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第七話 二重を歩く者

「院内で、携帯電話は使わないで下さいって、何度も言ったでしょう?」

 紺色のカーディガンを羽織った、如何にも看護師といった風体の人に、いきなり怒られた。鋭く睨みつける眼光は、わたしを蛇に睨まれた蛙にさせる。わたしは、慌ててポケットに携帯電話をしまいこみ、空笑いをしてその場を誤魔化した。

 病院内で、携帯電話を使うと、医療機器が誤動作をすることがあるらしい。もっとも、そんなヤワな機械で診察しているのだと思うと、少しだけ不安になる。本当に、検査結果は正しいのだろうかなどと、いらぬ心配だ。

「今度見つけたら、出て行ってもらいますからねっ」

 看護師は、ひどく苛ついたように、鼻息荒く足音を立ててロビーを通り過ぎていった。やがて、彼女の姿が見えなくなると、わたしは再びポケットから携帯電話を取り出した。

わたしは怒られた腹いせに、ちょっと意地悪なメールでお返しすることにした。わざわざハートマークまで添付して。

「りょーかい、この不良娘。今度何かおごれ」

送信が終わると、妙に顔がにやけてくる。悪戯に成功した子どもの様な気持ちだ。

残念だね、東谷夏()()。わたしは今、病院にいるんだ。代返のことは諦めてくれたまえ。そもそも、こんな時にメールを送信してくるヤツが悪い。しかも、学校サボるから、代返しておいてくれなどと、都合のいいことを言いやがって。

しかし、真面目な夏帆が学校をサボるなんて、めったにないことだ。もしかすると、何かあったのかもしれない。彼女の家庭は少し事情が込み合っていると、聞いたことがある。もしかするとそれに関係があるのだろうか。だとすれば、少し悪いことをしたかも、と思いながら、わたしは携帯電話を閉じ周囲を見渡す。

午前中だというのに、国立病院は患者や見舞い客でまるで、雑踏のようだった。丁度、わたしは受付を済ませて、順番を待っていたのだが、この分だとまだまだ時間がかかりそうだ。

溜息をつきながらわたしは鞄から、本を取り出す。人気作家の書いた、ミステリー小説だ。本当は学校を休んで病院へきているのだから、教科書でも開いて自主勉強するのが、当然なのだろうけれど、そんな気にならないのは、わたしが比較的ありふれた女子高生だということなのだろう。

唯一(ただかつ)真実(まこと) 著 銀色島殺人事件』

事件は、南洋の孤島で起きた。とある有名画家の失踪から七年、死亡認定されたその画家には莫大な遺産があった。その遺産を分与するため、関係者が彼の別荘がある島に呼び寄せられたのだ。そして、静まり返った月夜。遺産分与が中々合意に達さない中、別荘の屋上から、画家の妻が転落死する。

誰もが、夫の死を悲しんだ妻の後追い自殺だと思った。しかし、足の不自由な画家の妻は、屋上には上がれない。それに気がついたのは、画家の隠し子を名乗る少女だった。

不振な転落死から、遺産分与会議は一転、誰が犯人かと疑心暗鬼に陥る人々。そんな中、第二の殺人が起こる。それは、失踪したと思われていた画家その人であった。しかも、偶然その現場を、そして犯人を少女は目撃してしまう。

 その顔は見てはならなかった。少女は驚愕に震える。そう、その顔は間違いなく自分だったのだ。

 というお話。もちろん、これで完結ではない。この後、少女はどこぞの名探偵よろしく、犯人と真実を追いかけるのだ。

ちょっとホラーじみた内容と、主人公を含めた人物心理描写の濃さ、そして作家の持つ独特の語り口が好評で、今本屋さんで一番売れている文芸という、触れ込みだ。

わたしは、ミステリー小説を読むのが好きだ。国内の作品に留まらず、海外のものまで、目に止まったミステリーは悉く読んでいる。もっとも、文学少女であるつもりはない。ミステリー以外の本はほとんど読まないし、雑誌も写真を追いかけるだけ。

ただ、この手の本に付き物な「犯人はだれだ?」という推理ゲームと、意外な真実を知ることがたまらなく好きなのだ。逆に言えば、ミステリーの魅力はそこに集約されるといっても、過言ではないだろう。一文字一文字、読み進めるごとに、真実へ近付く高揚感は、他の本では味わえない楽しみなのだ。

そういえば。

ふと、わたしは本を下ろした。奇妙な違和感が過ぎる。わたしは看護師の去って行った廊下の方を見つめた。

「院内で、携帯電話は使わないで下さいって、何度も言ったでしょう?」確かに、あの人はわたしに言った。だけど、今日わたしがあの人と会ったのは初めてで、携帯を使うなと注意を受けた覚えなんかない。

 人違いだろうか。他人の空似というヤツかもしれない。まあ、わたしの顔は良く言えば、平凡な顔、悪く言えば特徴のない顔だ。他の誰かと間違っても無理はないけれど、あの看護師の怒り様は尋常ではなかった。

「空似で追い出されちゃ、たまったもんじゃないな」わたしは、溜息をつきながら一人ごちた。

実は、こういう出来事はこれが初めてではない。

 学校の廊下を歩いていると、同級生の子から、「あれっ、さっきトイレにいたよね」なんて、声をかけられることなんて、日常茶飯事。時には、図書館の司書さんから、「早く本を返してください」と身に覚えのないことを言われたり、大好きなアイスクリームを持ってレジに並ぶと、コンビニの店員さんに「あまり沢山アイス食べると、お腹壊しますよ」と苦笑しながら言われたこともある。

 ミステリーだ。はじめのうちはそれほど気にも留めなかったけれど、何度も何度も繰り返し身に覚えのないことを言われることが多くなってくると、もはや奇妙を通り越して、不気味になってきた。

「心の病じゃないの?」

 相談を持ちかけた、夏帆はあっさりとそう言い捨てた。その時は、

「人のこと精神病患者か何かだと思ってるだろ」

と冗談めかして怒って見せたけれど、夏帆の指摘は、わたしも気にしていたことだった。

 そこで、別の用事もあったので、それを兼ねて今日病院までやってきたのだ。この大学病院には、有名な心理カウンセラーの先生が在籍していると勧めてくれたのは、他ならぬ夏帆だった。

 わたしは、思い出したように本を膝の上に載せ、もう一度携帯電話を取り出す。辺りにあの看護師の姿が見えないのをあざとく確認してから、メールを打つ。

「ごめん、今度何かおごるから、わたしと夏帆の分、代返頼む」

 しばらくして返信が戻ってくる。

「はぁ? あんた何言ってんの。あんた、学校来てるじゃん」


 薬の臭いが充満した診察室は、どこか職員室の雰囲気に似ていると思う。別に悪いことをして呼び出されたわけでもないのに、背筋が否が応でも伸びるのは、きっとその所為だろう。

 長い順番待ちを終えて、ようやく診察室に通されたわたしは、心理医師の野崎先生に勧められるまま、背もたれのない丸椅子に腰掛けた。白い壁は、人体解剖の図や、薬の表、カレンダーなどそれらしいものが飾られ、わたしはそれを眺めていた。

「検査の結果ですが」

 先生は手元のバインダーに挟まれた、わたしの資料と睨めっこする。四角いメガネの裏の、冷静で鋭い目が、文字の列を瞬間的に読み取っていく様は、まるで機械の様だ。

「心身に特に目立った異常はありませんね。ただ、脳波検査の数値が少し大きいですね。おそらくこれが、あなたの症状を引き起こしている原因だと思われます」

 本当に事務処理な話し方で、淡々と説明していく。

「とりあえず、二週間分の薬を処方しておきますので、症状に改善が見られない場合は、もう一度いらしてください」

 先生はそう締めくくると、手早く処方箋の用紙に、必要事項を書き込んでいる。きっとこの人のあだ名は「マシーン野崎」だと勝手な想像をしていると、不意に先生がペンを止めた。

「ときに、あなたは既視感という言葉を知っていますか?」

 唐突な質問に、わたしはうろたえた。丁度、脳内でマシーン野崎がずっこけた所だったのだ。

「きしかん、ですか? それって、デジャビュとかなんとかって言うやつですよね。歌の歌詞で聞いたことがあります」

「ええ、そうです、デジャビュです。実際には見たこともしたこともないはずなのに、あるときふと、かつてそれを見たり、やったりしたことがあるような感覚を憶える、というやつです」

「それが、わたしと関係あるんですか?」

 わたしは小首をかしげて、先生に問い返した。

「いえ、直接的にはありません。ただ、問診であなたが訴えた症状は、普通の強迫観念や妄想、幻覚とは異なっています。それで、ふと思ったんです。既視感に似ていると」

「はぁ。でも、それは病気とかじゃないんですよね」

 既視感はそういう感覚的なものであって、それが幻覚や幻聴を伴ったものでなければ、誰にでも起こり得ることだ。そんなことで、病人呼ばわりされては、こっちも溜まったものじゃない。

「勿論。ただ、身に覚えのないこと、でも他人は覚えていること、そこにズレがある。他人に自覚があって本人に自覚のない既視感。事実が、どちらの言い分も当てはまらないとすれば、お互いに同じ既視感を持っているのか、それともどちらかの言い分が正しいとすれば、それを発露するほどの強い既視感を有しているか、とまあ、これは私の推測に過ぎませんがね」

 と、言って先生は口許を緩めた。

「はぁ、難しいことは良く分かりません」

「そうですね、医者が推測で物を言うのは、あまり芳しくない。どうか今のは、忘れてください。はい、これ処方箋」

 先生は処方箋の用紙をわたしに手渡した。薄くて透けるような紙切れには、走り書きのように薬の名前が書いてある。

「とりあえず、今後の経過を見ることにしましょう。それで、あなたはこれから学校へ行かれるのですか?」

 またしても唐突な質問だ。どうもこの人は脈絡なく話題を切り替えてくる。

「これから行けば、三限目には間に合うと思いますけど、もう一つ病院に用事があるので、今日はサボリです」

「用事ですか? 他にどこか加減が悪いところでもあるのですか」

「いいえ、友達が怪我して入院してるんです。だからお見舞いに行こうと思ってます」

「ほほう、そうですか」

 頷く先生の瞳には幾ばくかの驚きが見え隠れする。「そうですか」の短い科白に、どこか意味深なものを感じつつ、わたしは診察室を後にした。


 人の多いエレベーターは、ほとんど各階停止状態だった。患者さんには専用のエレベーターがあるから、それでも構わないのだろうけど、少しだけ鬱陶しい。ようやく外科病棟の階に登ったと思うと、そこは広い廊下に延々と病室が並ぶ回廊。大学病院ともなれば、病床数も圧倒的なため、探すだけで一苦労だ。受付で聞いてくればよかった。ちょっと面倒に思って、そのまま外科病棟へ来たのが間違いだった、などと思っていると、目の前に見覚えのある名札が下がっているのを見つけた。

 クラスメイトの名前だ。ちょっと拍子抜けに感じながら、わたしはスライド式のドアをノックした。

 彼女との付き合いはかれこれ、小学生からずっとだから十年ばかりになる。ウマが合うというのか、同じクラスにならなくても、よく一緒に遊んだ仲だ。現に今は通う高校も違うのに、こうして見舞いにやってきているのだ。

そんな彼女が、事故に遭ったのはつい一週間ほど前のことだった。ほとんど彼女の不注意だったと聞く。ブレーキの壊れた自転車に乗って、坂道を駆け下り、自動車に跳ね飛ばされたらしい。おっちょこちょいなところは、昔から変わっていないようだ。

それでも、一時は危篤状態が続いた。体は軽い怪我程度で済んだのだけど、頭を強く打ったらしく、下手をすればこのまま意識が戻ることはないだろうとの、医者の見立てだったのだ。しかし、つい四日前意識を取り戻した。奇跡的という言葉が一番良く似合うほど、彼女はおっちょこちょいで運がいい。

そんなこんなで、ついでといっては悪いけれど、見舞いに参上したというわけだ。

「はあい、どうぞー」

 ノックに合わせて部屋の中から声がする。意外に元気そうだ。どんな風に冷やかしてやろうか、悪戯心がムクムクと目を覚ますのを押さえながら、病室の扉を開いた。

「やっほー、元気?」ニッコリと笑って手を振る。

 彼女はベッドの上で半身を起こし、ひどく退屈そうに雑誌のページを捲っていた手を止めた。挨拶の言葉がスベったのだろうか、彼女は怪訝な顔をしている。「やっほー」はなかったかな、いや事故に遭って生死の境を迷った人間に、「元気?」は不味かったかもしれない。

 わたしの頭にいろいろと気不味い物が去来していく。とにかく、この冷たい空気を取り除かなくては。

「学校サボってお見舞いに来ちゃった。何だか、平気そうだね。無事で何よりだ。あんた昔から運だけは良かったもんね」

 冗談交じりな言葉が、空を切る。ここでようやく、この微妙な雰囲気が解きほぐされると思っていたのだが、やはりパジャマ姿の彼女は、訝しげな顔でわたしから視線を逸らさない。

「新手の冗談? もしかして、まだわたしのコトからかってる?」

 彼女は疑いの声をあげた。

「別にからかってないよ。怪我人からかって喜ぶほど了見狭くないもん」

 入室する前、どう冷やかしてやろうか考えていた者の科白ではないな。などと思っていると、彼女は更に眉を(ひそ)めた。

「嘘ばっかり。だってさっき、散々わたしを冷やかしておきながら、お大事にって言って帰ったのあんたじゃん。もう」

 彼女は頬を膨らませながら訴える。ホントに? 恐る恐るわたしが尋ね返すと、彼女はコクリと頷いて、

「今度はマジで怒るよ」と言った。

 まただ、また身に覚えのないことだ。

わたしはたった今この部屋に入ったばかりだ。それどころか、さっきまで確かに心療内科の診察室にいた。マシーン野崎と話していた。それなのに、どうして彼女はそんなことを言うのだろう。彼女、事故で頭を打ったとか? いや、そんなに都合のいい答えなら、心療内科なんか訪ねたりしなかった。

「さっきって、どのくらい前?」

「どのくらいって、三分くらい前だよ。どした? 青い顔して」

 硬くこわばるわたしを、心配そうに見つめる彼女。三分。だったら、わたしの前に彼女を見舞った「わたし」はまだこの病院にいるかもしれない。思い立ったら居てもたってもいられない。

「これ、お見舞いのプレゼントっ。交通安全御守。とても御利益があるそうだから、大事に使ってね」

 わたしは鞄から、プレゼントの箱を取り出し、彼女に手渡すと、素早く踵を返した。

「それじゃ、わたし急用があるから、お大事にっ」

「え、急用って? ちょっと待って、どうしたのっ」

 ポカンと口を開け、わたしを呼び止める彼女を他所に、わたしは一目散に病室を飛び出した。


「ひどいミステリーだ。謎が謎を呼んだりしない。不思議に思っていたことは、ただわたしが事実を捻じ曲げていたからだ。謎なんて、何処にもない、あるのは真実だけなのだから」

 銀色島殺人事件のクライマックス。いよいよ主人公が犯人を指差す瞬間に、言う見得きりの科白だ。そう、これはひどいミステリーだ。わたしのみに覚えのないこと、だけど他の人は知っていること。つまり、わたしだけが、わたしのしたことを知らないのだ。

 その謎が示す答えは、案外簡単に推理して、導き出すことが出来る。探偵小説なら、名探偵にこう言われることだろう。

「初歩的なことだよ」

 そう、本当に初歩的なことだ。わたしが知らないことを、わたしがしている。それは、わたしがしたことではなくて、「わたしに成りすました誰か」がしたことなのだ。だから、わたしは知らない。それなのに、他人は知っていて「さっきも言ったでしょう」「まだからかうの」などと、わたしをたしなめるのだ。

 わたしに成りすますことにどんな動機があるのかはよく分からないし、どうやって親友を騙せるほど、わたしに成りすましているのか、そのトリックははっきりしない。

 ただ、分かっていることは、犯人はまだこの病院内にいて、その犯人、通称「わたし」を捕まえれば、真実は白日の下に晒されるのだ。

 しかし、それには問題が一つ。大学病院は広い。内科外科の病棟だけでも、各六階建ての、計十二フロア。その他にも病棟はあり、迷路のように渡り廊下がつながっている。その何処に「わたし」が居るのか、それを探すのは途方もないことだった。

 それでも、当たりをつけることは出来る。この辺は、ミステリー小説で、数々の名探偵に鍛え上げられた推理力を信じたい。

 館内地図に寄れば、この大学病院は、外来客の訪問はすべて玄関を利用しなければならない。また、相手はわたしがこの真実に気づいたことを知らない以上、裏口から逃走することはないだろう。つまり、「わたし」がどんな行動に出ても、必ず玄関ロビーへ向かう可能性が最大だといえる。

 人の多さで各階停止状態のエレベーターに「わたし」が乗っているなら、非常階段を駆け下りれば、まだ間に合うはずだ。

 となれば、グズグズしている暇はない。わたしは、とにかく逡巡する間もなく、階段を飛び跳ねるように駆け下りた。ロビーは相変わらず、来客でごった返しているが、ここは落ち着いて「わたし」を探す。

 皆が騙されるくらいだから、よほどわたしそっくりなのだ。見飽きた自分の顔なら、簡単に見つけ出すことが出来るはずだと、植え込みの隅から、受付まで隈なく見渡してみる。

 風邪を引いた女の子とそのお母さん。松葉杖をついた大学生。ネックカラーをつけた入院患者のおじさん。お腹の大きなお姉さん。どう見ても健康そうな老夫婦。

 だめだ、この広いロビーのどこにも「わたし」は見つからない。もしかして、もう病院を立ち去ったのだろうか。それとも、どこか他の病棟へ行っているのだろうか。最悪、わたしに勘付いて、裏口から逃走したという可能性も捨てきれない。

 知らず知らずに舌打ちが唇から漏れてしまう。やっと、謎の尻尾がちらついていることに気がついたのだ、ここで逃がしてなるものか。

「あら、あなた」

 ロビーを縦断する看護師が、わたしに声をかける。あの、携帯電話を注意した人だ。なんだろう、また「わたし」が何かしでかしたのだろうか。それでとばっちりを受けるのはごめんだ。早いところ、犯人を捕まえなければ。

「あなた、さっき三階に居なかった? もう降りてきたの、速いわね」

「あの、わたし三階にいたんですか? それで、わたし何処へ向かってました?」

「大学の研究棟だけど。あら、あれあなたじゃなかったの? ご姉妹かしら、研究棟は学生と先生方以外は立ち入り禁止よって、注意したんだけど」

「ありがとうございます」

 小首をかしげる看護師にわたしは一礼すると、再び階段の方へ走って戻った。院内は走らないように、という声が後ろで聞こえたような気がしたが、気に止めている(いとま)はない。「わたし」は、三階にある渡り廊下から、大学の研究棟へ向かったようだ。完全にマークから外していた。しかし、何の用があって大学の研究棟へ向かったのだろう。

 わたしはすれ違う人を巧みに交わしながら、全力で真実へ向かって走った。まるで、逃走する犯人を追いかける探偵のようだな、などと思う。

 研究棟の入り口、渡り廊下の中ほどには、ロープが渡してあって、その中央に「学校関係者及び学生以外の立ち入りを禁ずる」と赤い文字の張り紙があった。わたしは、周囲を見渡し誰もいないことを確認すると、ロープを跨いで研究棟へと突入した。

 

 ドッペルゲンガーというのを聞いたことがある。それは、自分と同じ姿をした霊的な存在で、物語の中で、時には核心として、時にはホラー的な味付けとして、しばしば扱われる題材だ。わたしの読んだミステリー小説の中にも、ドッペルゲンガーが登場するお話は少なくない。

 ふと思う。野崎先生は、わたしの症状を「異常な既視感」だと推論付けたけれど、それよりもこれはドッペルゲンガーだと考えた方が、つじつまが合うような気がした。

 ドッペルゲンガーを実際に目撃したという噂は、世界中に散らばっている。しかし、その存在の有無については、幽霊は存在するのか、宇宙人は存在するのか、ツチノコは存在するのか、という疑問に等しいほど、解決をみない論争だ。

 ところが、わたしの身に起きていることが、ドッペルゲンガーの仕業だとしたら、一つだけ気がかりなことがある。

 ドッペルゲンガーは「その人の寿命が尽きてしまう証」とされており、もしも出遭ったならば、わたしは死んでしまわなければならないのかもしれない。


 風を感じた。冬の冷たい木枯らしだ。研究棟の最上階、未だ「わたし」の姿さえも見つけられないわたしは、落胆していた。

 大学の研究棟は、教授たちの研究室が軒を連ねる、個室の職員室だ。その数は、大学教授の数だけ存在する。もはや、何の目的で「わたし」が研究棟へ向かったのか、何処の部屋へ行ったのか分からない。いわば、捜査は振り出しに戻ったのだ。

そんな時、わたしは頬に風を感じた。研究棟に並ぶ部屋の扉は、どこも締め切られているのに、風は確かに廊下を通り抜けていったのだ。どこから、吹いてきたのだろう。わたしは、ゆっくりと廊下を進む。やがて長い直線の廊下が曲がり、そこから薄暗い階段が伸びていた。

ここは最上階だから、その階段の先にあるのは屋上だ。そして、屋上への扉は半開きになっており、そこから風は舞い込んでいた。

何かに誘われるように、わたしは階段を昇り、屋上へと足を運んだ。その先に、「わたし」がいるような気がしてならなかったのだ。

暗い階段を昇り終えると、太陽の光が眩しく眼に飛び込んでくる。一際強い風に煽られる髪とスカートを押さえながら、一歩、また一歩と屋上に踏み出した。

いた。

わたしと同じ制服を着た女の子が一人、屋上の手摺に身を預けて、街並みを眺めている。そんな後姿は、確かにわたしに似ているようだ。

 こいつがわたしの名を騙って、皆を欺き、わたしを困らせている犯人か。わたしは、気付かれないように、忍び足でゆっくりと「わたし」に近付いた。

「ねえ、ドッペルゲンガーって知ってる?」

 心臓が急停止しそうになる。「わたし」は背後から近付くわたしに気が付いていた。その声は、わたしの声とそっくりだった。

「この世には、同じ顔をした人間が三人いる、なんて昔から言うわね。もっとも、ドッペルゲンガーを見たら死ぬなんて、民間伝承やオカルトのなせる業だけど、もしも同じ顔した人間と出会ってしまったら、それこそショック死しちゃうんじゃないかって思うの。ねえ、思うでしょ、『わたし』さん」

 クスクス、「わたし」は笑みをこぼしながら振向いた。その声も、その笑い方も、その仕草も、その顔も、わたしそっくりなんてものではない。わたしそのものだった。

「どう? ショック死しそう? わたしは死んでしまいそうなくらい、驚いてるよ。だって、わたしと同じ顔した人が、目の前にいるんだもん」

 愕然とするわたしを他所に、「わたし」は冷静に笑ってみせる。わたしは、震える手を押さえながら、喉の渇きを覚えた。この事態をどう理解すればいいのか分からない、ただ一つだけ言えるのは。

「似てるのはあんたの方だ、この偽者」

そう、偽者だから「わたし」は笑っていられるんだ。

「偽者か……その逆の発想はないワケ? まあ、いいか、話を元に戻そう。そもそも、ドッペルゲンガーなんてホントにいると思う? 残念だけどドッペルゲンガーは架空の産物よ。一説には脳の障害が引き起こす、幻覚のようなものだと言われてる」

「その話、前に読んだことある」

「あれ、あんたもミステリー小説好きなんだ。だったら、こうしてわたしと同じ顔、声をした『わたし』が居ることにも、察しがついてるんじゃない? ドッペルゲンガーより比較的現実に近い答えが」

 ドッペルゲンガーよりも現実的な答え。わたしは、目の前の笑顔に怯えながら、必死に考えた。ドッペルゲンガーものの小説の、オチは大体相場が決まっている。

「もしかして、クローン?」

「ご明察。それがドッペルゲンガーの正体だと考えるのが、一番しっくり来る回答だと思わない? あんたはわたしのクローンなのよ」

 フフンと鼻を鳴らす、わたしと同じ顔をした「わたし」。だけど、ドッペルゲンガーもクローンも、どちらにしても馬鹿げた空想の話のように思えた。それなのに、他の答えが見つからない。

「事実は小説よりも奇なり。昔の人って、上手いこと言ったな。実際に、わたしと同じ顔をしたあんたが目の前にいるなんて、小説よりも可笑しなことだもん」

 実際に? 本当に「わたし」はここにいるの? 目の前で、まるでわたしを見下すように笑うこいつは、本当に存在するの? 確かにクローンという結論は、ドッペルゲンガーより信憑できる。だけど、それでもつじつまが合わないことは、沢山あるような気がした。

 それにも増して、わたしと「わたし」がクローンでない証拠ならある。

「違う。あんたはわたしなんかじゃない。目の前に、わたしと同じ顔のやつがいて、平気でいられるような人間じゃないことは、自分が一番良く知ってる。わたしならそんな風に冷静でいられるはずがない。消えろ、わたしの幻っ」

 わたしは言い放ち、「わたし」を睨みつけた。もしも、わたしの脳と心がおかしくなって見せている幻なら、消えてしまえ。

両手を突き出し、「わたし」突進する。ちょうど手摺に寄りかかる「わたし」の肩口を押す形となった。「わたし」は悲鳴一つ上げなかった。その体が大きく仰け反っても、冷静な顔色を変えることはない。

するり。

絡まった紐が解けるように、「わたし」の体が手摺からすべる。まっ逆さまに「わたし」はわたしによって屋上から突き落とされた。

 一瞬の後、地面から鈍い音が聞こえる。きっと地上は大騒ぎになる。下を見るのが恐ろしい。だけど、それよりももっと怖かった。突き飛ばした時、わたしの手には「わたし」の肩の感触が走ったのだ。それは、なによりも「わたし」が幻なんかじゃないことの証明だった。

 やはり、あれはクローンなのか。いや、わたしがクローンなのか。いずれにしても、わたしはわたしを殺してしまったのだ。怯え、恐怖、安堵、戸惑い、色々な感情に全身が束縛され、わたしはその場に膝を突いた。

 真実はわたしの手で突き飛ばし、地上に叩きつけられて消えた。気配がする。足音が聞こえる。誰かが「わたし」を突き飛ばした犯人を捕まえに来たんだ。

 犯人はわたしです。

「大丈夫ですか?」

 階段を駆け上がる足音の後、屋上に姿を見せたその人は言った。それは、パニックで震えるわたしに同情するような声ではなかった。まるで、「わたし」のように冷静で、感情が篭っていない。

「これまでの行動は統べて、予測どおりだと思っていましたが、まさかあなたがこのような大胆な行動に出るとは、考えが及びませんでしたよ」

 白衣のポケットに手を入れ、不気味にメガネを光らせる、心理カウンセラーの野崎先生は、ひどく機械的に言った。

「性格付けを少しずらすだけで、あなたよりも早く、事実を探り始めた。いずれ、あなたと対面した時、冷静な対処が出来ると考えていましたが、わたしたちの予測を裏切って、あなたは彼女を突き飛ばしてしまった」

「わたしたち?」

「ええ、わたしたちの研究チームです。おや、その風だとあなたも彼女も結局真実には到らなかったと言う訳ですか。やはり、推理小説なんて当てにならないものですね」

「何を言っているんですか? ちゃんと、ちゃんと説明してください」

「いいでしょう。あなたは、あなた若しくは彼女がクローンか何かだと思っていませんか? 立ち上がって、下を御覧なさい」

 下? 「わたし」の落ちた地上? わたしはフラフラと立ち上がると、ゆっくりと手摺から身を乗り出した。地上には白衣を着た人たち、おそらく野崎先生の言う「研究チーム」の人たちが集まっていた。

「よく見なさい、彼女の遺体を」

 先生の指示通り、体をくの字にまげて斃れた「わたし」に視線を集中させる。変だ。遺体は何処にも傷がないし、血も出ていない。六階建てのビルから落ちて、無傷でいられるはずがない。

「先生の研究って……」

 わたしは背筋が寒くなるのを感じた。

「人間と同じように、学習し思考し行動するロボット、ヒューマノイドの研究です。あなたと同じように学習し思考するロボットの、心理行動の分析がチームにおける私の研究です。分析はことのほか興味深いものでした。あなたよりも少しだけ気の強い性格の彼女を、あなたと同じ環境に据えることで、彼女はどのような行動をとるのか。結果的に、あなたと同じように、見に覚えのないことを他人に諭され、困ってしまった彼女は、私の元に患者として現われました。そして、彼女はあなたにいち早く気付き、あなたと接触することを望む。そこまでは、予測可能な範囲でした。ところが、まさかあなたが彼女を殺してしまうとは、考えていませんでした」

 淡々と、抑揚のない声色で先生はわたしに説明を続ける。まるで、小説に出てくるマッドサイエンティストそのものだ。

「じゃあ、あの子はわたしのロボットなの?」

「その答えでは、五十点。百点満点の五十点です。彼女はあなたのロボットじゃない。あなたも彼女のロボットなんですよ」

 わたしが「わたし」のロボット。つまり、わたしもロボット? 

「あなたを含めて、あなたとそっくりなロボットが五ついます」

そんなわけない。コンピューターでプログラムされた心がこんな恐怖を感じるわけがない。真実を知って怯えるわけがない。わたしは、生きてる。わたしは人間だ。

「信じられませんか?」

 先生が突然わたしの手を掴んだ。拒もうと手を引くが、先生の力は意外と強い。先生は、白衣のポケットから折りたたみナイフを取り出すと、その鈍く光る刃をわたしの腕に突き刺した。

「痛くないでしょう?」

 鋭利な切先は、わたしの前腕に食い込んでいるはずなのに、痛みを感じない。更に先生はゆっくりとナイフを引く。丁度肘の辺りから、手首までわたしの手は切り開かれたのに、血も滴り落ちない。

 先生はナイフを引き抜くと、わたしの傷口に指を滑り込ませた。そして、その指に絡まって傷口から現われたのは、血管でも神経でも、筋肉でもなく、黒いコードの束だった。

「ほら、これこそあなたがロボットたる証拠ですよ」

 わたしは悲鳴を上げた。それも、喉に取り付けられたスピーカーと、頭に付いたコンピューターが作り出した音声だ。

「実験は失敗ですね。一から出直しです」

そう言う先生の顔と、引き出されたコードを見つめながら、彼女はやはりドッペルゲンガーだったと思った。ドッペルゲンガーに出遭った人は、必ず死ぬ。そのとおりになってしまったと。

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