モブにもなれない姫君は、静かに恋を諦めたい
どうやら私は、大好きな婚約者を失うらしい。
そのことに気づいたのは、大好きな背中にぎゅっと縋り付いている時だった。
不意に「はぁ、やっぱりスチルより実物の方が格好いいわぁ」などという考えがよぎった瞬間、突然前世の記憶という奴が蘇ってきたのである。
あまりに何の前触れもなく、思い出すきっかけも雑すぎるので自分が世に言う異世界転生をしていると気づいたのに感動も何もなかった。
でもドラマチックじゃないのも無理からぬ事だ。
何せ自分が転生したこのお姫様は、この世界で起こる特別な物語に一切関係しない。
私が生まれ変わったこの世界は、前世でプレイしていた女性向け恋愛ゲームと酷似していた。
なのに私の名前がゲームに出てきたことはない。舞台となる国の王女ではあるが、そもそもゲーム内では王女がいたという説明すら無い。
そして背景にちらっと映っていたりもしない。
つまり私は、モブとも言えない存在なのだ。
一方私に背後からがしっと抱きつかれているこの婚約者は、なんとゲームの攻略対象だ。
恋愛ゲームのキャラにしては渋い容姿と声を持つ『サイクス』は、ゲームに出てくるヒロインの騎士となる男である。一作目では物語のキーにはならないものの、面倒見の良い性格故に他のキャラとの絡みも多く、見せ場もたくさんある。
そのため人気投票をすればかならず2位か3位に食い込む人気キャラなのだ。
おかげで私が死ぬ直前に発売された続編では『敵側に寝返ったかと思ったが実は……!!』的な最も美味しいポジションを与えられ、次の人気投票では1位確実の素晴らしいシナリオが用意されていた。
キャラの掘り下げも行われ、中々に壮絶な過去がありつつ、大人の余裕と色気を崩さない彼に私もそうとう惚れ込んだ。
そしてサイクスと結婚したいなぁなんて思っていたけど、まさか本当に婚約者になれるとは思っていなかった。
……まあ、自分の存在が物語にまったく出てこないことを鑑みるに、結婚は相変わらず出来そうにないが。
「どうしたリリー? 普段は『サイクス様大好き! 結婚してー!』って騒ぐところだろう」
縋り付いた私の手を軽く叩きながら、僅かに身体をひねったサイクスが笑う。
ああそうだ、このどこか飄々とした振る舞いが好きだったんだなぁと見惚れていると、顎の髭を撫でながら怪訝そうに首をかしげられる。
「おいどうした? 具合でも悪いのか?」
その上不審がられ、私は首を横に大きく振った。
「いえ、何でもありません」
「その割には静かすぎるだろ。いつもはずっと俺が好きだとしゃべり続けるのに」
「リリーも少し大人になったのです」
少なくとも精神年齢は、18歳から29歳へとジャンプしてしまった。
だからこそ今更のように彼にしてきた態度がいたたまれなくなる。
私、リリーベル=クラウンはクラウン国に生まれた末の姫だ。
クラウン国はゲームの舞台となる魔法学校がある国で、王族たちもまた偉大な魔法使いである。
私もその血を受け継いでいたが、残念ながら魔法の才能は無い。
それゆえゲームの舞台となる魔法学校には入らず、婚約者であるサイクスと早々に結婚することが決まっていた。
クラウン国ではこの手の世界にしては珍しく、二十で成人とみなされる。故に来年の誕生日に、私はサイクスと結婚する予定だった。
けれどサイクスは、それをあまり快く思っていない。
そもそもこの結婚は、私の我が儘から始まったのだ。
前世の記憶がうっすらあったのか、私はサイクスに会って以来彼に夢中だった。初対面は三歳の時だったが、当時から異常なほど彼が好きだった。
好きが行きすぎてちっちゃなストーカーとなり、「サイクスとけっこんしゅる!」が口癖だったらしい。
魔力は無いが、何だかんだ末の姫として可愛がられていた私に父である国王はデレデレで、そんなに望むならとサイクスの意向も聞かず婚約を決めてしまったのだ。
以来彼は私の護衛となり、ずっと側にいてくれている。
魔法騎士として有能で、本来ならもっと別の活躍の場があっただろうに、彼に任されたのは子供のおもりだ。
なにせ私が、彼から全く離れない。
今だって、ずっとくっついていたのだ。
四六時中縋りついてくる私に、サイクスがうんざりしているのには気づいていた。気づいていたけど、いつかは絆されてくれるだろうと甘いことを考えていた。
でもきっと、それはあり得ない。
私の誕生日が来るより前に、彼は異世界から現れた聖女を守る特別な騎士に任命されるのだ。
これ幸いと、私を捨ててゲームの物語に飛び込んで行くに違いない。
それは、きっと止められないだろう。
引き留めるには、私はあまりに魅力がない。王女として最低限の礼儀作法や知識は学んだが、サイクスの前では恋に熱を上げすぎた浮かれポンチである。
毎日くっつくだけでは飽き足らず、恋文を日に十通も押しつけ、時には下手なヴァイオリンを奏でながら愛の歌を歌い、世界中のありとあらゆる求愛方法で「好き!!」と主張しまくった。
つまり、少々常軌を逸していた。
サイクスにはドン引きされていた。サイクスだけでなく家族たちもドン引きし、何なら早めに結婚させた方が落ち着くのではと、裏でこそこそ相談されていたほどである。
過去のあれやこれを思い出し、私は頭を抱えたくなる。
愛情表現がおかしかったのは、前世でも恋に縁遠かった弊害だろうかと思っていると、大きくて骨張った手が私の額をそっと撫でた。
「おい、やっぱり変だろ。こんなに黙ってるなんて、絶対変だ」
「いえ、だからリリーは大人になったのです」
「ついさっきまでバカバカしい愛の詩を読んでいたのに、突然変わるわけねぇだろ」
「いえ、変わったのです。だからサイクス様、婚約破棄致しましょう」
「は?」
初めて見る驚き顔でサイクスは固まる。
びっくりしていても格好いいなぁと思いつつ、私は大好きだった彼の身体から腕を放した。
「サイクス様には、私のような浮かれポンチではなくもっと素敵な女性が現れます。だからもう、私の我が儘に付き合って頂かなくて大丈夫です」
長々話していると悲しくて泣いてしまいそうだったので、手短に切り上げ私は部屋を出ようとする。
だが次の瞬間、今まで頑なに私を抱きしめてくれなかった腕が腰に回る。
驚くまもなく抱えあげられ、そしてサイクスは大声で叫んだ。
「リリーベルが病気になった!! 誰か医者を呼んでこい!!」
切迫した声に、城中が騒然とする。
てっきり「はいそうですか」と受け入れてもらえると思っていたが、どうやら日頃の行いのせいでいらぬ誤解を招いたようだ。
その後駆けつけた両親たちにも「病気じゃない。大人になっただけだ」と言ったものの信じてもらえず、結果その後一週間医者や魔法使いたちが私を調べに調べた。
病気ではないと判明したものの「きっと未知の呪いがかかっている」というとんでもない結論になり、私は頭を抱えることになったのだ。
【モブにもなれない姫君は、静かに恋を諦めたい】
うっかり前世の記憶を思い出したせいで、私は呪い持ちの姫と呼ばれるようになった。
ありもしない呪いにかかっていると誰も彼もが信じ込み、その結果私は王国の外れにある離宮で暮らすことになったのだった。
魔法の源である『マナ』を生み出す聖樹の麓に立つ離宮は、物語の舞台となる魔法学校にもほど近い。
常に清らかなマナが満ちる離宮にいれば、どんな呪いだろうと消えるだろうと両親は思ったのだろう。
そもそも呪いではないので無意味なのだが、ここにいればひとまず周りが騒がないので静かに過ごせる。
そしてあと数ヶ月もすれば聖女が現れサイクスもいなくなるため、それまでは大人しくしていようと決めた。
ただ一つ、この新しい生活にも悩ましいことがある。
「リリー、ほらおいで」
サイクスの、突然のデレである。
私が呪いにかかったと信じる彼は、それまでの塩対応が嘘のように私を甘やかしてくる。
二十四時間側に張り付き、給仕さえも自分がやると言いだし、私を膝に乗せたりもしてくれるのだ。
別れの前の最後のご褒美だと割り切れれば良かったが、恋愛ゲームでも早々お目にかかれなかったデレの応酬に私はタジタジだった。
だってゲームのサイクスは誰ともちょっと距離を置いていて、ヒロインが「好き」と言っても「こんなおじさんに本気になるんじゃねぇよ」と苦笑するようなキャラだった。
本当は彼もヒロインが好きなのに、それを隠そうと素っ気ない対応を続けるのである。そんな彼がエンディングでようやく「俺もお前を愛したい」と胸に秘めていた愛を爆発させるシーンに、私は何度萌え死に咽び泣いただろう。
そんなキャラ故に、彼は適度にヒロインと距離を置きつつ彼女の世話などをしていたが、ここまでの好待遇ではなかった。
誰かにべったりくっつき、「ほら、あーんしろよ」なんて言いながらご飯やお菓子を食べさせてくれる片鱗などなかった。
「ほらリリー、お前の好きなクッキーだぞ」
なのに今のサイクスは、三時のおやつだからと私にクッキーを食べさせてくれている。
もちろん私は彼の膝の上で、断固拒否しようとするが無理だった。
3歳から私の世話をしてきた彼の手は、わずかに口を開けた瞬間にクッキーをするりと差し入れてしまう。
「美味いか?」
「美味しいけど、自分で食べられます」
「でも、俺の手から食べた方が美味いんだろ?」
たしかに、かつて私は何度もそう主張した。
そのたび困った顔をしていたくせに、なぜ今はこうもノリノリなのか理解に苦しむ。
「ほら、もう一枚」
「もう、お腹いっぱいです」
「嘘つくなよ。クッキーなら最低二十枚は食べるだろ」
「いやでも、太るし……」
「お前は何食っても太らねぇだろ。むしろ最近軽くなって、心配してる」
頬も少し痩けたなと言って、サイクスの指が顔を撫でる。
それだけで真っ赤になってうなだれていると、鼻先をクッキーでつつかれる。
「食欲もねぇし、せめて食べられる時は食べろよ」
どこか不安そうな声で言われてしまえば、抗う事など出来はしない。
おずおずと口を開くと、サイクスの顔がぱっと華やぐ。
「ほら、あーん」
無駄に渋い声で甘く言われると喉が詰まりそうだったけれど、私は頑張ってクッキーを飲み込んだ。
するともう一枚、更にもう一枚と彼が甲斐甲斐しく口に入れてくれる。
時折指先が唇に触れ、そのたび真っ赤になってビクつく私を彼は優しく笑った。
これまでなら「キスしちゃった!」と私が大騒ぎし、そのたび彼は顔をしかめていた。
なのに今は、彼の方が喜んでいるように見える。
――いやきっと、この笑みにたいした理由はない。愛とか恋とかには関係ない。
ここしばらくは失恋確定のショックで食欲がなくなって心配させたから、ほっとして笑顔を向けてくれているに違いない。
そう言い聞かせていなければ平静を保てないほど、サイクスの笑顔は甘い。それをなるべく見ないように努めながら、私はクッキーをもぐもぐと咀嚼した。
◇◇◇ ◇◇◇
その後私の呪い(勘違い)がとける気配はなく、気がつけば十九歳の誕生日が目前に迫っていた。
「なあ、プレゼントは何がいい?」
そしてここ最近、サイクスが毎日のように尋ねてくる。
「いりません」
「やっぱりまだ、呪いはとけねぇか」
「だからそもそも呪いなんてかかってません」
「そんなわけねぇだろ。お前が健康だったら、一も二もなく『サイクス様を下さい!』って抱きついてくるところだろうが」
「むしろそれが異常じゃないですか」
「お前にとっては正常だろ」
確かにそうなのだが、言っても叶えられない願いを口にするには私の中身は大人になりすぎている。
そして未来を、知りすぎている。
「どうすれば、元のお前に戻るんだろうな」
「戻ったら戻ったで困るくせに……」
「リリーが静かな方が困る」
そう言って、サイクスはおもむろに私の唇を指でそっと撫でる。
「俺の婚約者は、手で塞いでやらなきゃ止まらないほどのおしゃべりだったろ?」
「……それは、子供だったからですよ」
「大人になってもお前は変わらねぇよ。俺が大好きで、年を取ってもずっと側にいる、死ぬ時も一緒にいる、墓にも絶対一緒に入るって言ってたのは誰だよ」
「でも、本当にそうなったら迷惑でしょ?」
「迷惑じゃねぇよ。ちゃんと墓も用意してやる」
何で今更、そんなことを言うのかと恨めしい気持ちになる。
ずっと迷惑してきたくせに。程なく私とは別の誰かを好きになるくせに、将来の約束を今更するなんてずるすぎる。
「でもきっと、そのお墓に入るのは私とは別の人ですよ」
まだヒロインと結ばれるかはわからないけれど、あのゲームはいわゆる明るい逆ハーレム系だった。
とにかく甘くて優しい物語が売りで、お話を進めれば全員ヒロインを好きになる。
キャラに差はあるものの個別ルートに入るとそれぞれが身を引くという設定で、たとえ結ばれなくてもヒロインを思い続ける一途な男たちばかりだった。
それはサイクスも例外ではない。
特に彼ははなからヒロインとは結ばれない思っているところが有り、「あいつの幸せごと守るのが俺の勤めだ」と恋心をひた隠しにし、彼女に尽くすのだ。
そしてどのルートでも、恋の手助けをするポジションに着きがちだった。
密かにヒロインを思いながら、彼女のためにと心を殺す彼に何度萌え殺されたかわからない。
だから今目の前にいるサイクスも、そうしてヒロインを深く愛するに決まっている。
「結婚相手は、同情で選んじゃ駄目です。それに、サイクスは自分の気持ちを押し殺しすぎです」
そう言うと、彼は驚いた顔で私を見る。
「あなたはとっても素敵で、格好いい人です。そして魅力的です。だから遠慮したり我慢したりせず、したいようにしたほうがぜったい幸せになれます」
「……リリーが、ものすごくまともなことを喋ってる」
「もうっ、真面目に話してるんだからちゃんと聞いて下さいよ! いいですか、本当に好きな子が出来たら我慢は駄目ですよ! いいですね!」
ムッとしながら言うと、彼は苦笑しながら私の頭を撫でた。
「そういうお前も、変な我慢はするなよ」
「私はむしろ、ずっと我が儘放題だったから我慢するべきです」
「しなくていいだろ。お前は、我が儘言ってるほうが可愛い」
「かわっ……!?」
今まで一度も褒めてくれたことなど無かったのに、どうして突然そんなことを言うのかと戸惑わずにはいられない。
「ここで調子に乗らないなんて、やっぱり呪いは根深いな」
「だから呪いじゃないですってば!」
そう主張するが、やっぱり信じてはもらえなかった。
それどころかこの日からサイクスは「可愛い」と連発するようになり、私は更に悶々とすることになった。
◇◇◇ ◇◇◇
可愛いと言う褒め言葉が日に十回は飛び出すようになり、そこに「綺麗だ」まで加わり始めた矢先、国には聖女が現れたという噂が聞こえ始めた。
ついにと思う反面、私の呪い疑惑は解けていない。
そしてサイクスの過保護さも、日々とどまるところを知らない。
「これは、まずいわね」
もうすぐゲームが始まるタイミングなのに、このままだときっとサイクスは私から離れないだろう。父も、この状況で彼をヒロインの護衛に任命するはずもない。
そうなるのは大変まずい。なんたってサイクスにとって、ヒロインは運命の相手なのだ。
そして彼がいないと、ヒロインの恋も危ない。
サイクスは攻略キャラのまとめ役であり、特に序盤はヒロインを取り合って争うイケメンたちをなだめる重要な立場なのだ。
それがいなくなったら、きっともめる。
あのゲームはキャラが個性的だし若者も多いから、大人キャラが欠けたら絶対にもめる。
『愛の力が謎の奇跡を起こして世界の脅威を救う!』という超ご都合ストーリーが展開されるゲームだったことを思うと、その愛の力が痴話げんかで進展しなくなるのは問題だという気がした。
そう思うと何としてでも、サイクスを私から引き剥がし魔法学校に送り込まねばなるまい。
それには、かかってもいない呪いをとく必要があった。
「こうなったら、『引いて駄目なら押せ押せ作戦』しかないわよね……」
大人な対応で『婚約破棄しましょう』といっても聞き届けられないなら、もういっそ昔に戻ったフリをすれば良いのだ。
そうすれば呪いは解けたとみんな思い、サイクスもまた昔の塩対応に戻るだろう。
私が健康だとわかれば、きっと彼は聖女の護衛に任命されるはずである。
ただ正直、もう一度昔の私に戻るのは少し辛い。
恥ずかしいというのもあるけれど、『好き』と口にするのが私は怖いのだ。
その言葉はきっと、偽りの呪いだけでなく幸せな日々をも終わらせる。
言ったら最後、優しいサイクスは目の前から消えてしまう。
だから薄々この作戦しか無いと思いつつ、私は決行に踏み切れていなかった。
でも聖女が――ヒロインが現れたのだとしたら、そうも言っていられない。
好きでもない女の世話を、彼にこれ以上させるなんて絶対に駄目だ。
そう決めると、私はその夜ついに作戦を決行させることにした。
サイクスはこのところ、同じベッドで寝てくれる。
昔私が「一緒に寝たい! 添い寝! 腕枕!」と散々ねだったのを覚えてくれていたのだ。
願いを叶えれば昔の自分を取り戻すかも知れないと、離宮に来てからはずっと、こうして抱きしめながら眠ってくれていた。
彼に抱えられて眠るのは幸せだった。
そしてその瞬間こそ、昔に戻るのに最も適したタイミングだろう。
いつものようにベッドに入り、私はサイクスの腕の中で眠ったフリをする。
そしてその夜遅く、私は意を決して彼に抱きつき強引に起こした。
「誕生日に欲しいものが決まりました! あなたを……むしろ今すぐサイクスを下さい!」
そう言って熱烈なキスをすれば、唖然とした顔で彼は固まっている。
「お前、まさか……」
「まさかなんですか? 何でも下さると言ったのはサイクスでしょう?」
「いや、言ったが……こんな突然……」
「今は駄目ですか? なら誕生日の夜、エッチな下着を着けてお待ちしておりますね! はい決定です! 『誕生日プレゼントは俺だよ』って色気たっぷりに迫って下さいね!」
怒濤の勢いでまくし立てれば、サイクスは困った顔で目を泳がせている。
どうやら作戦は大成功のようだった。
それにほくほくしながら「たのしみだなー!」と笑って、私はもう一度横になる。
やりきった!
これは勝った!
ドン引き間違い無しだとほくほくしながら毛布を頭り、とどめとばかりに「深夜にごめんなさい! でも朝起きたらちゅーしましょうね」とまで言ってやる。
そのままじわじわと赤くなり始めた頬を枕に押しつけていると、不意に毛布を引っぺがされた。
「キスなら、今すれば良いだろ」
言うなり身体を反転させられ、柔らかなものが唇に重なった。
あまりのことに訳もわからず固まっていると、ぬるりとしたものが口内へと侵入してくる。
「……ん!?」
いわゆるディープキスをされていると気づき、私は完全にパニックだった。
当たり前だが、大人であるサイクスは手慣れていた。手慣れすぎていた。
一方私はこれが初キスである。
散々翻弄され、呼吸さえ出来ず、唇が離れてようやく「ぎゃああああ」と叫びだす有様である。
「お前、あれだけキスしたいと喚いておいて、その反応はどうなんだ」
「だって、あの、なんで……」
「キスしたかったんだろ。それに俺が欲しいんだろ?」
言うなり、サイクスが着ていたシャツを脱ぎ始める。
今日に限ってカーテンを開けていたため、月明かりのせいで鍛え上げられた肉体がバッチリ見える。
スチルで見た五倍は立派な筋肉に、私は真っ赤になって固まった。
抱きつくたびに「いい胸筋だなぁ」とか思っていたけれど、直に見るとそんなことを思ってもいられない。
「脱がないのか?」
「へ?」
「ああ、それとも脱がせて欲しいのか」
言うなり寝間着のリボンに手をかけられたところで、私は慌ててベッドから転がり出た。
だがすぐに逞しい腕に捕まり、そのままズルズルと引き戻されてしまう。
「欲しいんだろ、俺が」
「そ、そんな色気たっぷりに言わないでください!」
「こういうときに色気出さなくていつ出すんだよ」
「そ、それは大事な相手に取っておくべきものでしょう!」
「だから出してんだろ」
「私に出してどうするんですか!」
「むしろお前以外に誰に出す。婚約者だし、結婚もするんだろ」
言うなり、私の首筋に唇を押し当てられた。
ちりっと僅かな痛みが走り、私は更にパニックになった。
これは世に言う、赤い痕をつけるというやつに違いない。
今すぐ鏡で確認したいが、喜んでいる場合ではなかった。
「ほら、自分の言葉には責任を持て。俺をくれてやるから、準備しろ」
「む、無理です……」
「なんだ、怖いのか? だったらひとまずキスだけにしとくか?」
「き、キスも駄目ですぅ……」
もはや半泣きになり、駄目だと繰り返すとサイクスがぎょっとする。
「……わるい、そんなに嫌がるとは思わなかった」
「いやじゃなくて……駄目……なんです……。私とじゃ、駄目なんです……」
半泣きが号泣になり、気がつけば涙だけでなく鼻水まで出ていた。
酷い顔になっている自覚はあったが、もはや止めることは出来ない。
そのまま涙を止められずにいると、落ち着けと言いながらサイクスがタオルと飲み物を持ってきてくれる。
涙を拭かれ、僅かにアルコールの香りがする紅茶を飲まされると、少しだけ気分が穏やかになった。
泣きすぎて頭はぼんやりしているが、とりあえず涙と鼻水は止まる。
「とりあえず、落ち着いたか?」
「……おちつきたいので、その胸筋を隠して下さい」
「散々見たがってたくせに」
「見たかったけど、触りたくなるから駄目です!」
「触れば良い。俺はお前のだ」
「違います! 私のじゃなくて、それはヒロインのものです!」
言うつもりはなかったのに、うっかり口を滑らせる。
するとそこで、サイクスの目が妖しげに細められた。
「ヒロインって誰だ?」
「聖女様です」
答えるつもりはなかったのに、なぜだか口が勝手に動く。
あれっと思って手で口を押さえると、サイクスがその手をそっとつかむ。
「薬が効いてきたな」
「……え、薬?」
「お前が中々口を割らないから、魔法薬に頼ることにしたんだよ。……でも安心しろ。人体に影響はない」
「え? あの……え……?」
戸惑いながらサイクスを見ると、彼らしくない悪い顔がそこにある。
「この顔……過去編で、暗殺者やってた時の顔だ……」
「ほう、俺の過去まで知ってるのか」
またしても考えがまるっと口から飛び出し、私は慌てて口をつぐむ。
「俺の過去を知っているなら、こういう尋問が得意なのも知ってるだろ?」
とってもよく知っていた。
サイクスは今でこそ優しくて頼りがいがある騎士だが、若い頃はとある帝国で暗殺者をしていたという設定なのである。
親に捨てられた彼は幼い頃から特別な教育を受け、世界最強の暗殺者の名を欲しいままにしていた。中二病的な二つ名を持ち、この国に来たのも元々は国王を殺すためだったのだ。
だが彼はそこで国王と王妃の優しさに触れ、与えられた仕事を放棄するのだ。
そして心を入れ替えた彼は逆に王の護衛となり、その後聖女の騎士となるのである。
などという詳細設定まで知っていることもペラペラと喋ってしまえば、なぜ知っているのかと問われるは必然だった。
その頃にはもう意識はぼんやりしていて、隠そうという意思もない。
「だってあなたは私の推しキャラだから……」
私がはっきりと覚えているのはそこまでで、気がつけば睡魔までやってきた。
そして私は推しキャラの腕の中で前世のことを洗いざらい吐き出したあげく、いつのまにかぐーすか眠りこけていた。
◇◇◇ ◇◇◇
息を吸うと、大好きな男の香りが鼻腔をくすぐる。
そんな距離感で、私はサイクスの腕に囚われていた。
それもなぜか――裸で。
「事後ぉぉぉぉぉ!?」
「お前、ほんと色気がねぇな」
慌てふためく私を抱えながら、サイクスが笑う。
いつもより少し髭が伸び、眠そうな顔にとんでもない色気をたたえた彼の顔に、私はふんぐぅと息を詰まらせる。
その様子もまた色気がないに違いないのに、彼はそこでちゅっと額にキスを落としてきた。
「な、なななな……」
「何でって、お前の呪いを解くためだ。恋は叶わないって無意味に信じ込む呪いをな」
さて……と言いながらあくびを一つしたあと、彼は私の左手を持ち上げる。
見れば薬指には、大きなルビーがはめられた指輪がくっついていた。ルビーはこの国では婚約指輪に使われるもので、3歳の時から私はこれをサイクスにねだり続けてきた。
「それで、願いが叶った感想は?」
「へ?」
「もう少し喜べよ。間抜けな顔も可愛いが、お前に笑って欲しくて用意したのに」
「いやでも、あの……だって……」
「俺は推しキャラなんだろ?」
その言葉で、すべてゲロってしまった事を思い出す。
「あ、あれは……戯言というか……」
「俺の魔法薬は真実しか引き出さない。それも、知ってるんだろ?」
「うぅ……知ってます……」
「ならもう観念しろ。お前の考えも記憶のことも、全部知ってる」
「でもだったらなんで、こんな……」
「自分の気持ちを我慢するなって、そう言ったのはリリーだろ」
大きすぎるルビーに震える手を、サイクスがぎゅっと握る。
はっとして彼の顔を見ると、そこには前世で何百回とみたスチルと同じ、甘い表情が浮かんでいた。
「俺もお前を――リリーベルを愛したい」
記憶と違うのは、愛の告白に私の名前が差し込まれたことだ。
胸が苦しくなるほどの愛情を感じ、私はまた泣きそうになる。
「お前ほど声高々には言えないが、こうして愛を囁きたいし身体も心も全部俺の物にしたい」
「うぅっ……ゲームでは、そこまで熱烈な告白はついてなかったのに」
「お前のが移ったのかもな。出来ることなら、同じだけの愛を返してやりたいって、そう思ってる」
「でもなんで私を……」
「こんなに可愛い子にずっと好きだって言われて、落ちない男がいるかよ」
あまりの殺し文句に、またしてもふぐぅと変な息がこぼれると、サイクスに笑われた。
それを見ていると拗ねた気持ちが芽生え、私は隠す気のない胸筋をぽかぽか叩く。
「ずっと、塩対応だったくせに……」
「そうしないと、想いをこらえきれなかったからだ」
「じゃあ、前から好きだったんですか?」
「ロリコンかもしれねぇって不安だった時期もある」
「ロリコンでも良い!!」
「そう言って調子にのるから言わなかったんだよ。まあ、さすがに欲情するようになったのは最近だが、昔から俺はお前が可愛くて仕方なかったんだ」
そう言って、サイクスの指が乱れた私の髪をそっとつまみ上げる。
「なのに勝手に身を引こうとするから、無理矢理つなぎ止めた。薬を使ったのは悪いと思うが、リリーだけは絶対に手放せなかった」
「……じゃああの、本当に昨日は……」
「結ばれたら、俺から逃げようなんて思わないだろう?」
「ここに来て若干のヤンデレ要素出してくるとかずるいです!!」
「男に執着されるのはいやか?」
「嫌じゃないから困ってます」
ただでさえ好きなキャラだったのに、更に好きな要素が足されてしんどい。
それもその執着の対象は自分だなんて、夢にしか思えない。
「いやこれ、夢かな……。壮大な夢でも見てるのかな……」
「夢にするなよ。なんなら、現実だってわからせようか?」
妖しく光ったサイクスの瞳に、私は慌てて首を横に振った。
「いえ、あの、今はもう……色気は無理です」
「ならそれは今夜改めてにしよう。そろそろ結婚の許可証が届くだろうし、さっそく教会で誓いを立てよう」
「え、許可ってもう!?」
「どんな呪いかは知らないが、『愛があればきっと解けます』って陛下に言ったらあっという間に許可をくれてな。式は少し先だが、もう夫婦も同然だ」
「わ、私の意思は……!?」
「反映されてるだろ? 俺と結婚するのは3歳……いや前世からの夢だったんだから」
「そうですけど、こんな急に……」
「どのみちリリーが20歳になったら結婚する予定だったんだ。少し早まっただけで、問題は無い」
「でもあの、ヒロインは……」
「安心しろ、浮気はしない」
でもサイクスがいないとお話が……と戸惑っていると、「そこもぬかりはない」と彼は笑った。
「聖女の恋愛が国の平和に関わるなら、騎士にはなる。だが、俺がなるのはリリーの騎士だ」
「え、なんで私?」
「才能は無いがお前だって一応魔法使いだから、魔法学校への入学は可能だろ。それに俺もついていって、必要なら『攻略キャラ』とやらの仲を取り持ってやる」
「いやでも、サイクスはともかく私まで魔法学校に行っていいんですかね?? 私、モブでもないんですけど?」
「ならこれからなれば良い。いやモブどころか主要キャラだな『サイクス=クルスニクの妻』っていう重要なキャラだ」
ゲーム開始前から攻略キャラを寝取っているとか有りなんだろうかと思いつつも、今更サイクスを取られるなんて死んでも嫌だった。
かといって彼の存在が消えることで、聖女の恋が破綻するのがまずいのは確かである。
ゲームの内容は緩いが、それでも世界を脅かす魔王なんかはいるし、それを倒すには聖女と彼女に愛された男の愛の力がいるのだ。
まあその魔王も、ルートによっては聖女の恋人になったりもするが。
「昨日お前から引き出した話が確かなら、聖女は人の旦那を誘惑するようなキャラではないだろ?」
「はい、それはもう品行方正で天使みたいな子です」
「なら俺に言い寄ることはないだろ。言い寄られたとしても、俺はリリーしか見てねぇけどな」
意味深な表情で私の唇を指で撫で、サイクスが微笑む。
垂れ流される色気にあてられながらも、ようやく私は彼に恋をしていても良いのだと実感を覚えた。
とはいえこうも急速に事が運ぶと、今更気恥ずかしさや緊張が戻ってくる。
その上これまでとは別人のように、サイクスは大人の色気と甘さを垂れ流している。
というか、覚えてないけどきっと昨日はすごかったんだろうな……。などとうっかり考えていると、不意に彼の手が私の腰に回る。
むろん、身につけている物は何もない。
「そ、そういえば私の下着はいずこへ……」
「どこでもいいだろ。今は必要ない」
「いや、でもベッドから出られないし」
「出られると思っているのか?」
無理なのはなんとなく察した。
色恋の経験は全くないが、前世ではエッチな本をいっぱい読んだ私である。
「その顔だと昨日のことは覚えていなさそうだし、念のため俺がいかにリリーを愛しているか証明する」
「ちなみにあの、私マグロじゃなかったですか?」
「まぐろ?」
「あの、下手だったりとか」
「安心しろ。俺たちはとても、相性が良い」
そしてそれは、その後半日かけて証明された。
色々すごすぎて結局後半は意識を飛ばされたけれど、ここまで散々愛されれば嫌でもわかる。
私の推しキャラ――いや夫は、愛情深くて執着心も強いらしい。
そんな気づきと共に始まった結婚生活は色々な意味で波乱に満ちた物になる予感がしたが、愛があればなんとかなるだろう。
私はヒロインでもモブでもないけれど、ここは何があっても最後に愛が勝つ、恋愛ゲームの世界なのだから。
モブにもなれない姫君は、静かに恋を諦めたい【END】