第九話 優しい魔物
姉が学校の屋上から飛び降りて、この世を後にした。もしも、天国が本田和歌の言うような場所なら、きっと今頃姉は、天国で幸せに暮らしているだろう。
それでも、わたしは姉を死に追い詰めた人を許せない。姉が自ら死を選んだことを、心が弱いからだなどと揶揄する人もいるだろうけれど、たとえどんな理由があっても、姉を苦しめ、そしてのうのうと笑っているあの人だけは、絶対に生かしておくわけには行かないのだ。
和歌の見舞いがてら出かけた病院からの帰り道、わたしは拳を硬く握り締め、胸の奥で復讐の炎をたぎらせていた。
姉が自殺したのは、昨日の夕方だった。陸上部が大会を目の前に最後のトレーニングに励む校庭に、姉は落ちた。部員達の恐怖と悲鳴が交差する中、姉は十七年と言う短い生涯に幕を降ろしたのだ。
直ぐに先生達が病院へ運んだが、その時には既に息はなく、駆けつけたわたしと両親は、物言わぬ姉の姿に、泣き崩れてしまった。
何故娘は死んだのかと食い下がる父に、先生達は口を揃えて、自殺した理由は分からないと言った。姉は優しく大人しい人で、他人との衝突を避け、独りで居る事をこのむような性格だった。だからこそ、他人とのトラブルは想像もつかなかったのかもしれない。更に、遺書を残しておらず、飛び降りた屋上には一冊のノートだけが風に吹かれていた。
姉がクラスメイト達にいじめられていたことを知っている大人はほとんどいない。そして、そのノートの持ち主こそが、姉を死に追いやった首謀者であることを知る人はほとんどいなかった。
だけどわたしは知っている。姉が苦しんでいたことも、それを誰にも話さず、独りで抱え込んでいたことも。
姉の遺体が帰った後、両親は経営する店を休業し、通夜や葬式に忙しくしていた。それは、まるで悲しみを忙しさで忘れようとしている姿に見えて、わたしは居た堪れなく思った。
もう、迷ってなんかいられない。姉を殺したあの人に、姉が受けた苦しみと同じ分だけの恐怖を与えて殺してやる。それが、姉がイジメられていることを知っていながら、何も出来なかった自分の、せめてもの罪滅ぼしなのだ。そして、わたしはあの人を怯えさせ、恐怖に顔を歪ませることの出来る、武器を持っている。
見舞いからの帰り道、わたしは通夜が始まっているだろう家へは直行せず、反対の道へと向かった。街の隅の方にひっそりと佇むその場所は、不景気の煽りを受けて、撤退した工業団地の跡地で、今も尚見捨てられた工場がいくつも点在している。
わたしは冷たい風に首をすくめながら、工業団地の一番奥に位置する一番大きな工場へと足を進めた。
有刺鉄線に囲まれるその廃工場は、真っ赤な夕陽を背に、漆黒のシルエットを浮かべ、人気のなさと相まって、不気味さを強調しているかのようだった。時折、敷地内の枯れ木に止まった烏が、叫び声のような悲鳴を上げる。
怪談話の一つもあろうかという、この工場には安易に入ることが出来る。有刺鉄線の柵はすでに何者かの手によって、一部切られているし、工場入り口の鉄扉の錠前は、錆び付いて鍵の意味を成していない。
工場内には、機械や製品などは残っていないが、あちこちに、かつてここが稼動していた当時の名残がある。「安全確認の五か条」と書かれたポスターや、従業員が使っていたと思われるヘルメット、何かの伝票や書類らしきものが床に散乱しているのだ。
それらを避けて、奥へ進むと地下へと続く薄暗い階段が現れる。こんな廃工場には、電気が来ておらず、スイッチを押しても階段の電灯は点灯しないことを知っているわたしは、鞄から携帯電話を取り出し、そのランプを頼りに、地下階へと降りた。
元々は倉庫として活用されていたのだろう。階段の終点には、業務用のエレベーターのドアと、「備品」と書かれた緑のドアがある。わたしは、その緑のドアにそっと手をかけた。
鉄と鉄が擦れる、こうもりの悲鳴にも似た音を立てながら、ドアはゆっくりと開いていく。外部からの光が全く届かない、完全な闇に閉ざされた地下室は、異様な臭いに包まれていた。何かが腐ったような、鼻のもげる臭いだ。すかさずハンカチを取り出すと、わたしは口許と鼻をそれで覆った。
「ポチっ」
わたしはその名を呼ぶ。だけど、暗闇からは何の反応も帰っては来ない。ただ、時折ひび割れた天井から、水滴が漏れ出す音が聞こえるだけだ。
「いるんでしょ、ポチ。返事をして。やっと君の出番が来たんだ。外に出してあげる」
やはり、ポチの返事は返ってこない。空しく暗闇にわたしの声が吸い込まれるだけだ。どうしたのだろう、いつもなら部屋の隅からポチの声が聞こえてくるはずなのに。あまり、この臭い地下室に入りたくない。だけど、姉の復習をするために、あの人を葬り去るためには、ポチの力なくしては成し遂げられない。
わたしは、意を決して、地下室へと足を踏み入れた。
ポチと言っても、犬ではない。名前をつけたのは姉だった。ずいぶん貧相な名前だと、わたしはケチをつけたのだが、姉は微笑んで「ポチって名前の方が、可愛いじゃない」と言った。だけどどうあがいても、ポチはその名が似合わないと、わたしは思う。
ポチに出逢ったのは、まだ夏の風が湿り気を帯びる前の、雨の日だった。霞がかった公園の植え込みの奥、普段は誰も立ち入らないその場所に、ポチはうずくまっていた。ポチを見つけたわたしと姉は、息を飲んだ。
二メートルはあろうかという巨躯。太く長い手足。銀色の爪、鋭利な牙と棘。丸く見開かれた血のように赤い眼。全身には体毛の変わりに、緑色の鱗が生え、その一枚一枚が、ギラギラと光っていた。
人ではない。四肢を持つ姿は、人間のそれと同じだが、まるで怪談にでも現れるような姿は、わたしたちの生物図鑑の、どのページにも記載されてはいなかった。むしろ、それは魔物と呼ぶに相応しい。異形の姿は、邪悪で醜く恐ろしい生き物のそれと、酷似している。
わたしは恐怖に足がすくみ、たじろいだ。ところが、姉はゆっくりとその生き物に歩み寄る。畏れはあるのだろう、姉の細い体は小刻みに震えていた。
「危ないよ、お姉ちゃん」
というわたしの忠告も聞かず、姉はそっとその生き物に触れた。わたしは、思わず目を伏せた。その強靭な体躯が、その凶悪な爪が姉を引き裂くのではないかと思ったのだ。
しかし、しばらくして聞こえたのは、姉の悲鳴ではなかった。
「この子、震えてるわ」
姉は、鱗の肌をさすりながら言った。その手には、冷たい感触があったらしい。どうして、その生き物が怯えていると思ったのか。ただ、生き物を優しく撫でる姉の姿は、どこか自愛に満ちているような気がした。
「どこかへ、かくまってあげよう。こんな雨の下じゃ、可哀想よ」
突飛もない提案だった。勿論、わたしは猛反対した。こんなワケの分からない生き物をかくまうなんてごめんだ。捨てられた子犬を拾ってやるのとは、全然ちがう。いくら怯えているように見えたからと言って、その禍々しい生き物が、凶暴でないという保証は何処にもないのだ。
だけど、こんなとき姉は急に頑固になることを、わたしは知っていた。今更になって思う。もしかすると、姉は雨に濡れ小さくうずくまるポチに、イジメられる自分の姿を映していたのかもしれないと。
ともあれ、姉の主張はわたしの異議を全く受け付けず、わたしはやむなくポチをかくまってやれる場所を探すこととなってしまったのだ。
しかし、やはりポチは犬のような名前だが、犬ではない。家へ連れて帰れば、両親は肝を冷やすだろう。もしかしたら、卒倒してしまうかもしれない。とはいえ、人目に触れる屋外は、より危険が伴うだろう。
わたしが魔物だと思ったように、多くの人もやはりポチのことを魔物だと思うだろう。姉のように、優しく接してやる人間なんているはずがない。
「そうだ、廃工場。あそこなら、人も寄り付かないし、安全にポチをかくまうことが出来るわ」
と言い出したのは、姉だった。
確かに、街の美観を損ねると批判の的になっている、廃工場なら問題はないだろう。しかも、公園から近く、人目につく前に、ポチを廃工場に閉じ込める(、、、、、)ことが出来る。
こうしてわたしたちは、ポチを人目につかない廃工場の地下室で飼うことになった。
ポチの食事は、主に肉だが、野菜なども食べる。比較的西洋人に似た食生活だ。幸い、食料は簡単に手に入る。わたしたちの両親は、繁華街で中華料理店を営んでいる。料理に使った材料の一部は、いつも衛生面から廃棄される。それを少しばかりくすねればいい。足りない分は、お小遣いから出し合って買うことにした。
餌を持っていくのは、姉とわたしで交代制とした。奇数の日は姉が、偶数の日はわたしが、廃工場まで足を運ぶ。
餌を持っていくと、いつもポチは姉が与えたランプのそばで、小さくうずくまり、ぼんやりとランプの明かりを見つめていた。その真っ赤な瞳で。そして、わたしが来たのを知ると少し嬉しそうにするのだ。見た目以外は、まるで小さな子どものようだった。
ポチの口は大きく牙がのぞいているが、その口から言葉が発せられることはない。どうやら言葉を持たないらしい。低くくぐもった、唸り声はどちらかといえば、人の声よりも獣の声に近い。
ポチは臭い。観察してみると、どうやら鱗と鱗の隙間に汗腺のようなものがあり、そこから臭いが出ているようだった。
本当は何もかも厭だった。姉の手前、そんなことはいえなかったけれど、ポチの醜い姿も、ポチの鳴き声も、ポチの臭いも。いつ襲われるか分からない怯えを抱きながら、地下室の緑色のドアを開けるのが、ものすごく厭だった。
姉がいつまで、このポチを薄暗い地下室にかくまうつもりなのか。わたしはいい加減、ポチの世話に辟易とするようになっていた。
様子が変だと気がついたのは、ポチを飼い始めて二ヶ月あまりが過ぎた頃。様子が変なのは、ポチではなくて姉の方だった。
もともと、姉は寡黙だった。良く言えば、清楚で大人しい性格、悪く言えば無口で根暗そうに見えるタイプだった。それでも、わたしの前ではよく喋るし、よく笑う。それなのに、姉の口数が、めっきりと少なくなってしまった。時には、机に向かい何かを悩んでいるようだった。
「困ったことでもあるの? だったら相談して。力になれるかどうか分からないけど」
幾度となく姉には言ったのだけれど、姉はその度微笑んで、
「大丈夫よ。何も困ったことなんかないから。心配してくれてありがとう」
と、かわされてしまう。だけど、どう見たって姉の様子が変なのは一目瞭然だった。
真っ先に両親の耳に入れるのがすじというものだろう。だけど、わたしたち家族のために、忙しく中華料理屋を営む二人を困らせるわけにはいかない。せめて、姉が悩んでいる理由が分かるまでは。
わたしと姉はとても仲がよかった。忙しい両親に代わって、姉が母親代わりのように、わたしを可愛がってくれた。そんな聡明で大人びた姉の背中に、わたしは憧れた。
その姉が、何かで悩んでいる。その理由を知るのは意外と簡単だった。
姉は、放課後になるといつも音楽室へ行き、ピアノを弾く。ヒット曲以外の音楽にまるで疎いわたしには、姉の奏でる曲はよく分からなかった。ただ、姉の演奏力はなかなかのもので、音楽の先生が音大へ進まないかと、誘ったほどだった。
その日も、姉は夕陽が差し込む音楽室で独り、ピアノを奏でていた。だけど時折、和音が崩れ、演奏が止まる。その度訪れる静寂の中に、小さな嗚咽が聞こえた。姉が泣いていると分かった時、わたしは音楽室へ入る足を止めてしまった。かける言葉が見つからない。姉が涙を流す姿を見るのは、これが初めてというわけではなかった。だけど、その時の涙は悲しみに暮れ、辛さを噛み締める切ない涙だったのだ。
姉が何故独りで泣いていたのかは、直ぐに察しがついた。親しい先輩から、姉がイジメに遭っていると、告げられていたからだ。そして、その首謀者は姉の親友で、わたしも知る人物だった。
許せない。どんな理由があったとしても、大切な家族を泣かせるやつなんか、許せない。わたしは、音楽室の扉の前で、硬く拳を握った。言い知れぬ怒りが、胸を熱くする。それなのに、どうしていいのか分からなかった。
直接あの人に、イジメを辞めるように諭すべきか。それとも、姉のクラスへ殴りこみに行って、あの人をぶん殴ってやるべきか。でも、いずれにしても、今度はわたしが先輩達の袋叩きに会うかもしれない。
怒りの奥底に渦巻く恐怖。姉を護るために、自分を犠牲にすることなんて出来ない、情けないやつだ。結局、わたしは姉のために、何も出来ず、ただイジメを知っても呆然と静観する、傍観者でしかなかった。
そうして、姉は屋上から飛び降りた。終にわたしには一言も、相談することなく、すべて自分で決めて、自分で死を選んだのだ。
頭に包帯を巻かれ、静かに永遠の眠りに就く、姉の遺体を前に、わたしは復讐の方法を思いついた。それは遅すぎる閃きだった。せめて、一日でも早ければ、姉は死ななくても良かったかもしれない。
でも、自分の鈍重さを呪ってみても、わたしはエスパーじゃなから、時を戻すことは出来ない。ただ、せめて姉の弔いに、そして傍観者だったことへの罪滅ぼしに、わたしはあの人に復讐する。姉を責め、追い詰め、死を選ばせた、それと同じだけの苦痛と恐怖を与えて、あの人を殺すのだ。
その方法の鍵は、ポチだった。
ポチを飼いはじめてから季節が廻っても、ポチにはおおよそ凶暴性は見られなかった。あの日姉が言ったとおり、ポチは雨の中で震えていたのかも知れないとさえ思う。
だけど、その魔物以外の呼称が思いつかない姿で、ひと吠えするだけで、誰もが恐れ戦きみをすくめるだろう。そして、その凶悪な牙と爪で、両足を引き千切る。逃げ場を失ったあの人に、じわりじわりと恐怖を与えながら、殺すのだ。それが出来るのは、ポチを置いて他にはなかった。
無論、どんな理由があれども、人殺しは人殺し。リスクと咎がまとわりついてはなれない。でも、リスクに対しては対処方法がある。
人気のないこの廃工場へと、あの人を呼び出す。自分が自殺へ追い込んだ人間の妹からのメールなら、断るわけには行かないはずだ。そして、この場所であの人を殺す。そして、あの人の恐怖で歪んだ顔の遺体を見つけた人はこう思うだろう。
「スローターゲームの被害者か」
今、全国的に問題となっている事件、スローターゲームはインターネットでプレイヤーを募る、人殺しゲームだ。本当にそんなゲームがあるのか、そしてそれに参加する人はいるのかと、疑問視する声もあるが、間違いない事実はその被害者が、既に二桁とも言われていることだ。スローターゲームには、国の偉い人も頭を悩ませているが、一向に解決の糸口が見つからないらしい。わたし自身も、そんなゲームには懐疑的だが、ポチという現実から逸脱した魔物が、目の前にいる以上、それは本当なのかもしれない。
ゲームの存在が嘘でも真実でも、どちらにせよ、これを利用しない手はない。
スローターとは英語で「惨たらしい殺し方で人を殺すこと」であり、ポチに引き千切られたあの人の遺体は、まさにおあつらえ向きだ。そして噂では、スローターゲームは深夜に開催されているらしい。だから、これにあわせあの人を呼び出すのも、深夜にすることにした。
後は、道義的な問題。人殺しを罰する法律は、刑法という法律に記載されている。復讐を胸に誓っても、わたしはそれほど擦れた人間だと思っていない。人が人を殺してはならないという、当たり前の倫理くらい心得ているつもりだ。だからこそ、ポチを使う。
わたしがナイフを持って、あの人に迫れば、逡巡が生じるかもしれない。首尾よく殺した後、罪と良心の呵責に悩まされるかもしれない。だけど、ポチがあの人を殺せば、わたしは復讐を達成し、自分の心に言い訳もつく。
「統べては、ポチがやったこと」
卑怯だけど、わたしの心はイジメに耐えかねた姉よりも、脆くて弱いのかもしれない。
統べての準備と計画は整った。姉が死んで、一日でも長くあの人を生かしておく理由なんて見当たらない。もう、迷いなんかない。直ぐにでも、決行しあの人を殺さなくては。
わたしの爪先が、何か硬いものに触れた。携帯電話の微弱な光では、追いかけることは出来なかったが、湿った床にカラカラと転がる音で、それがポチのランプだと分かった。わたしは、ランプを拾い上げると、明かりを灯し、部屋をぐるりと見渡した。
廃棄されたダンボールの山、錆び付いた棚、いつもならその隙間にうずくまるポチの姿は、何処にも見当たらない。普段、地下室のドアに鍵はかけていない。施錠しようにも鍵はないし、鍵をかけなくても、ポチはこれまで一度も地下室を抜け出したことはなかった。
魔物の本性がついに現われたのだろうか。疑問はあるが、ポチがいなければ、わたしの復讐は完遂出来ないことだけは確かだ。
わたしはランプを床に置くと、急ぎ地下室を後にした。早くポチを連れ戻さなければ、色々と不味いことになる。復讐よりも以前に、あの醜い姿を衆目に晒すわけには行かないのだ。
廃工場から飛び出すと、既に陽は山並みへとその足をつけていた。何としても、日暮れまでにはポチを探し出さなければならない。しかし、迷子の犬を探すのとはワケが違う。わたしが、ポチの名を呼んでも、それに反応するかどうか分からないし、もしも、魔物の本性が現われたのだとすれば、街はパニックに陥るはずだ。
しかし、逆に考えれば、ポチが人の肉を求めて地下室から這い出たのであれば、病院からの道すがらわたしと出会わなかったポチは、ひとの多い繁華街か駅前に向かったと推測できるのだ。
工場から出たわたしは、来た道とは反対の、繁華街へと通じる道へと走った。あまり運動は得意じゃない。直ぐに息は上がったけれど、クズグズしていられなかった。アスファルトの道を叩きながら、駆け抜けること二十分、悲鳴は商店街がある、繁華街の入り口から聞こえてきた。
あんな魔物を手なづけるなんて無理だ。わたしは最初に反対した。やはり姉はわたしの苦言を聞き入れてはくれなかった。何故姉は、頑なにポチをかくまおうとしたのか、わたしにはよく分からなかった。
魔物とは、魔性を秘めた生き物だ。その赤い瞳の奥には、背筋も凍るほどの残虐性を持っている。確かに雨の中うずくまる姿は、姉に慈愛の心をもたらしたのかもしれない。しかし、わたしには、ポチがまともな生き物には到底見えなかった。
そして、その不安は見事に的中したのだ。まるで庇護者である姉の死を待っていたかのように、薄暗い地下室から抜け出し、人里を求めた。人の血を、人の肉を人の悲鳴を。こうなることは分かっていたのに、何故わたしはもっと強く姉を止めなかったのか。
もう、復讐どころではない。わたしは、間違っていた。魔物は何処まで行っても魔物。人を襲い、食らい、悲劇を生むだけだ。
「皆さん、早く避難して下さいっ」
絹を裂くような悲鳴の後、スピーカーフォンから男の人の、鬼気迫る声が聞こえた。街は阿鼻叫喚が往来し、逃げ惑う人々で、まるで地獄の様相を呈していた。通りには、サイレンと赤い回転灯がいくつも連なり、拳銃や警棒を手にした警察官が右往左往している。
化け物だ怪物だと叫ぶ人々の声の隙間で、発砲音が聞こえる。はじめて聞く乾いた音に続き、今度は魔物の悲鳴が聞こえた。獣の声でも人の声でもない。まるで地鳴りのような、あまりにも淀んだ声。
「君、危ないから、早く逃げるんだっ」
とっさに商店街のアーケードをくぐろうとしたわたしを、警察官の太い腕が止める。何があったのか、聞くまでもない。街でポチが暴れているんだ。
わたしは、警察官の腕を無理矢理振り解くと、身をかがめ商店街の中へと走った。「言っちゃダメだ」とわたしを制止する声など耳に入らない。
ポチが暴れだしたのは、わたしと姉の責任だ。もう、この世にいない姉に代わり、わたしがその責任を果たさなければならない。あんな魔物をこの世に放ったことの責任を。
ひたすらにポチの声がするほうへと、アーケードを駆け抜ける。逃げる人に逆らって、アーケードを抜ければ、駅前のロータリーだ。そして、そこにポチはいた。
大勢の警官隊に囲まれる様は、テロリストか銀行強盗のようだ。だが、その中心にいるのは、人ではなく、魔物のポチだった。ポチは、既に銃弾を受け、体中が傷だらけだった。その傷からは、血が流れ出している。ぽたりぽたりと滲みだす血の色は、わたしたちと同じ色だった。
再び、警官たちの銃口が火を吹く。爆竹のような破裂音と硝煙の香りがした刹那、弾丸がポチの足、腕、胸を抉った。
その時、わたしは気付いた。ポチの鬼灯のような瞳から、涙がこぼれ落ちていることに。ポチが泣き叫ぶと、警官隊は一歩後ずさり、カーボンの盾を構える。どこかの映画で見たような光景だった。
だけど、一つだけ違う。ポチは本当に泣いているのだ。鱗を割り、皮膚を抉る熱を帯びた弾丸は、ポチに痛みと苦しみを与えていた。
もうやめてよ、いたいよ。ぼく、なにもわるいことしてないよ。さびしかったんだ。おねえちゃんがいなくなって、とてもさびしかったんだ。
あの雨の日、ポチが寂しく震えているように見えた姉と同じように、わたしにはポチがそんな風に泣いているように見えた。
ポチをかくまった姉は、何も間違っていなかった。間違っていたのは、わたしの方だった。ポチの醜い姿だけで、ポチを恐ろしい魔物だと決め付けていた。だけど、ポチはそんな野蛮で凶暴な生き物なんかじゃない。
現に、この場にポチ以外に血を流しているものなんか、何処にもいない。だけど、魔物を前にした人々の中に、それに気付く人もいなかった。
「一斉射用意っ」の掛け声にあわせ、警官隊は拳銃を構える。撃鉄を起こし、その照準をポチへと向けた。
わたしは何かに背中を押されるように走り出した。盾を、警官隊を押しのけて、必死にポチの元へと向かう。
「ポチっ」
わたしがその名を呼ぶと、ポチもわたしに気が付いた。まるで迷子の子どもがやっと家族に再会できた時のように、牙と棘の生えた口許が小さく微笑んだように見える。だけど、その笑顔が断末魔の悲鳴と供に歪む瞬間、ポチに向かって放たれた銃弾は、わたしのお腹も打ち抜いていた。
制服がみるみるうちに、黒ずんでいく。それと同時に、わたしの両足からちからが抜けていった。そして、地面へと崩れ落ちた。
お腹から全身へ、痛みが走る。わたしは、心のどこかで死ぬことを自覚していたのかもしれない。血の噴出すお腹を押さえようともせずに、必死にポチに手を伸ばした。
ポチも全身に銃弾を受け、斃れ込むと、わたしに向かって長い爪を伸ばしてきた。
ごめんなさい。
涙を流すポチの顔が、そんな風に言っていた。わたしはそっとその爪を握った。
「違うよ、ポチが悪いんじゃない。わたしが、間違ってた。これは、罰なんだ。ポチを復讐の道具に使おうとした、わたしが悪かったんだ」
わたしの言葉が、ポチに通じたかどうか分からなかった。ただ。ポチは口をすぼめると、まるで狼の遠吠えのように、叫び声を挙げた。悲しみと怒りを吐き出すように。
やがて、最後の砲火が唸り声を上げる。銃弾が、優しい魔物の最後の命を絶った。真っ赤だった瞳が、真っ黒に光を失っていく。
その様を見つめながら、わたしもそっと瞳を閉じ、眠りに就いた。
姉とポチのいる天国へ行くために。
ご意見・ご感想などございましたら、お寄せ下さい。