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第八話 天国よいとこ、一度はおいで

交通安全祈願。紫色の五角形をした包みに、白い紐。何処にでもある交通安全の御守が二つ、わたしの手に握られている。何処の神社に行っても売られている五百円の御守に、祈願されまくりだ。

もう少し早く、この御守を手にしていたなら、こんな薬の臭いしかしない固いベッドの上に横たわってなどいなかっただろう。もっとも、御守に御利益があれば、の話だけど。

御守をくれたのは、小学校からの親友、木野芽衣だ。入院生活数日目にして、退屈に辟易していたわたしのところへ、学校をサボってわざわざ見舞いに来てくれた。

芽衣は「おー、ホントに生きてる」「学校ずる休み出来るなんて、怪我の功名だね」などと、失礼なことをひとしきり言って、わたしをからかった挙句、プレゼントに渡されたのが、この五百円御守なのだ。

「大事にするね」わたしが心にもない謝辞を述べると、芽衣は笑いながら病室を出て行った。しかし、その数分後、再び芽衣は病室のドアをノックしたのだ。

「やっほー、元気?」

 笑顔の芽衣が、さも今来たような口ぶりで言う。芽衣が悪戯好きなのは、今に始まったことじゃない。十年来の付き合いで、何度も煮え湯を飲まされてきたが、芽衣の意地悪は、以外にあっさりとしていて、腹が立たないのだ。

 何の冗談かと、問い詰めると芽衣は青い顔した。思わずきょとんとしてしまうわたしを他所に、彼女は鞄から御守を取り出した。

「これ、お見舞いのプレゼントっ。交通安全御守。とても御利益があるそうだから、大事に使ってね」

 と言って、わたしにくれたのは、とてもご利益のなさそうな、五百円御守。さっき芽衣がくれたのと全く同じヤツだ。こうしてわたしの手元に、全く同じ人から、全く同じ御守を手渡されたのだ。悪戯にも程がある、と思うのだが、病室を立ち去る芽衣の横顔は、ひどくこわばっていた。あれは、悪戯の顔じゃない。

一体何がどうなっているのか。まるで狐につままれたようだった。

 不思議なことなんて、世の中ゴロゴロ転がっていて、ちょっと横道にそれただけで、わたしたちは不思議なことに遭遇する。それは、わたし自身が身をもって体験したことで、もうどんなことがあっても、あれ以上不思議なことなんてないと、確信していたのに。もう、驚かない自信があったのに、わたしは二つの御守を見つめながら思う。

 やっぱり、世の中不思議なことだらけ。


 事故はわたしが一方的に悪い。通学に使っている自転車のブレーキは、二ヶ月前から調子が悪く、修理に出さなければならないことは分かっていた。なのに、修理屋へ持って行くのがひどく億劫で、放っておいたのが悪かったのだ。

 夕方、部活で帰りが遅くなったわたしは、バイトに遅刻しそうで慌てていた。いつもなら、ゆっくりと下る学校の坂道を、勢いよく飛ばす。ブレーキが動作しないことに気付いたのは、もうずいぶん加速した後だった。

蛇行した坂道は、両端に延々と植えられた桜並木で視界が悪く、坂道を降りきったところで、往来を走る路線バスに、ブレーキの利かない自転車ごと、わたしは跳ね飛ばされた。

 アスファルトに強く頭を打ちつけた瞬間、目の前に火花が散り、わたしは死を悟った。意外にも目の前に迫る死に、恐怖はなく、ただ平然とその刻限を待っている。そんなわたしの目に、「徐行! スピード違反は大事故」という学校が立てかけた看板が見えた。いつもは、風景と同化して、気にも留めない看板が、こんな時だけ、存在を主張するけれど、もう手遅れですよ、看板さん。

 急ブレーキで止まったバスの扉が開き、運転手さんが降りてきた。真っ青な顔をして、まるでこの世の終わりだと言わんばかりの、情けない顔でわたしの肩を揺さぶる。

「君、しっかりするんだっ」

 いやあ、申し訳ない。わたしの怠慢で、運転手さんの人生にドロを塗ってしまったね。ホントにごめんなさい。

「誰か救急車を呼んでくださいっ!!」

 運転手さんの悲痛な悲鳴を受け取った、乗客がいっせいに鞄から携帯電話を取り出し、一一九番をプッシュする。でも、もう間に合わない。わたしの頭からはどろどろと血があふれ出しているし、右腕は変な方向に曲がってる。

 ああ、そう言えば、家の戸棚の奥に、とっておいたお菓子があったな。二日前、お母さんが婦人会の集まりでもらってきた、高級洋菓子だ。東京で有名なお店の商品で、滅多なことじゃ口に出来ない代物らしい。今日バイトが終わったら食べようと、こっそり隠しておいたのだ。せめて死ぬのなら最後に、あれを食べて死にたかったなあ。他には、思い残すことはないけれど、それだけが心残りだ。

次第に薄れていく意識の中で、思うのがお菓子のことじゃ、あまりにも貧相な気がした。だけど、死は待ってはくれない。やがて、目の前が暗転すると、全身の力という力が、空へ吸い上げられるように抜けていった。

これが死ぬと言うことなんだ。意外に痛くもないし、苦しくもない。とても静かで、安らかだった。これから何処へ行くのだろう、と思った矢先、暗転した世界に一粒の光が見えた。光の粒はどんどん大きくなって、眩しいくらいに輝きわたしを包み込む。

もしかして、あれが天国? 噂の極楽ってヤツですか? 

「いいえ、天国じゃないですよ」

 子どものような声。男の子とも女の子とも似つかない、中性的で澄み切った声が、わたしの鼓膜を振るわせた。わたしは、驚いて眼を開く。

 真っ白な空間。一点のにごりもなく、何処までも白一色。却って目が痛くなるようなその空間の中に、制服姿のわたしは立っていた。

「ようこそ、あの世のゲートへ」

 目の前に子犬ほどの大きさの、男の子が飛んでいた。白い服の背中から生えた、小さな翼をばたつかせ、航空力学を無視して飛んでいた。

「もしかして、天使?」

 わたしの問いに、男の子はニッコリ笑って頷く。

「はい、人間の皆さんはボクのことをそう呼びますね。それにしても、あなたは、驚かないんですね」

「驚くって、何に?」

 わたしがきょとんとして尋ね返すと、天使くんはくりくりした丸い目をぱちくりさせた。

「何にって、天使のボクとか、この真っ白な世界にです」

「いやあ、わたし死んだんでしょ。大体想像したとおりのあの世だし、天使のあんたも想像通りだから、驚きようがないよ」

 平然と答えるわたしに、天使くんは頬を膨らませ「つまんない」と言った。

「ボクたち天使は、亡くなられた人々が、ここに来て驚く姿を見るのが大好きなんです」

「へー、わあ、おどろいた」

 棒読みで言ってあげると、天使くんはますます頬を膨らませる。その姿がなんだか赤ちゃんの甥っ子に似ていて可愛らしい。

「もー、からかわないで下さいっ。それより仕事をさせてくださいっ」

 天使くんが咳払いをする。どうやらお仕事モードに切り替えたらしい。きりりとした顔でわたしに説明する。

「えー、まず長い人生お疲れ様でした。本日あなたは、お亡くなりになられ、こうしてあの世に来られましたことを、お伝えいたします。えー、あちらに見えますのが、あの世のゲートです」

 そう言って、天使くんが指差す。白い空間の丁度上から下へ、かすかに切れ目が見える。

「お亡くなりになられた方は、あちらで審査を受けていただきます。生前の行いによって、天国へ行きか地獄へ行きかを聴取しますので、審査員には嘘のないよう申告ください」

「へー、閻魔大王様がいるのか」

 閻魔大王ってどんなヤツだろう。漫画で見るような、中国の皇帝みたいな格好をしているのだろうか。嘘をついたら、舌を引っこ抜かれるのだろうか。ちょっと楽しみだ。

「変な想像しているようですが、ゲートでの審査の後についてですが、それはどちらに行かれても、そちらの担当の者から説明がありますので、そちらの方をよく聞いてください」

「簡単なのね」

「ええ、まあ。普通は、死を受け入れられない人や、泣き出しちゃう人が多くて、説得するのが大変なんです。中には、ゲートへは行かずに、そのまま下界へ帰ると仰っる方もいます」

「そのまま下界に帰るとどうなるの?」

 わたしが尋ねると、天使くんは両手を胸の前で垂らす。それが何を意味するのかすぐに分かった。

「なるほど、お化けになるのか、それは怖いねえ」

「ええ、ですから、あなたのようにすんなりと受け入れていただける方は、楽でいいですよ」

 どうやら、天使の仕事も楽じゃないようだ。

「ささ、こんなところで長話していても仕方がないです。さっさとゲートへ行ってください」

「あれ、君は一緒に来てくれないの?」

「ボクの仕事は、ここで亡くなられた方に、死んだことを説明をするのが役目です。だから、ゲートへは一人で行ってください。道に迷うことはないでしょう?」

 そう言うと、天使くんはわたしを急かした。確かに、ゲートまでは何もない真っ白な空間だ。わたしは仕方なく、ゲートと呼ばれる空間の切れ目へ向かって歩き始めた。天使くんは最後に、親指を立てて「グッドラック」と言ったけれど、死んだ時点で幸運もないような気がした。

 空間の地面は固いようで柔らかい。フワフワしているようでごつごつしている。脚を取られるわけでもないのに歩きづらい。本当に不思議な感覚だった。

真っ白な地平をどのくらい歩いただろうか。天使くんのいた場所からゲートまではやたら遠く、やっとの思いでたどり着いた時はじめて、空間を縦に裂いた切れ目のように見えていたゲートが、本当は巨人サイズの扉であることに気付いた。

白く輝く巨大な扉、むしろお城の門を思わせるゲートの下に誰かがいる。さっきの天使くんのようなヤツかな、と思いながら近付くと、そこにいたのは何処からどう見ても、冴えない中年のおじさんだった。ただ、やはり背中に小さな羽根が生えている。

おじさんは何処にでもあるような事務机に座り、わたしを手招きした。

「どうぞ、椅子に腰掛けてください」

 おじさんと向かい合うように置かれた、背もたれのない丸椅子に腰掛ける。

「えー、この度は長い人生お疲れ様でした。つきましては、この先あなたが地獄へ行くか、天国へ行くかの審査をさせていただきます。えー、資料によりますと、現在十六歳。不慮の事故で他界されたようですね」

 おじさんはバインダーにはせられた紙を捲りながら、わたしに尋ねた。わたしは、無言で頷く。正直言えば、どんなことを質問されるのか、少しだけ緊張していた。ところが、

「えー、あなたは天国行きです」

 あっけない幕切れだ。天使くんが「審査」などと言うから、根掘り葉掘り人生について問い質されるのだと思っていたのに。

「そんなに簡単でいいんですか? っていうか、あなた閻魔大王様ですよね?」

「はい、そのように呼ぶ方もいらっしゃいます。でも、地獄へ送るのは簡単じゃないんですよ。人を殺したとか、他人を騙して得をしたとか、下界での相当な罪が必要なのですよ。それとも、あなたは地獄へ行きたいですか? ご希望とあれば、伺いますが、あそこすごく厳しいですよ」

 厳しいですよ、の部分だけやたら強調して言うおじさんに、わたしは全力で頭を左右に振った。

「行きたくないですよね。では、天国について少しだけ説明させていただきます。天国では、あなたが次の命に生まれ変わるまで、自由に過ごしていただいて構いません。その期間は、本日から、あなたが本来寿命でこの世を去るはずだった日までとなっています。天国では、容姿、年齢、性別、名前、あらゆるものを自由に設定できます。後で天国区役所の方へ行かれてもいいのですが、ここで、その申請も受け付けていますどうなさいますか?」

「テレビゲームみたいですね。ホントに自由に決めてもいいんですか?」

「はい、お気に召されなければ、元の姿に戻ることも出来ますよ」

 どうしよう。ちょっと面白そうだけど、大人になった自分も、男の子になった自分も、あまり見たいものじゃない。今の姿に愛着があるわけではないが、全く別の姿になるのも少しだけ、未練がある。

「いいです、姿も名前もこのままで」

「皆さんそう仰います。でも、すぐに姿を変えたくなると思いますよ。えー、天国では、一定の規則にしたがって、特定の居住区にて過ごしていただくことになります。早い話が、法律と住所と言うことです。もっとも、下界の法律のようにややこしくはありません。悪いことをしたら、ゴー・トゥー・ヘル(地獄へいってらっしゃい)になるだけです。天国での具体的な生活の説明は、そちらの担当にお尋ねください。色々と相談にも乗ってもらえるはずですから」

 また別の担当者か、何だかたらいまわしがお家芸の、役所みたいだな。などと思っていると、おじさんは咳払いを一つして、机の隅に置いてあった、ベルを鳴らす。突然地鳴りのような音がする。おじさんの背後にそびえる巨大な門、ゲートが開いたのだ。

「それじゃ、いい天国ライフを送ってくださいね。グッドラック」

 おじさんは、ニッコリと笑い親指を立てた。


 天国のイメージは、光の溢れる雲の上の世界で、天使が空を舞い、綺麗な花畑と果物がなる森があり、滾々と湧き出る泉がある場所。漠然とそんなことを考えていた。だから、ゲートをくぐった先にあるのは、そういう世界だと思っていた。何故なら、天国を実際に見るためには、こうして死ぬしかないのだから。

「長い人生お疲れ様でした。ようこそ、天国へっ」

 ゲートを通ったわたしの目の前に、天使が現れる。今度の天使は、小さな女の子の姿をしていた。やはり、背中からは白い翼が生えている。

「わたしは、天使のマリ。あなたの案内役を仰せつかった者です。よろしくお願いします」

 マリは、顔いっぱいに笑顔をたたえて自己紹介する。だけど、わたしはそれどころではなかった。胸の奥がモヤモヤして、頭が熱くなってくる。苛立ちと驚きの混ざったものだ。

「インチキだ」

「はい? どうなされましたか?」

「インチキだこんなのっ。どこが天国だ、こんなの天国じゃないよっ」

 わたしは、天国を指差しながら怒鳴った。わたしの指先にあるもの、それは騒がしい雑踏と、モルタル造りの汚いビルが立ち並び、胡散臭い看板がピカピカしている場所だった。どう見ても、天国と言うよりは香港の雑居ビル街と言った方が正しい。

「えっと、皆さん必ずそう仰いますね」マリは困ったような顔をして言った。「でも、ここは天国なんですよ。皆さんが住みやすいように、環境を整備していったら、このようになった訳です。でも、郊外へ行けば、もっと静かな野原もありますよ」

 どの辺りの環境を整備すれば、こんな香港紛いの天国が出来るのだろう。何だか頭が痛くなってきた。死んでいるはずなのに。

「住めば都と申します。きっと慣れれば、楽しい場所だと分かりますよ。それより、町を案内しましょうか? それとも役所へ行って住所登録しますか?」

「どっちでもいい」

 わたしは、半ば投げやりに言った。

「じゃあ、寄り道しながら役所へ行きましょう。なんせ、時間は沢山あるんですから」

 マリは、うな垂れるわたしの背中を叩いた。天国のイメージは総崩れだ。期待をしていたわけではないが、これでは生きていたときとあまり変わらないのではないか、と思う。現に、死んだと言う実感が湧かない。道行く誰もが、もうすでにこの世にはいない死者だといわれても、その姿も格好も、何の変哲もない人間なのだ。

「ここでは、皆さん新たに生まれ変わるまでの間、天国での生活を満喫されています」

 歩道を歩きながら、マリが言う。

「ここでの生活は基本的に自由です。犯罪も病気もお金さえありません。ただし、倫理は守ってください。そうしないと地獄へ行ってもらうことになります。もう既に今年は、百名近い地獄行きの方が出ていますから」

「倫理? 例えばどういうの」

「それは、あなたが悪いことだと思うことをやらずに、正しいと思うことをすればいいんです。もしも、あなたがあなたの戒律を破れば、直ぐに監察の人があなたを地獄へ叩き落しますので、注意してくださいね」

 マリは堅苦しく考えるな、と付け加えたけれど、自分でルールを作って、それに従えとは、またひどく曖昧な法律だと思った。

 ゲートの前は丁度駅前のロータリーのような場所で、そこからしばらく歩けば、繁華街らしき街並みが広がっていた。お店のような建物が軒を連ね、通りをはさんで向かいのビルに横断幕よろしく、様々な看板が架けられていた。しかし、その文字は仮名ともアルファベットとも似つかない、不思議な文字だ。

「あれは、天国文字です。あとで役所へ行くと、翻訳機がもらえます。そうしたらあなたにも何が書いてあるのか分かると思いますよ。そうだ、あのお店へ入ってみましょう」

 マリはそう言うと、露店のお店を指差した。丁度東南アジアの市場のようだ。「何? 変なお店じゃないでしょうね?」と言うわたしの言葉を無視して、マリはお店に近づいていく。

「いらっしゃい」

 本当に東南アジアのオバサンのような店主が、無愛想に挨拶する。

「ジュース、二人分下さいな」

 マリの注文を受け取ったオバサンは、これまた無愛想に返事をすると、店先にいくつも並べられた、透明のタンクから、虹色に光る液体らしきものをコップに注いだ。マリはそれを受け取ると、一つをわたしに手渡す。

「この人、無愛想だけど、ジュースの味は天国一何ですよ、飲んでみてください」

「でも、わたしお金持ってないよ」

「大丈夫です。さっきも言いましたが、天国に通貨はありません。だから余計な心配しなくていいんですよ。ささ、飲んでみてっ」

 わたしは、マリに勧められるままジュースに口をつけた。不思議な味がした。これが美味しいのかどうかはよく分からないけれど、確実に下界では味わえないジュースだ。ちなみに、店先には、虹色に光る液体の他に、真っ黒な液体、マリンブルーの液体などが置かれていたが、それらは大人向けだと、マリは説明してくれた。

 露店を離れると、再びマリの案内が始まる。

「もしも、天国での生活が退屈だと感じたら、あなたも何かお仕事をするといいですよ。あのおばさんもそうですから。役所に申請して許可が下りれば、好きな仕事に就けます。例えばお店を開いたり、わたしのように天使の仕事をするのも面白いかもしれませんね。」

「仕事って、ボランティアみたいなもの?」

「そうですね。報酬はありません。でも、仕事よりも先に、ここでの生活になれたほうがいいかもしれませんね」

「すぐ慣れちゃいそうだよ」

「そうですか、それは良かった。そうだ、今度はあっちのお店に入って見ましょうか」

 再びマリが指差したのは、露店ではなく大きなビルの入り口だった。きらびやかな看板には、やはり天国の文字が書かれ、何が書いてあるのかよく分からないけれど、ドアの手前に飾られた色とりどりのポスターは、下界でも見たことのある光景だった。

「ここって、映画館?」

「はい、そうです。その名も走馬灯映画館です」

 答えるマリの笑顔と正反対に、何だか厭なネーミングの映画館だ。わたしが入るのを躊躇していると、マリは小さな手でわたしの背を押した。

「まあまあ、面白いですから入って見ましょう」

 半ば強引に映画館の中に連れ込まれる。館内は思ったよりも普通だった。階段状の客席と、白いスクリーン。お客さんも少なく、わたしたちは一番の特等席に腰掛けた。

「走馬灯って、死ぬ時に見るものじゃないの?」

「一般的にはそうです。でも、ここでは生前を懐かしむために、走馬灯をわざわざ上映しているんですよ。ほら、始まります」

 ブーッとけたたましいサイレンとともに、館内の灯が切れ、スクリーンだけが眩しく光り始める。そんなところまで、下界の映画館と変わりない。ところが、スクリーンに映し出されたのはとんでもない映像だった。

「三歳の誕生日。お父さんが買ってきてくれたケーキが、壊れてて大泣きする」

「六歳。幼稚園の卒園式、緊張しすぎて声裏返る」

「七歳。両親に連れて行ってもらった遊園地で、兄妹迷子になる」

「八歳。小学校の運動会でリレーのアンカーに選ばれるも、転倒してビリになる」

 ホームビデオのような映像とともに映し出されるそれは、わたしの失敗談ばかりだった。館内のお客さんから次々と笑いが聞こえてくる。

「ちょっ、ちょっと。何これ、わたしのプライバシーだだ漏れじゃんっ!!」

 わたしが顔を真っ赤にして怒鳴ると、マリは小さく笑いながら言った。

「ええ、だって走馬灯映画館ですもの。ここでは、いろんな人の過去の出来事を上映してるんですよ。面白いでしょ?」

「面白くないっ。走馬灯っていうより、消したい過去だよ。まったくもーっ、プライバシー侵害」

 わたしはマリの腕をつかむと無理矢理映画館の外へ飛び出した。恥ずかしいやら腹立たしいやら、頭に血が上りっぱなしだった。

「ああ、これからがいいところだったのに」

 残念そうにマリが言う。いいところなんかひとつもない。わたしの人生なんて、人に見せられるほど素敵なことなんて、一度もなかったのだから。

「閻魔様が、すぐに姿が変えたくなるって言ってた意味がやっと分かった」

 こんな恥ずかしい映画が公開されてるんじゃ、今のままの姿で天国を歩けやしない。

「みんな、生まれ変わってしまえば、過去の自分とは別の存在になるんです。その人が歩んだ記憶も人生も全部なかったことになる。だから、あのように、生前の姿を映しているんです。本当は、みんな死んで悲しいんです」

「だけど、あれはひどいっ」

「もしも、どうしても厭だったら、役所の方へ申請すれば、上映禁止にしてもらえますよ」

「そうなの? じゃあ、早く役所へ案内して。上映を差し止めてもらうから」

「分かりました。では役所の方へ行きましょうか」

 マリはニッコリと笑うと、街角を歩き始めた。

 やがて、ごみごみとした香港を抜け、芝生の茂る公園のような場所にたどり着く。何処からともなく聞こえてくる小鳥の鳴き声に耳を澄ませ、芝生に寝転がる人、ベンチに腰掛けて本を読む人、ボール遊びをする人。何処にでもある公園の風景が広がっていた。とてものどかで、のんびりとした時間が流れている。せかせかして、眉間にシワを寄せている下界とは大違いだ。誰もが笑っているし、楽しそうだった。

「ここは、とても綺麗な公園だね」

「はい。郊外に行けばもっと綺麗な野原や森がありますよ。あれ、どうしました?」

 マリは、わたしが肩を震わせて笑っているのを見て、不思議そうに小首をかしげた。

「いやあ、天国って想像してたのとずいぶん違う、変なところだけど。結構いいものだね。なんだか、面白くなってきた気がするよ」

「そうですか、気に入っていただけましたか」

 マリはそういいながら、公園の遊歩道を歩いていく。すると、行く手に紫色の幌をかけた大きなテントが見えてくる。公園の真ん中に建つそれは、サーカス小屋か占い小屋のような佇まいだ。

「あれは、何? ものすごく公園と違和感があるんだけど」

「あのテントは、鏡の館です。行ってみますか?」

「またおかしな映画館じゃないでしょうね」

 わたしが紫のテントを睨みつけながら怪訝な顔をすると、マリは笑いながら「違いますよ。行って見る価値はあると思いますよ」と、言った。

 テントの入り口は小さく、マリを先頭に真っ暗な鏡の館に入る。すると、暗がりの中にいくつもの姿見が並べられていた。少しだけ不気味な気がするここは、一体何なのだろう。

「お好きな鏡の前に立ってみてください」と、マリに言われ、わたしは沢山の姿見の中から、一番地味な鏡を選び、その前に立った。しばらくすると、鏡面がうねりはじめる。そして、不気味さに拍車がかかったところで、鏡は一つの像を結んだ。

 真っ白な部屋。部屋の中央にはいくつのチューブにつながれた女の子が、ベッドに横たわっていた。

あれは……、あれはわたしだ。そして、この鏡に映っているのは下界の病院だ。

「ここは、あの世とこの世を結ぶ場所です。いま、下界で起こっていることを映しているんですよ。でも、この鏡はただの映写機で、鏡の向こうへ行くことは出来ません」

 そう言うと、マリは鏡の隅についた赤いダイアルを少しひねった。すると、鏡面が再び歪む。そして、次に現われたのは病院の廊下、「ICU(集中治療室)」と書かれた部屋の前だった。そこには、お父さんとお母さん、それに大学に行ったお兄ちゃんの姿があった。

「申し訳ありません。手は尽くしたのですが、娘さんの意識は取り戻せませんでした」

 両親と兄に向かって、白衣のお医者さんが頭を下げる。それを聞いたお母さんは、まるで雄叫びのような悲鳴をあげて、泣き崩れた。お母さんを支えるお父さんの肩も、小さく震えている。

「先生、妹はもう目を覚まさないんですか?」

 お兄ちゃんが、先生につかみかかる様に尋ねたけれど、先生は黙って首を横に振るだけだった。

「お願いです、何とかしてください。あの子は、とてもいい子なんです。わたしたちの大切な子どもなんです。十六年の人生じゃ、あまりにも短すぎる。私の命を捧げてもいい、あの子を助けてやってください」

 お父さんが先生の前で土下座をする。やめてよ、そんな安っぽい家族ドラマみたいなこと。めちゃくちゃ恥ずかしいじゃない。

わたしは、ちゃんと天国にいるよ。変な天使にもあったし、おじさん閻魔様にも会ったよ。天国って変なトコだけど面白いよ。でも、何でだろう。涙がこぼれてきた。いっぱい涙がこぼれてきた。十六歳にもなって、みっともないくらい涙がこぼれてきた。

普段煩わしいとさえ思っていた家族が、必死になって泣きすがる姿は、わたしの胸を締め付ける。

「ごめんね、お父さんお母さんお兄ちゃん。わたし、親不孝ものだ」

 鏡の前に立ってはじめて分かった。ここにいるということは、わたしは人生に幕を降ろしたのだ。もう二度と、お父さんと笑うことも、お母さんに叱られることもない。十六年なんて、あっという間で、まだまだやりたいこと、見たいもの、食べたいものが沢山あったのに、もうそれは叶わない夢となったのだ。そして、死ぬことがどれだけ寂しくて悲しいことなのか、ようやく悟った。

「わたし、死にたくない。もっと生きたい。皆と一緒に泣いたり笑ったりしたい。友達と馬鹿やったり、お父さんに怒られたり、もっともっと人生を歩みたい」

わたしはとめどなく流れる涙を拭うことも出来ず、その場にしゃがみ込んだ。どんなに願っても、わたしはバスにぶつかって死んだのだ。そして、こうしてあの世にいる。

「やっと、その言葉が聞けました」

 マリが優しくわたしの頭を撫でた。すると、暗闇のテントから光があふれ出す。眩いばかりの光にわたしは目を塞いだ。やがて光はすべてを包み込み、わたしを見慣れた風景の中に送り込んだ。

 真っ白な世界。平らな地平も、広がる空もすべてが、目の痛くなるほどの白。そこは、わたしが最初にやって来たあの世の入り口だった。

「人間誰しもが、なかなか死を受け入れることが出来ません」

わたしの頭に手を置くマリの姿は、いつの間にかあの天使くんの姿に代わっていた。

「死とは、とても悲しく辛いものです。天国では、誰もがその孤独を胸に、ただひたすら生まれ変わるときを待たなくてはなりません。時には、それに耐えられなくなって、下界へ戻り浮遊霊となられる方もいます。だから、あらかじめこうして、死を受け入れていただく時間を設けているのです。それが、ボクの仕事です」

「じゃあ、さっきまでの天国は幻だったの? もしかして、あの閻魔様も、マリって子も君だったの?」

「はい、そうです。これから、あなたには本当の天国へ行ってもらいます。これは、そのデモンストレーションのようなものです」

「ちょ、ちょっと待って! わたし行きたくない。わたし知らなかった。お父さんやお母さんがあんなにわたしのことを大事に思ってくれてるなんて。なのに、天国も結構いい所なんて前言、撤回します。」

 わたしは慌てて立ち上がると、天使くんに向かって叫んだ。

「ちゃんと、死を受け入れてくれたんですね、良かった。実は、幸いあなたの体は骨折程度で、無事です。ほとんど無傷といっても、過言ではないでしょう。まだ今なら、下界へ帰ることも出来ますよ?」

「帰りたい。家族のところへ、皆がいるところへ帰りたい。お願いしますっ」

 わたしが深々と頭を下げると、天使くんはしばらく無言のまま、わたしを見つめていた。そして、マリのようにニッコリと笑った。

「良かった、あなたならそう言うと思っていました。時には自ら命を絶ってここへ来る人もいます。そういう方は最初から死を受け入れていて、生き返ることが出来ると伝えても、頑なに天国へ行こうとするんです。でも、生きていること。それは、辛くて苦しいものかもしれませんが、無限の可能性と未来を持った素敵なことだと思います。そして、生き返ることが出来ることは、稀でとても幸せなことだと、あなたにも分かって欲しかったんです」

 天使くんはそう言うと、わたしの背後を指差した。いつの間にか、わたしの後ろに、長い下り階段が現われていた。

「これを降りていけば、あなたの魂はあなたの体に帰ります」

わたしは踵を返すと、延々と続く白い階段を見下ろした。これを駆け下りれば、皆のところへ帰ることが出来る。

「天国もいいところでしょう? でも、今度来る時はきちんと、天寿をまっとうしてから来てくださいね。それじゃ、グッドラック」

 わたしをゲートへ送り出した時と同じように、天使くんは親指を立てて言った。

 長い階段をおりきったわたしは、病院のベッドで目を覚ます。そうしたら、まず最初にお父さんたちに謝ろう。心配させてごめんなさいって。それから、この不思議な出来事を話そう。きっとみんな笑うかもしれない。でも、少しおかしなところだったけれど、天国へ行くことでわたしははじめて、生きていることの大切さを知ったような気がする。

 そうして、ちゃんと人生を噛み締めながら、生きていこう。やがてお婆ちゃんになって、もう一度天国の扉を叩く時、今度はあの天使くんの前で、驚くフリをしてやろう。

 わたしは、そんなことを思いながら、天国の階段を、一段ずつ足早に降りていった。


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