黒板に書きますね」
朗らかに担任の先生が言うと、クラスに動揺が走った。順番はどうなるのか、と明らかに皆がそわそわしているのがよく見える。この場合、出席番号が最後の私からか、最初の子からの二択である。案の定、私と一番の子でジャンケンするように求められ、
「最初はグー。ジャンケン」
ポン、でパーを出すと、私が勝ちだった。思わず教室を見回すと、なんと、望月くんと目が合ってしまった。無表情だが、ちらりと顔をこちらに向けている。美少年かと言われると返答に困るが、見事な切れ長の目は間違いなくチャームポイントと言っていいだろう。
「じゃあ、勝った方の……与那さん? どっちがいい?」
ああ、悪気はないのだろうが、私に委ねないでほしかった。クラス中の注目を集めている状態は、はっきり言って非常に居心地が悪い。ここでいっそ「後ろからがいいなー」などと茶々を入れてくれる子でもいれば助かるのだが、残念なことに誰もいない。ただ、見守るような笑顔を浮かべている子は少なくないので、どうやら、悪いクラスではなさそうだ。
「前からでお願いしまーす」
気持ち悪くない程度に明るく笑いながら、すうっと席に座る。早く望月くんの自己紹介を聞きたいし、仲良くなれそうな子を探したいが、だからといって自分が尊い犠牲になるのも嫌なのである。一番の子にはすまないが、きっと向こうもこの手の流れには慣れているには違いない。私と同じで。
「望月晴紀です。同じ中学校の人がいないので、正直心細いです」
彼の自己紹介は、この言葉から始まった。既に出席番号は三十番台に入り、残すところわずかである。私は必死に自己紹介の内容を組み立てていたが、望月くんのせいで、全て吹っ飛んでしまった。他の子たちと違い、特に笑顔も見せず、かといって緊張するそぶりもなく、抑揚のない声と無表情で名前を述べたものだから、どんな子なのだろうと心配になったのだ。それが、どうだ。心細いだって。ああ、しかも、顔が小さい。
「友達ができたら嬉しいので、ぜひ、声かけてください。よろしくお願いします」
私の心の中で猛烈な望月旋風が沸き起こったが、顔には出すまいと努めて拍手した。切れ長の目に見惚れるあまり聞き逃しかけたが、望月くんは吹奏楽部入部希望らしい。驚くなかれ、実は私も吹奏楽部に入るつもりなのだ。これは再び声をかけるべきという巡り合わせに違いない、と何らかの超自然的存在に感謝をささげる。友達が欲しいと言った割には無表情を貫いた望月くんが戻ってくると、私はまた天使の輪っかをじっと見つめ、時に自己紹介をしている子に視線をやり、時に頷きもした。望月くんを見ていると、ちょうど教卓も視線の延長線上にあるので、自己紹介をしている子も同時に見られるのである。恐らく二ヵ月あまり後にあるであろう席替えが恨めしい。私、一生ここに座っていたかった。
「はい、では気を付けて帰ってくださいね。ホームルームを終わります。起立、礼」
「ありがとうございました」
ホームルームが終わり、教室は何となく緩んだ空気に包まれていた。初日から自己紹介は無謀だと思ったが、効果は抜群だったらしい。そわそわと、だが控えめに、席の近い人同士で会話が始まっている。そそくさと教室を後にした生徒もいたが、残った人たちの中では、早くも親近感が芽生え始めていた。私も、男子二人を挟んで前に座っていた女の子と、さらにその前に座る女の子と意気投合し、明日のお昼ご飯を一緒に食べる約束までも取り付けた。話してみると皆とても明るいのだが、どちらかといえば人見知りの気があるようで、やはり八組には、たまたまやや控えめな人ばかり集まっていたようだ。
そのうちに小さなグループ同士が集まり、その中で話す組み合わせが変わるようになると、吹奏楽部に入る予定の女の子とも出会った。自然話が盛り上がり、校内の知人に吹奏楽部希望者がいるかという話題になると、
「うちのクラスにも、もう一人男の子いたよね、誰だっけ」
とその子が尋ねてきた。吹奏楽部希望の男の子は望月くんだけだったから、私は一人でスマホをいじっている彼に視線を投げた。まだ彼は数人の男の子としか話しておらず、当然、私もあれ以降話していない。
「あの子、望月くんだよ」
「あー、あの子か。楽器何だろう?」
「聞いてこようか?」
打算半分、親切半分で提案すると、彼女はうんうんと頷いた。本当にこっそりと、望月くんは全く印象に残っていないし、改めて見ると若干怖いと教えてくれた。私は苦笑いである。こそこそと話し合ってから、私は望月くんの机の前に立った。
「ねえ、望月くん」
緊張丸出しの声で、彼に声をかける。また勢いよく顔を上げ、なんともかわいらしい上目遣いで彼はこちらを見た。切れ長の目が見開かれ、子犬のように真ん丸になることもあるのだと、早くも私は素晴らしいことを知った。
「私とあそこの子ね、吹奏楽部に入るつもりなんだけど、望月くんもだよね? 何の楽器やってるのかなあと思って。あ、私たちはホルン」
「あ、なるほど……俺は、トロンボーン。セクション同じだね」
同じだね、と言うときになって、初めて彼の望月くんの表情が綻んだ。口角が上がり、頬が更に丸みを増す。あ、と心の中で嵐が吹き荒れる。彼の微笑みは思った以上に幼く見えて、私の緊張も少し緩んだ。いや、緊張は緩んだのだが、動揺は増したという矛盾した状態に陥っている。
「そうだね、同じクラスに金管の子がいてよかった。そういえば、同じ中学校の人がいないって言っていたけど、望月くんどこから来てるの?」
笑顔にやられた私の心中など知る由もないのだろう、落ち着いた声で彼が答えたのは、確かに少し遠い市の名前だった。
「実は一応、同じ小学校だった子は何人かいるんだけど、全員女子で、しかもキャピキャピしてるっていうの? 俺、全然気が合わなくて……」
「ああ、それは微妙だね」
「そう。さっき廊下で会っちゃったんだけど、めちゃくちゃ気まずかったからね。スーって逃げた」
いつの間にかスマホを机に置いて、望月くんは滑らかに話す。自己紹介のときの冷たい声が嘘のように、低く穏やかながらも感情豊かな声。言葉遣いも案外砕けているし、声の抑揚が見事で、私は最後のところで思わず笑ってしまった。彼の言い分は何となく、分かる。明るく華やかに、時には過剰な囀りのような声ではしゃぐ女の子たちは、苦手ではないが私にとっても縁遠い存在だった。そもそも外見からして、私とあのようなタイプの女の子とはだいぶ違うのは自覚していた。だから、彼もそんな軽口をたたいたのだろう。
……ただ、それでも、少なくとも第一印象では苦手なタイプではない、と判定されていることが、私の笑いを少しだけ、長引かせていた。それが収まると、
「俺、意外と面白いでしょ?」
私が笑ってしまったのは、最初から彼の狙い通りだったのか、それとも冗談で言ってみただけだったのか。真面目な声で密やかに囁いて、切れ長の目でじっとこちらを見つめてくるのはどこか背徳的で――そして、それ以上に愉快ったらありゃしない。
「え、なにそれ、それが一番面白すぎる。望月くん、ギャップやばいって……」
本当にただただ彼がユーモアたっぷりだったから、何も取り繕うこともなく、私は笑い声を上げた。