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第六話 あの星の名は

 ドアは、硬く閉ざされたまま。監獄の鉄格子のように強固な鍵がかけられているわけではないし、お城の鉄城門のように大きく重いわけではない、薄い合板のたった一枚の扉なのに、けして開くことはない。

 ドアの存在は、わたしたちにとって、大きな壁であり、深い海溝のようなものだ。万里の長城なら、駆け登ることも出来るかもしれないし、マリアナ海溝なら船で渡ればいい。だけど、そのドアには見えないバリアがあって、わたしの声も手も足も、けして通すことはないのだ。

 それでも、わたしは毎朝その扉を叩く。彼女を起こすために。

「起きて、朝だよ」

 冷たい木の扉を叩きながら、そう呼びかけても中から返事が戻ってこないことは、重々承知していることだ。

「今日は学校へ行こうよ、明穂ちゃん」

 きっと、彼女は嵐が過ぎ去るのを待つ森の動物のように、布団の中に包まって、小さくなって隠れているに違いない。夏の頃から、彼女はそうしてずっと部屋の中に篭っている。

 ドアを開くことはそんなに難しいことではなくて、ただ、小さなノブを回して開くだけ。わたしの部屋のドアと何のかわりもない。そうして、部屋に入って、彼女から布団を引き剥がす。嫌がる彼女を叱って、学校へ連れて行く。難しいことなんて何一つない。

 だけど、わたしはそのドアを開けられない。開けることが怖い。彼女はわたしの顔を見ると、きっと驚くだろう。恐怖に戦くだろう。今よりもっとひどく自分の心に閉じこもってしまうだろう。

 何故なら、彼女にはわたしが見えないのだ。前もって言っておくと、わたしは幽霊じゃない。ちゃんと生きている。それなのに、彼女にはわたしの姿が映らないのだ。こうして、ドアの前で呼ぶ声も、彼女には他の誰かの声に聞こえている。

 つまり、彼女の中から、わたしの存在だけが、きれいさっぱり抜け落ちているのだ。それには、理由がある。すべてわたしが悪くて、彼女の心が壊れてしまったのは、多かれ少なかれわたしの所為なのだ。

 そのことを彼女は知らない。だけど、このドアを開ければ、彼女はそれを知り、そして頭の中から消したはずのわたしに、恐怖する。わたしは、それが怖くて仕方がなかった。

「わたし、学校に行って来るから。お母さんが用意してくれた昼ごはん、ちゃんとと食べてね」

 わたしは、ドアを叩くのをやめて小さく言った。もう、学校へ行く時間が迫っているのを理由に、そのドアを開くのを、今日も諦める。

「行って来ます」

 階下へ降りながら、書き置きのように付け加えた言葉は、きっと彼女に届いていない。それも、毎日のことだ。

 彼女にわたしは見えない。わたしは彼女と会わない。ドアという境界線の向こうで、今日もわたしたちはすれ違う。血はつながっていないけれど、ちゃんと姉妹のはずなのに。


「わたしの娘、明穂よ。あなたのほうがひと月早く生まれているから、お姉さんね」

 その人は、わたしに笑顔で明穂を紹介した。もう一年も前のことだ。よく晴れた日曜日の午後、わたしは父に連れられて繁華街のレストランにやって来た。そこに待っていたのは、新しい母を名乗る女性と、その娘明穂だった。

わたしの父は、早くに妻、つまりわたしの母を失った。そうして男やもめでわたしを育てた。そんな父が、夫のいる女性と恋に落ちていたことを、このときはじめて知ったのだ。

 二人の結婚を反対する理由はない。大人の恋愛に口出しできるほど、わたしの十六年は濃いものではないし、父もその人も真剣なのだから、子どものわたしが無理を言ってはいけない。そういうところだけ賢しいのが、わたしと言う人間だ。

「ほら、挨拶しなさい」と、席についた父がわたしの背を押す。わたしは出来るだけ複雑な思いは顔に出さず、作り笑顔で、明穂に握手を差し出した。

ところが、明穂は、その人の後ろに隠れるようにして、細い指でわたしの手をつかむと、小さく「よろしく」とだけ言う。

 なんだか、暗い子だ、というのがわたしの第一印象だった。

 彼女の姓は、西村。わたしと同じ苗字の東谷(あずまや)を名乗ることになるのは、少し面白いと思った。だけど、彼女はそんなことどうでもいい、といった風だった。父と新しい母の結婚に賛成しているわたしとは違い、明穂は反対しているのだろうか、食事の間中、一度もわたしとは目を合わせようとしなかった。

 父と新しい母の結婚は、世に言う不倫と言うやつだ。世間体を気にするなら、テレビドラマのようにドロドロとした世界で、わたしも明穂もまさか、自らの身に起こる出来事とは思っていなかった。

 それだけに、わたしもショックは大きかった。

 レストランでの手短な紹介から一ヶ月ほどして、わたしたちはともに同じ屋根の下で暮らすようになった。いつも父と二人で囲んでいた食卓に、その日から四人で囲む。本当は少しだけ嬉しいはずだった。

 だけど、考えてみれば、その時からわたしと明穂には境界線があったのかもしれない。何となく、話しづらい。何となく目を合わせづらい。そんな雰囲気がわたしたちの間には流れていた。

 それでもせっかく、縁あって姉妹になれたのだ。わたしは懲りずに、明穂に声をかけることにした。

「おはよう」「一緒に学校へ行こう」「ただいま」そんな当たり前のことから、趣味のこと、テレビの話題、学校での出来事、色んな話題を彼女に持ちかけた。だけど、明穂はそんなわたしをあからさまに避けた。

 そうしているうちに、わたしもだんだんと明穂と口を聞かなくなってきた。諦めよりも、苛立ち、苛立ちよりも不満が募っていく。

 どうして、わたしを嫌うのか分からない。わたしは、ただ家族と仲良くしたいだけなのに。一言も言葉を交わさない、冷たい夕食が終わると、さっさと部屋に向かう明穂の背中を見つめながら、わたしはいつも思った。


 明穂は今日も部屋を出てこない。

溜息混じりに玄関口で靴を履くと、わたしは玄関を開いた。冬の迫る冷たい空気に頬が凍えそうになる。それなのに、人の気も知らないで、太陽は馬鹿みたいに輝いていて、それだけでわたしの胸のもやもやが倍増するような気がした。

なんだか、学校へ行くのがいやになってきた。毎日、明穂の部屋の前で抱えた重たい気分を押しのけて、無理矢理学校へ行く。でも、そんなことをしても、授業は身に入らないし、友達との会話も上の空。それならいっそ、学校なんかサボってしまえと、わたしの中の悪魔が呼びかける。

 わたしは、鞄から携帯電話を取り出すと、クラスメイトにメールを送った。

「今日は学校サボる。先生には適当に言っておいて。プリントよろしく」味も素っ気もない文章を送信すると、わたしは三度溜息をついた。

溜息の分だけ幸せは逃げていく。どこかで聞いたことのある科白。だけど、ついても逃げていくほどの幸せが、わたしにどれだけあるのだろう。

新しい母は優しい人だ。けして、わたしに遠慮なんかしないし、ちゃんと面倒も見てくれている。父とは、見ているこっちが恥ずかしくなるほど仲がよく、娘のわたしとしては、安心すべきなのだろう。だけど、明穂が部屋に篭るようになってから、二人は頭を抱える日々が多くなった。次第に二人の会話は途切れがちになり、夕食も囲むことが少なくなってしまった。

果たして、それが逃げていくほどの幸せと呼べるのか、わたしには分からなかった。

「りょーかい、この不良娘。今度何かおごれ」

 暫くすると、手のひらの中で、携帯電話が震える。わざわざハートマークまで追加された、ちょっと嫌味な返事が戻ってくる。おごれ、と言われてもお金がありません。

 わたしは苦笑しながら携帯電話をしまうと、学校とは正反対の方角へ足を向けた。

 人生初の登校拒否に、どうせ今から学校へ行っても遅刻するだけ、などと理由をつけながら、朝の街角を歩く。街がいつもより少し騒がしい。あちこちでパトカーを見かけるし、人だかりも出来ている。何か事件があったのだろうか。

 少しだけ気になったけれど、わたしは制服姿を見咎められることが怖くて、立ち止まらないように国道へ向かって歩いた。不良娘と呼ばれても、かなり小心者だなあ、わたしは。

国道にかかる緑色の歩道橋を渡り、路地へ入り込む。さながら、裏路地と言った雰囲気のそこは、両隣のビルが軒を連ね、壁が迫ってくるようだった。

 薄暗い路地を抜けるのには、理由がある。目的地へたどり着くには、国道沿いの歩道を歩けばいいのだが、いささか勇気に欠けた。前言の通り、わたしは始めて学校をサボり、こうして街を歩いている。きっと咎める大人はそれほどいないと思うけれど、やはり俄か不良のわたしの心臓は、心拍数が急上昇していたのだ。

 だから、わたしは「近道だから」と心に理由をつけて、路地裏を歩いた。やがて、狭い路地を抜けると、国道から一本反れた道に入る。道は真っ直ぐ丘へ向かって伸びている。わたしは、丘の頂上を目指して登ることにした。目的地はその丘の上にあるのだ。

 ガードレール越しに、街並みが鳥瞰できる。瓦がきらめき、ビルの窓が光る。遠く見渡す青空はやはり雲ひとつない、晴天だった。ここからでは、明穂のいるわたしの家は、ビルの陰になって見えない。

 今も、カーテンを閉め切ったあの部屋で、明穂はうずくまっているのだろう。そう思うと、ますます気が滅入ってしまう。

 何度となく溜息をつきながら、ようやく丘を登りつめると、目的地がわたしの目の前に現われた。

白いモルタルの大きな箱。汚れて半ばベージュ色になった箱の上には、丸いドーム上の屋根がついている。その建物の入り口には、銀色のボードにこう書かれていた。

「こども未来館」

 安っぽい名前だけど、ここはわたしが生まれる少し前に、この丘の上に立てられた、科学館だ。科学館と言っても、ほとんど催し物もなく、展示物も写真パネルがいくつかあるだけ。そんな、勉強の足しにもならないような建物の目玉は、ドーム状の屋根だった。正しくは、ドーム状の屋根の内側にある、プラネタリウムだ。

 観音開きのガラス扉を潜ると、節電のため薄暗いロビーに入る。札も黄ばんでいる、受付へ向かうと、予想通り館長さんが舟を漕いでいた。お客さんなんてめったに現われない。こうして日がな一日受付に座っているのも、退屈なだけだろう。

 わたしは受付のテーブルを軽く叩くと、咳払いをした。

「いらっしゃい」

 わざとらしいわたしの仕草にも、全く慌てる様子もなく、達磨のような姿の館長が目を覚ます。きっとこんな怠け者の館長がやっているから、この科学館は流行らないんだと、いつも思う。

「おや、今日は平日だぞ。学校へは行かなくていいのかい?」

 まだ眠そうな、丸メガネの下の小さな目をこすりながら、館長が言う。

「サボり。行くの面倒くさくなっちゃって」

「けしからんなあ。学生はちゃんと学校へ行かんと。あんたの親御さんが知ったら、たいそう嘆くぞ」

「学校へ連絡する? 唯一の常連のわたしを」

 わたしがニヤリと口許を歪めると、貧乏科学館にとって、最強の切り札を切られた館長は仕方なさ気に「今日は見逃すよ」と言った。

 入館料は百円。今時、ジュース一本も買えやしないほどの格安だ。もはや価格破壊の域を脱している。わたしが財布から、コインを取り出すと館長は、無言で受付を出て奥の部屋へと、歩いていった。プラネタリウムの映写機を動かすためだ。

 小学生の頃、父の趣味が天体観測だったこともあり、父と二人でこの科学館へ足を運んだ。それ以来、暇があるとわたしはここを訪れるようになった。プラネタリウム以外、見るべく物もないここに来るのは、わたしも、星を見るのは好きだったからだ。

 ロビーに据え付けられた、錆び付いたベンチに腰掛けて待っていると、奥の部屋から館長が頭だけ出して「準備できたよ」と、わたしを招いた。

 プラネタリウム映写室は、ちょっとした映画館のようだ。映画館と違うのは、部屋全体が円形で、その中心にある映写機を取り囲むように、座席が据えられていることだった。そんな誰もいない映写室は、わたしだけの貸切状態で、わたしは勝手に特等席と決めている、入り口から一番遠い席に座った。

 静かな室内に、ゆっくりと映写機が動く音だけが響く。やがて、鉄亜鈴のような映写機の先端が、ぼんやりと光を放ち始めると、真っ白なドームの内側に夜空が浮かび上がった。

 最近のプラネタリウムは、物語があったり、有名な俳優さんが解説してくれたりするらしい。だけど、ここのプラネタリウムはそんな洒落たものじゃない。ただ、夜空をゆっくりゆっくり東西南北へ映っていくだけ。音楽も音声もお話もない。

 それなのに、わたしがこのプラネタリウムを好きなのは、他のどんな夜空とも違う、美しさと静かさがあったからだ。

ぼんやりと見上げる星空。そういえば、明穂も星が好きだといっていた。

「あれは……」


 折角仲良くなろうとしているのに、折角歩み寄ろうとしているのに、明穂はそれを避けるように逃げていく。そのことが、次第に苛立ちへ、そして終には憎しみへと変わるのに、それほど長い時間は必要としなかった。

 そうなれば、相手のことを嫌いになるのはとても簡単だった。明穂があまり喋らないことも、笑ったり泣いたり感情を発露しないことも、ときどき鏡に向かって話しかけていることも、ひどく薄気味悪くて気持ちの悪いもののように思った。

「売女の娘」という言葉が出てきたのは、そんな時だった。

我が北高校は、外部の人向けに、教育方針や課外授業の成果などを記したホームページを開いている。それとは別に、生徒会で運営する、生徒同士、先生と生徒のコミュニケーションの広場としての「生徒会のページ」と呼ばれるものがある。ただ、そのページには匿名で書き込むことも出来るため、時として悪用する人もいて、他人の誹謗中傷の場になることもしばしば。

「C組の東谷明穂は、売女の娘」

 書き込んだのはわたし。明穂に対する苛立ちのはけ口を求めた。ちょっとした悪戯のつもりもあったのかもしれない。ただ、これだけの文面だと、稚拙な悪口と何ら変わりなかった。勿論、わたし自身それ以上を望んではいなかった。

 ところが、噂の伝播速度は光より早く、わたしの書き記した拙い悪口は、風説となり尾ひれがくっついて、クラス中に広まった。性質の悪いウィルスのようだった。

 もともと明穂は、その仏頂面と性格が災いして、クラスメイトたちから少し距離があった。本人がそのことをあまり気にしていなかったのも、よくなかったのかもしれない。そういう、明穂を快く思っていない連中は、少なからずいた。

 そして、イジメが始まった。小学生のイジメより、高校生の、しかも女子のイジメは陰湿で抜かりがない。他の学校でも、イジメの問題は多々あることだろう。それらは、往々にして、先生達が実態を把握できないまま、悪病巣のように静かに確実に進行していくのだ。

 明穂がどんどん孤立し、ますます暗い顔をするようになっても、常にわたしは、蚊帳の外にいた。きっかけを作った張本人は、明穂を援ける訳にも行かず、かといって明穂をイジメるつもりもない。ただ、傍から見るだけ。

 そして、心に思うのは、「そもそも明穂が撒いた種なんだ。明穂が悪いんだ」という、言い訳がましい理由付けだけだった。

 とうとう、明穂は完全に心を閉ざし、夏休みが終わる頃には、部屋の奥に閉じこもってしまった。それは、わたしと明穂の訣別を意味し、同時にわたしの心に燻っていた、後悔の慙愧が、鎌首をもたげたことも意味していた。

 本当はわたしの所為。明穂が心を閉ざしたのは、わたしの所為。明穂にわたしの姿が見えなくなったのも、わたしの所為。明穂が死にたいと願うのは、わたしの所為。全部皆、わたしが悪い。

だけど、すべてを話す勇気がない。わたしは、ひどく薄情で、軟弱者なのだと思い知らされた。


 ドーム状の星空を見上げながら、わたしは違和感を覚えた。何度も何度も見ているはずのプラネタリウムなのに、どこかがおかしい。目をこすってみても、頭を振ってみても、やはり違和感は消えない。

「どうした、どこかおかしいところでもあるのかい?」

 突然後ろから、館長が声をかけてきて驚いた。気配を断つ達人なのだろうか、そこにいることに全然気がつかなかった。

「おや、驚かせてしまったかな」

 笑いながら、館長は「よっこらしょ」とわたしの隣の席に座る。メタボリックなお腹が少し窮屈そうだ。

「あそこ、スピカとアルクトゥルスの間に……」

 わたしは人差し指を伸ばして、星空を指差す。春の夜空、一等星のスピカと、アルクトゥルスの間に、眩い光を放つ星がひとつ。

「あんなところに、一等星はないですよね。プラネタリウム、壊れちゃったんですか?」

「おやおや、よく気がついたね。でも、この原版は壊れていないよ。ずっと前から、あそこには星があるんだ」

 おかしなことを言う。あの場所に光を放つ、星は存在しない。それは、星座の本を見れば一目瞭然だし、科学館の館長ともあろう者が、それを知らないはずがない。

「からかってる?」

「とんでもない。常連さんをからかったりしないよ」

 そういう館長の瞳に、すこし悪戯な輝きがあるのをわたしは見逃さなかった。ところが館長は、そんなわたしの疑心暗鬼を気に止める風もなく、そのおかしな星を見上げた。

「いま僕たちが見ている星の光は、ずっと昔、何百年も前に放たれた光なんだ。そうやって、長い宇宙の旅を終え、光の粒子は僕たちの目に届く。つまり、今日見上げた星は、既にその場にはなく、光だけが僕たちを照らしているのかもしれない」

 館長は珍しく、科学館の館長らしいことを語り始めた。

「その逆もしかり。今は、まだ光が届いていないだけで、何も見えないその場所には、今まさに新たな星が生まれているかもしれない。僕はね、そんなことを考えながら、星空を見上げるのが好きなんだ。ほら、ロマンチストだから」

「じゃあ、ロマンチストの館長さん、あの星がその新しい星だって言うんですか? でも、現に存在しない星を原版に入れるなんて、科学館としての姿勢を疑います」

「手厳しいなあ、常連さんは」

 小さく笑ってそう言うと、館長はいきなりわたしの頭を、くしゃくしゃと撫でた。そういえば昔はよくこんな風に撫でられていたものだと、思い出す。しかし、高校生の頭を撫でるのも、いかがなものか。

「このプラネタリウムを作ったのは、僕の弟なんだ」

「え、そうなんですか?」

「ああ、弟といってもね、僕の継母の連れ子だったんだけど、初対面からアイツとはそりが合わなかった。何を話しても口を聞かないし、兄らしいことをすれば、却って反発をする。しだいに、弟は僕のことが嫌いなんじゃないかと思い始めた。やがて、それは、弟への憎しみにかわっていった。だから、幾つになっても顔をあわせれば喧嘩ばかりしていたよ」

 それは、何となくわたしと明穂に似ているような気がした。

「ちょうど、あんたが生まれる少し前、この科学館設立を市が計画した頃だったかな、弟がふらりと僕のところへやってきた。『あの科学館、あんたが館長やるんだろう』ってぶっきら棒に言うと、あれこれ質問して来るんだ。科学館の規模はどのくらいなのか、展示物はどんなものがあるのか、事細かに」

「どうして、そんなこと」

「だろう? 僕も変だと思ったよ。でも、まあ、隠し立てすることでもないし、資料を貸してやったんだ。そうしたら、弟のヤツ、市長と掛け合って自分のプラネタリウムを、寄贈したいから、計画を変更してくれって願い出たんだ。それが、このプラネタリウムさ」

「弟さん、今何なさってるんですか?」

 わたしが尋ねると、館長のかおに陰りが差した。返ってきた答えは、予想通りのものだった。

「死んだよ。この科学館の落成式を見ることなく。病気だったらしいんだ。そんなこと全然知らなかった。それどころか、田舎の両親に代わって、あいつの住まいに荷物を取りに行ったとき、はじめてアイツが、プラネタリウムのデザイナーなんてものをやっていると知ったんだ。僕は、弟のことを何も知らなかった。どんなやつで、何を考え、何が好きで、どんな生き方をしているのか。でもね、弟はそうじゃなかった。弟が、プラネタリウムを作ったのは、わけがあった。それが、あの星なんだ」

 館長は、スピカとアルクトゥルスの間にある、名もなき星を指差した。

「あれは、弟からのプレゼントだったんだ。弟は、僕が天体観測を好きだということを知っていたんだね。だから、毎日お客さんのために、プラネタリウムを見せる僕にしか気づかない星を作った。それは、きっと弟からの十数年ぶりの仲直りのしるしだと知ったとき、もう弟はこの世にいなかった。手遅れだった。弟は謝ってくれたのに、僕は何も出来なかった。その時になってようやく気付いたんだ」


弟が僕のことを嫌いなんじゃない。僕が弟を嫌いで、ずっと壁を積上げ続けていたんだとね

 

 わたしは、明穂の気持ちをどれだけ知っているのだろう。明穂のことを知ろうともしないで、上辺だけで、折角姉妹になれたから、などという理由をつけて仲良くなろうとしていたことを、明穂は見透かしていたのかもしれない。

 なのに、わたしは明穂が逃げていくのを見て、勝手に明穂はわたしのことが嫌いなんだと思い込んでいた。でも、本当は違う。

 明穂がわたしを嫌いなんじゃなくて、わたしが明穂のことが嫌いなのだ。

 胸が痛い。心臓も肺も、皆押しつぶされてしまいそうなほど痛い。明穂の心を壊して、部屋に閉じ込めたのは、わたしなのに、わたしは明穂の所為にしていた。

 何度扉を叩いても部屋から出てこない明穂に苛ついていた自分が、とても恥ずかしくて、悔しくて、情けない。

 わたしって、最低だ。

 館長の言葉が胸を刺す。ポロポロと涙が雫となって頬を伝い、制服をぬらす。全身が押しつぶされそうになる。驚いた館長は慌ててわたしの背中をさすってくれた。

「大丈夫かい? 気分が悪くなったのかい?」

 わたしは頭を左右に振って答える。

「やっぱり、何かあったんだろう? ここへ来た時からひどく浮かない顔をしていたからね。もしも、よかったら僕に話してごらん」

 館長が優しく言う。話すべきか、少しだけ迷った。館長には関係のないこと。明穂とわたしのことを話しても、きっと困ってしまうだけかもしれない。それどころか、悪いのはわたしだということは、はっきりしているのだ。

 でも、話さずにいられなかった。楽になりたいとかそういうことではなくて、もうわたしにはどうしたらいいのか分からない。藁をもすがる気持だった。

 ようやく嗚咽から解放されたころ、夜空は一年を廻り、再び春の星空がきらめいていた。

 わたしは順序良く説明するのが苦手だった。だけど、館長は静かにわたしの話を聞いてくれた。

 明穂とわたしの間にそびえる壁のこと。わたしが、明穂を結果的にイジメたこと。明穂が死にたいと願っていること。

 話し終えると、館長はしばらく瞳を閉じて、俯いていた。退屈だったのか、それともこんな話を聞かされて怒っているのか、館長は微動だにしない。ところが、三度春の夜空が廻ってくる頃、館長は瞳を開き小さくわたしに言った。

「良かった。まだ間に合う」

 そういう館長の、達磨顔に笑顔が浮かぶ。

「僕の弟はもう還らない。今となっては、あの星が本当に弟からのメッセージだったのか、知る手立てはない。だけど、あんたはまだ間に合う」

「でも、怖い。明穂にはわたしの姿が見えない。わたしの謝罪も伝わらないかもしれない」

「そうやって、あんたも逃げるのかい? 何度話しかけようとしても、逃げ続けた妹さんのように」

 館長の言葉に、わたしは何度も頭を振った。

「人間ってのは、なまじっか賢しいだけに、伝えたいことが伝わらない。だけど、本当に伝えたいことは、言葉に乗せて伝えられる。後悔して、逃げ出すよりも、つたえたいことを素直に伝えることの方が難しいかもしれない。だけど、そこで踏みとどまれば、僕と同じ轍を踏む」

 本当に伝えたいこと。ごめんなさい。言えるだろうか。分かってもらえるだろうか。許してもらえるだろうか。心を閉ざした明穂にそれは、伝わらないかもしれない。

「ほれ、とっとと家に帰れ。そして、やるべきことをしろ。妹さんが待ってるぞ」

 言い訳は止めよう。どんな理由をつけたって、解決方法は一つしかないのだ。このまま、明穂が死んで、父も継母も悲しむ姿を見たくない。ううん、わたし自身が悲しみたくない。一か八かでもいい。ちゃんと、明穂と向き合おう。

「わかりました」

 わたしは立ち上がって涙を拭った。

「あの、館長。あの星、なんていう名前なんですか?」

「あれか、あの星は僕以外の誰かが、あれを見つけたときに、名づけてもらおうと思っていたんだ」

「じゃあ、命名権はわたしにあるんですよね」

「そうだな。いい名前を考えてくれ」

「分かりました、今度明穂と来るときまでに、考えておきます」

 わたしがそう言うと、館長はにこにこと笑って頷いた。

 科学館を出たわたしは、一目散に家を目指した。脚力には自信がある。部活で鍛えた自信の脚だ。まだ間に合う。だけど、もうそれほど時間は残されていない。死にたい、死にたいと願う明穂は、今にも命を絶ってしまうかもしれない。わたしは、星のメッセージなんか残して欲しくない。

 ちゃんと、仲直りしたい。ちゃんと姉妹になりたい、家族になりたい。

 国道を越え、住宅街を駆け抜ける。道行く人が疾走するわたしを、何事かと振り返る。息苦しくて、心臓が破裂しそうだけど、諦めたくない。

 家にたどり着くと、やはり家の中はしんと静まり返っていた。継母さんが明穂のために作ったお昼ご飯には、まだラップがかけられたままだった。

「明穂っ」

 階下から声をかける。返事など戻ってくるはずない。だけど、わたしはゆっくりと階段を昇った。そして、静かにたたずむ扉の前に立った。息はどうにかおさまったけれど、心臓は相変わらず早鐘を叩く。

 こんこん。ドアをノックする。例えその扉が開かなくても、今日はわたしが開ける。わたしは、固い決意でドアノブに手を添えた。


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