批判を受ける覚悟で、日本社会を救う意志を持った政治家がいたと仮定した場合
――その時、国会はいつも以上にざわついていた。何故なら、A首相がとんでもない提案をしたからだ。
野党の面々は、「これでまた責める材料が見つかった」と喜び、本来仲間であるはずの与党の面々は「面倒なことを言い始めた」と頭を抱えていた。
「――首相。もう一度、発言をお願いします」
首相の発言が信じられなかったからだろう。国会内のざわついた雰囲気に促されるように議長がそう求めた。すると、大きく頷いてからA首相はゆっくりとこう言った。
「高齢者達への年金支給の一部を削り、コロナ19ウィルスへの対策に使うべきだと私は提案します」
一度目は何も反応しなかった野党は、今度は即座に反応した。
「何を言っているんですか? そんな事をして、お年寄りの生活はどうなるのです?」
少しも臆せず、A首相はこう返した。
「年金支給額の上限を15万円…… いえ、18万円とし、それ以上の人達を対象に年金支給額の削減を行います。
月に18万円あれば、生活できなくなるという事はないはずです。
しかし、コロナ19対策の為に経済活動を封じられた若い世代は、このままでは生活できなくなってしまうのです。道理的に観ても、倫理的に観ても、若い世代の為に年金資金を使うべきだと私は思う」
その首相の答弁に、与党の大御所の一人が大きく首を横に振った。
「首相。確かにそれは理屈だが、それで国民の理解を得られると思いますか?」
「年金制度は、若い世代が支えています。その若い世代がコロナ19不況で倒れてしまったなら、そもそも年金制度自体が保てなくなってしまいます。
私は、お年寄りの多くはこの理屈を分かってくれると思う」
その首相の言葉を聞いて、野党の一人が疑問を口にした。
「しかし、そうやって年金支給額を減らしてしまったなら、高齢者の皆さんがお金を使えなくなりますよね?
ならば、結局同じなのではないですか? 経済に悪影響を与えてしまう」
それを受けると、A首相は首を軽く傾げた。
「高齢者になると消費意欲が低くなる事が知られています。更に、限界消費性向と言って、高額所得者ほど所得に対する消費の占める割合が減り、貯金が…… つまり、“使われない死蔵された通貨”を多く持ってしまう事が知られているのです。
飽くまで“消費面”ですが、これらを勘案するのであれば、所得の低い現役世代…… 特に子育て世代へとお金を回した方が経済効果は高い事になります」
このA首相の発言に、政治家達は大いに驚いた。
その首相の語った理屈は、金持ちを優遇する傾向にある政治家達の常識からは外れたものだったからだ。
金持ちを敵に回せば、首相自身の政治生命すら危うくなるかもしれない。それはもちろんA首相も分かっているはずだった。
つまり、A首相はそれ相応の覚悟をもって、この場に臨んでいるのだと窺い知れたのだ。だからだろう。国会内の雰囲気が一気に緊張感を帯びた。
少しの間の後で、A首相はまた口を開いた。
「一年間の年金支給額の合計は約55兆円ほどにもなります。
この膨大な額の年金資金は、その9割が現役世代によって支えられています。高齢者達の積立金額は実は1割ほどしかないのです。
もちろん、年金制度が持続さえすれば、現役世代も年金を受け取れるのですが、それでも年金受給額の世代間格差は、一人当たり数千万円にもなります。
若い世代の為に年金資金の一部を使う理由としては、充分過ぎるのではないでしょうか?」
その首相の説明にも国会にいる政治家達は信じられないといった視線を向けた。
A首相が述べたように、現在の年金制度には世代間のとんでもないレベルの不公平が存在している。
それに現役世代の多くが反発をしていないのは、「高齢者世代もそれ相応の年金資金を積み立てて来た」という勘違いがあるからだろう。実は高齢者世代が1割ほどしか負担していないと知れば、現役世代が反発するのは必至だ。
そんな事を明らかにすれば、A首相の立場は当然悪くなる。
A首相はまた語った。
「先程述べたような手段で、年金支給額を削減すれば、数兆円…… 具体的な試算はまだしていませんが、企業年金にも課税すれば恐らくは年に10兆円規模の予算を捻出できるでしょう。
それだけの資金があれば、産業構造を変化させて、このコロナ19禍の状況下においても経済を成長させる事が可能です……」
国会にいる政治家達は、それに何も返さなかった。A首相の覚悟が本物だと感じ取っているからだろう。
「政治は詐術だと言われています。
実際に成果を出す必要はなく、いかに政策の効果を演出し、国民を騙せるかどうかが肝要な実の伴わない仕事……
しかし、政治がそのようになってしまったのは…… いえ、そのような政治でも世の中が回って来たのは、この日本という社会が豊かだったからに他なりません。
ですが、近年に入り、この日本社会は“衰退している”と言われるようになってしまいました!
数多の先進技術を活かせば直ぐにでもできるはずの経済発展を、官僚や政治家達が私利私欲の為の“規制”によって阻み、その影響の所為で経済は停滞、出生率の低下は少子高齢化社会の中で益々酷くなっていっています。
そして、そんな中で起こってしまったこのコロナ19の感染拡大が、そのような日本社会の状況に止めを刺そうとしている……
政治を詐術にしてはいけないのです。
実を伴うものにしなければ!
このままでは、この社会全体が本当に衰退していってしまう。
だからこそ、私は批判を受ける覚悟で、政治生命を賭して、この状況を打開する為の案を提示した。
若い世代の為に、年金資金を使えば、高齢者世代が怒る。
恐らく、多くの政治家の皆さんは、そのように考えているのでしょう!? だからこそ、当たり前すぎるこの財源の捻出手段を提案しては来なかった。
ですが、それはあまりにお年寄りの皆さんを馬鹿にした話ではないでしょうか?
このコロナ19禍で、世界でも有数の富裕層達が“私達に課税をしてくれ”と訴えました。自分達の金を、世の中全体の為に使ってくれと言ったのです!
人間は、決して欲望のままに生きるだけの動物ではありません!
次世代、将来世代の為に尽力するというのは、人間が有史以来成して来た当然の営みの一つです!
お年寄りの皆さんだって、親の世代からの恩恵に与っている。今度は子供や孫達の為に尽くすべきだと分かっているはずです!」
そのA首相の言葉を受け、その場にいた政治家達は困惑していた。
金と権力、権謀術数、虚実をもって事を為すのが当たり前の政治の世界において、そのA首相の言葉はあまりに真っすぐ過ぎたのだ。
真摯に、この社会全体の事を考えた発言など、彼らは真っ当に受け止めた事はない。
そして彼らは、そんな言葉を受けてさえ、まだ己の損得で物事を捉えていた。果たして、この首相の演説を、国民はどのように受け止めるのだろう? 或いは高く評価されてしまうかもしれない。ならば、同意しておいた方が良いかもしれない。が、それでは日本の富裕層を敵に回してしまうかもしれない……
政治が、本来のあるべき姿を取り戻すのには、まだまだ時間がかかりそうだった。もっともその前に、この社会はもう駄目なところまでいってしまうのかもしれないが。
どっかにこんな政治家いないですかね?