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第五話 鏡の国

 わたしの部屋には、鏡があります。わたしの頭の先から、つま先まですっかり入ってしまうほど大きな、姿見です。部屋の調度品とは明らかに、浮いた存在のそれに、わたしの姿が映りこみます。

 十六年間成長を続けたわたしの姿。少し癖のある髪も、薄い唇も、細い手足も、どこか自信なさげな、雰囲気で鏡に映っています。

 鏡の中のわたしが笑いました。だけど、わたしは笑ってなんかいません。鏡の中のわたしが手を振りました。だけどわたしは手なんか振っていません。鏡の中のわたしが、無表情なわたしに怒ります。だけど、わたしは怒ってなんかいません。

 そこに映るわたしは、わたしであってわたしではないもの。わたしの姿を借りた別の誰かです。姿も、声も、仕草もわたしのそれと何ら変わりがありませんが、鏡の向こうのわたしは、明るくて元気で、人見知りをしない、ちょっと意地悪なヤツです。

 そんな、わたしとは正反対の誰かに、わたしは少しだけ恋をしていました。

 彼の名前は、アキラ。名前を名乗らないので、わたしが勝手にその名を与えました。わたしの名前から一文字拝借して名づけたのです。鏡に映るわたしは、勿論女の子ですが、アキラは男の子です。でも、正確に言うなら、男の子だったというべきでしょうか。

 過去形なのは、彼がおかまになったとか、そういう意味ではなく、彼はすでにこの世にはいない存在だからです。

 そう、アキラは幽霊なのです。わたしにとりついて、この姿見に映った時にだけ、現れるわたしの秘密の友達です。なぜ、鏡の中だけ現れるのか、彼の言葉を借りて言うなら、

「この鏡は、あの世とこの世をつないでる。君も俺もこの鏡の向こうには入れない。だけど、こうして、姿だけは見せることが出来るんだ。不思議だね」

 だそうです。要するに、鏡の向こうは、あの世だというのです。本当に不思議です。

 頭がおかしいんじゃないか? 幻覚でも見ているんじゃないか? そうかもしれません。海に浮かぶ島を小さな虫が、何万引きもたかって食い荒らし、ついには島を食べてしまったというニュースを見たことがあります。わたしの脳も同じように、悪い虫たちが食い荒らしているのかもしれません。

 だけど、静謐な夜を終え、小鳥のさえずりとともに、カーテンの隙間から朝日が昇るたび、現実はそこにあって、鏡をのぞくたび、アキラは変わらぬ笑顔で待っています。それは、どんなに不思議なことだとしても、わたしにとってだけは、頭がおかしいわけでも、幻覚を見ているわけでもなくて、現実に起こっていることなのです。

 他人に理解してもらおうとは思いません。アキラのことは、絶対に秘密だからです。もしも、お払いなんかされたら、たまったものじゃありません。

 アキラは悪い幽霊なんかじゃないです。ときどき意地悪なことは言いますが、わたしの傍にいつでもいてくれて、わたしのことを見守ってくれるのはアキラだけです。

 だから、アキラのことも、わたしのほのかな想いも、全部秘密なのです。


「起きて、朝だよ」

 部屋のドアが忙しなく叩かれ、騒々しい呼び声に、わたしは目をましました。誰でしょう、わたしのことを呼んでいるのは。ドア越しの声に聞き覚えはありません。そういえば昨日も、こんな風に誰かに起こされました。

 きっと、この声は継父のものです。継父の声にしては、やたら澄んだ綺麗な声をしています。

「今日こそは学校へ行こうよ」

 継父でないなら、母かもしれません。でも少し若いような気がします。

 誰が起きてやるもんか、とわたしは布団に潜り込みます。母にしろ継父にしろ、絶対にそのドアを開けることはないことを知っているからです。鍵のない部屋のドアは、ノブを右に回すだけで簡単に開けることが出来ます。そして、布団に立てこもる娘をたたき起こすことも出来るのです。なのに、絶対に部屋には入ってきません。

 その薄っぺらい木製の扉が、わたしと家族の境界線なのです。ちょうどお隣の国の三十八度線みたいなものです。

 やがて、わたしの無反応を受け取った声の主は、スリッパの音を立てて階下へと降りて行きました。声の主はひとしきり扉を叩くと、いつもそこで諦めるように階段を降りていきます。

 ほら、今度は階下から声が聞こえます。

「わたし、行って来るから。お母さんが用意してくれた昼ごはん、ちゃんとと食べてね」

 事務処理のように用件だけ言うとそそくさと、出かけて行きました。変な人です。引きこもりのわたしを、目覚まし時計のように毎日わたしに声をかけて、一体何がしたいのでしょう。そもそも、あの声は誰なのでしょう。扉を開けてその姿を確認する勇気はありません。もしも、扉の向こうにいるのが、母や継父なら、無理矢理学校へ連れて行かれるかもしれません。そんなの願い下げです。

 声の主が出かけると、間もなく家は静かになりました。ようやく立てこもり犯は、布団から這い出します。まずは着替えなくちゃ。昨日は私服のままで眠ってしまったから、服がしわくちゃです。

 クローゼットを開けます。どの服を着ればいいか迷うほど、クローゼットの中には服がありません。ファッションのよさがわたしには分からないのです。今日は、薄いピンク色のワンピースを着ることにしました。

 さて、着替えも終わると、わたしは暇をもてあましてしまいます。学校へ行っていれば、今頃一時限目の授業が始まっているでしょう。ですが、登校拒否をする不良なわたしには、授業がありません。先生もいません。

 教科書を開いて自主学習もいいのですが、寝起きの頭では知識なんて入ってきません。昨日本屋さんで買った雑誌を広げるのもいいですが、気が乗りませんし、まだ雑誌は袋に入ったままです。

 そうだ、まだアキラに挨拶をしていませんでした。放っておくと、アキラはいじけてしまうでしょう。そうなる前に、朝の挨拶をしておきましょう。

 わたしはワンピースの襟元を正すと、姿見の前に立ちました。見慣れたというより、見飽きたわたしの姿が映ります。

「おはよう、アキラ」

 努めて可愛らしく挨拶をします。すると、鏡面が歪んだように、ユラユラと揺れます。そこに映し出されたのは、やはりわたしの貧相な姿ですが、ただ、鏡のわたしは笑っています。

「おはよう。でも、ずいぶん遅いおはようだね、お姫様」

 アキラがわたしのことをお姫様と呼ぶときは、たいてい皮肉が含まれているのです。

「今日も学校行かないつもり? 友達心配してるんじゃない」

「なにそれ、わたしに友達いないの知ってるでしょ? 嫌味な人」

「つれないいいぐさだなあ、全く。お前は、それでいいの? みんな学校へ行って楽しく勉強したり遊んだりしてるんだよ。青春を部屋の中で費やすなんて、幽霊のおれから見れば勿体ないことこの上ないよ」

「それは、アキラの価値観。わたしは別に損してるなんて思ってないからいいの。もう、朝っぱらから小言はやめてよね」

 わたしは少しだけ頬を膨らませました。アキラが小言を言うのはこれが初めてではありません。アキラは意外と世話焼きなのです。でも、それもこれも、わたしを思ってのことだと分かっているから、そのお母さんみたいな小言が耳に痛いのです。

「心配してるんだ、君の家族と同じようにね」

「お母さんも継父さんも心配なんかしてないよ。伴侶の手前、わたしのことを心配しているフリをしてるだけ。そういう人たちなの」

「そんなことないさ。娘が夜な夜な徘徊して、危険なゲームに片足を突っ込んでるって知ったら、きっと泣くよ」

「どうかな、わたしが死ねば、あの人たち喜ぶんじゃない?」

 フンっと顔を背けて言ってやります。すると、鏡の向こうで小さくアキラの声がします。

「天邪鬼」と。


 母と継父は、不倫の果てに結婚しました。安っぽいメロドラマの世界だと思っていた出来事が、わたしの下にやってきたのです。

 母のほうが二つ歳上です。どんな馴れ初めなのか聞く気もしません。母に捨てられた父は、元々病弱だったこともあり、母が離婚して間もなく、病院のベッドでこの世を去りました。人のいい人です。母への恨み言なんて、これっぽっちも口にしませんでした。

 母は何度も父に謝りました。「ごめんなさい」の言葉に、どれほどの重みがあったのか、今となってはよく分かりません。ただ、それを赦す今際の父と、謝り続ける母の姿を、わたしは馬鹿だと思いました。

 父を捨ててまで母が恋した継父は、優しい人です。娘でもないわたしのこともきちんと面倒を見てくれます。夫婦共働きとけして裕福ではありませんが、文句も言いません。

ですが、わたしにとってこの人は、疫病神なのです。母を奪い、父を殺したひと。わたしが、学校へ行かなくなったのも、全部この人の所為です。


 夜の静寂が好きです。鳥のさえずりも、人のざわめきも聞こえない、深い夜は星の瞬きの音だけが聞こえてくるような気がします。星の見える夜は大好きです。そこに、小さくわたしの居場所があるような気がするからです。

 だから、毎日夜歩きをします。でも、夜歩きの理由はそれだけじゃありません。きちんと、赤い手袋をつけて……。

「君、こんな夜中に何をしてるんだ」

 そろそろ家に帰ろうと思っていた、丁度いいタイミングでお巡りさんが、深夜の街角を歩くわたしを見咎めて声をかけました。

「本屋さんへ行っていました」

 嘘ではありません。深夜まで営業している本屋さんに立ち寄り、雑誌を買いました。暇つぶし用のアイテムです。

「本屋さんって、君ねえ。こんなに夜遅くに?」

「はい。何か問題でもありますか? 悪いことは何もしてませんよ」

「問題大有りだよ。君が悪いことしなくても、悪いやつは沢山いるんだ。最近はどこもひどく物騒だ。女の子が一人でうろついていちゃ危ないよ。早く家へ帰りなさい」

 お巡りさんは眉間にシワを寄せて怒ります。とても真面目な人です。いまどき、こんな真面目なお巡りさんなんかいないんじゃないでしょうか。

「はい、分かりました」

 わたしは素直にそう言うと、お巡りさんと別れました。勿論、家への帰途です。でも、ちょっとくらい危ない方がいいのです。そのために、わたしは赤い手袋を見につけているのですから。

 一歩、二歩、三歩。しばらく歩くと、お巡りさんの姿は通りの角に消えてしまいました。ところが、その直後呻き声のような低い音が、夜風の隙間を縫うように、わたしの鼓膜を震わせました。

 引き返したのは、好奇心だけではありません。急いでお巡りさんの後を追うと、丁度曲がり角に、お巡りさんは倒れていました。気分が悪くなって倒れたわけではありません。足首、お腹、喉笛から真っ赤な血を流して死んでいるのです。そして、その死体の傍には、中学生の男の子と、わたしと同い年くらいの女の子が立っていました。

「やったね、これでぼくは、五ポイント、君は零ポイントに戻ったよ」

 男の子の言葉でわたしはぴんときました。この人たちは、スローターゲームのプレイヤーなんだと。二人は、角に身を潜めるわたしのことに気づいていません。わたしは、じっと無残な遺体を見つめていました。心臓が高鳴ります。恐怖ではなく、喜びです。

 二人は、遺体をそのままに、別のターゲットを捜すべくその場を後にしました。わたしは、なるべく二人に気づかれないように、後を追いかけました。

「やめなってば」

 カーブミラーに映るわたし、アキラがわたしを止めます。だけど、アキラは鏡の中の幽霊。わたしを止める手立てなんかありません。わたしは、アキラを無視して二人を追いかけます。やがて、二人が何事か話を始めました。

 男の子による、殺し方講座です。少し離れて歩くわたしには、二人の会話がはっきりと聞き取れません。

不意に、二人の足が止まりました。男の子がバッグから何かを落としたみたいです。わたしは素早く電柱の影に身を潜めました。そして、男の子が落し物を拾い上げる瞬間、わたしのめに飛び込んだのは、まさに人が殺されるその瞬間でした。

辺りの空気が張り詰めると同時に、耳が痛いほどの静寂が訪れます。足首から血を流しその場に尻餅をついた女の子は、青ざめた顔をして、男の子の方を見上げました。

男の子の人のよさそうな顔に、冷酷な影が差します。

「エンドロール。君はゲームオーバーだよ」

 裏切りと言うのでしょうか? 男の子は冷たい刃を女の子に向けました。その時になってようやくわたしは、気づきました。相手の女の子は、クラスメイトの、たしか名前は森島、森島小鳩さんです。

 勿論、根暗のわたしは森島さんと一度だって言葉を交わしたことはありません。ただ、普段明るい彼女が窓辺を見つめながら時折見せる、憂いと影が気になっていました。

そんな森島さんの喉下に、カッターナイフの刃が突き刺さりました。漫画のような擬音は全くしません。本当に音もなく、ただスムーズにその白い首筋に突きたてられたのです。

森島さんは呻き声一つ上げませんでした。ゆっくりと、崩れ落ちる様は、まるで糸の切れた操り人形のようです。

「うらやましい」わたしは電柱の影で息を殺して、事の顛末を見守りながら、小さく呟きました。男の子は、森島さんが死んだことを確認すると、何事もなかったかのように、その場を立ち去っていきました。

 そっと、電柱の影から、森島さんの亡骸に近付きます。彼女は目を大きく見開き、けして安らかな寝顔とはいえませんでした。わたしは膝を折ると、手のひらで優しく瞼を伏せてあげました。

 わたしも、こんな風に殺されたい。


 スローターゲームは人殺しをする遊びです。スローターとは、惨殺すると言う意味の英語で、その言葉の通り、無作為に人を殺しポイントを競い合うのです。

 無作為といっても、誰でも殺せば言い訳ではありません。開催されるたびに送られてくるEメールにしたがって、条件と合致する相手を殺すのです。例えば今回は、赤い手袋かマフラーをつけた人を殺せ、という指示でした。ついでに言っておくと、警察官を殺せば多めにポイントをもらうことが出来ます。

 馬鹿げた話、現実にありえないと、一蹴する人も多い中、このゲームに夢中になる人も多いのです。現実社会では得がたい興奮とスリル、そして刺激は、枯渇した現代人の心をくすぐるのではないか、と言うのはわたしの勝手な推論です。

 もっとも、現実味があまりないのは事実です。いくらゲームとはいえ、人を殺すのは犯罪だと、六法全書に書いてあります。ゲームは法律的に護られたものではないし、最近その法律が書き換えられたと言う話も聞きません。それどころか、スローターゲームの主催者が誰で、どのようなシステムで運営されているのか、わたしをはじめ、誰ひとり知らないのです。

 ですが、スローターゲームを知るのは案外たやすいものです。インターネットを開いて、スローターゲームのホームページに飛んで、参加登録するだけなのですから。

 だから、森島さんがスローターゲームに参加していたとしても、あまり不思議はありません。同じように、わたしがスローターゲームを知っていてもおかしくはないのです。でも、わたしと、彼女は目的が違います。

 わたしは、森島さんのように他の人を殺してしまおうとは、これっぽっちも思ってはいません。


「売女の娘」

 すごい言葉です。高校生の辞書にこんな擦れた言葉が載っているなんて、驚きです。あんまり成績の良くないわたしには、思いつきもしません。でも、この名前はわたしに与えられたものなのです。

 二つ名と言えば、アスリートや戦国時代のお侍さんにつけられる、かっこいい名前が定番なのですが、わたしの場合はほとんど渾名です。

 誰が一番最初に言い始めたのかは良く分かりません。高校に入って間もなく、気がつくと周りからそんな風に呼ばれていました。初めは「ばいた」の意味がよく分からなくて、いじめられているんだと言う実感も湧かなかったのですが、次第にわたしを謗る行為は、エスカレートしていきました。

 わたしが「売女の娘」と呼ばれるのには、わたしの母と継父に責任があります。きっと、不倫の果てに結婚した二人のことをかぎつけた誰かが言い始めたのでしょう。

 もともと、根暗で友達もいなかったわたしは、次第にクラスでの孤立感を高めていきました。体育の時間も一人だけ仲間はずれ、昼食の時間も一人だけ隅でお弁当をつつきます、授業中も登下校の間も独りぼっち。

 裏でどんな誹謗中傷が蔓延していたとしても、それはまだ我慢できます。寂しいのには慣れっこだからです。でも、少しずついじめは表面化していきました。教科書がなくなったり、お弁当が捨てられていたり、まるで小学生みたいです。呆れてものも言えません。

 ところが、根暗でヒネた性格なのに、少しずつそれが悲しく思えるようになって来たのです。慰めてくれる友達も、勇気付けてくれる親も、わたしにはいないのです。わたしはどんなに強がりを言っても、結局寂しがり屋だったということにようやく気づきました。

 そうして、わたしが唯一の話し相手であるアキラと引きこもりを決めたのは、夏休みの終わりと同時でした。

 それもこれもすべて、「両親」の皮を被ったあの人たちの所為だと恨んでも、結局のところそれに立ち向かえない心の弱いわたしの所為なんだと、分かっています。だから、よけいにいやなのです。

 でも、わたしには勇気がありません。多くの差別に立ち向かったヒーローのように、戦う牙も歯も持っていない、貧弱な十六歳なのです。

もしも、森島さんのように死ぬことが出来たら、どんなに幸せでしょう。ひ弱なわたしには、最高のエンドロールだと思うのです。


 このまま、アキラと話していると、言い争いになりそうでした。喧嘩くらいしたことはあります。でも、途中でわたしの方が折れることが多いのです。それと言うのも、鏡に映るアキラは、わたしの姿をしていて、わたしはわたしに向かって怒鳴っているようにしか見えず、途中で熱が冷めるのです。そのことをアキラも知ってか知らずか、言い争いなんて十分も続きません。

 だけど、今日は一歩も退かないのです。それは、きっとわたしを通して見た、森島さんの死に、アキラもショックを受けたということなのでしょう。アキラだって、今は幽霊ですが、以前はれっきとした人間で、わたしと同い年のその日まで、普通の男の子だったのです。

そのことを考えれば、死ぬためにスローターゲームに関わることを批難する、彼の気持ちはよく分かります。だけど、わたしは死にたい。その気持ちを、アキラがまったく分かってくれないことに、苛立ちと不満が、鎌首をもたげてきました。

独りぼっちのわたし。それでも、わたしが今日まで孤独を生きてこれたのは、アキラと言う、わたしだけのパートナーがいてくれたからだと、思っています。そんなアキラにだけは、わたしの思いを分かって欲しかったのです。たとえ、それがわがままだったとしても。

とにかく、わたしの心は、アキラと話しているうちに、だんだんと苛立ちに占領されてしまいました。

「わたしなんか、生きても価値がない、死んでも価値がない人間なの。アキラにはそれが分からないの。わたしが死んでも誰も喜ばないし、誰も悲しまない。だから、死ぬの、消えるの。どうしてそれが分からないの?」

 口をついてこぼれ出た言葉は、ひどく尖っていました。アキラは困ったように、わたしの方を見ます。

「どうしてそんな顔するの?」

「誰も、悲しまないことはないよ。お母さんも継父さんも絶対悲しむよ。お前が死んでもいいなんて、誰も思ってない。お前は一人で生きてきたわけじゃないだろう。友達がいなくても、いつも誰かが傍にいたから、生きてこれたんじゃないか。そんな人生に価値がないなんて、どうしてそんなこと言えるんだよ。孤独だから、死にたいなんて、絶対馬鹿げてる」

 そんなことははじめから解っています。でも、この冷たい現実で暖かなものを求めたわたしの手は、やはり冷たい手に弾かれてしまうのでしょうか? アキラの言い分が最もだとしても、お母さんも、あの継父もきっとわたしのことは悲しんでくれません。

 それは、わたしがこれまで抱えてきた悲しみが、何よりも証明しています。この悲しみがいえる日が来ない限り、わたしの人生にわたし自身が価値を見つけられないのです。

 例え他人から、どんなにわたしの価値を与えられても、わたしの心は曇ったままなのです。そのことをアキラに解って欲しかった。

 涙がぽろぽろと、頬を伝います。いじめられても、父が去っても、泣かなかったわたしの感情は、もう涙なんか流さないのだと思っていました。

何がそんなに悲しいのでしょう。孤独だから? アキラが分かってくれないから? 

「どうしてそんなに死にたがるの? あの子のように無残な死に方、悲しいだけじゃないか。寂しくたって、辛くたって、生きていればきっとお前にも自分自身の価値が見出せるはずだよ」

 アキラが慰めるように言います。寂しくても、辛くてもアキラの言うとおりかもしれません。

「アキラは、どんな時でもわたしの味方だよね」

 わたしが本当に死にたい理由。

「でも、違うんだよね。アキラはアキラだもん」

 本当は、いじめられたから死にたいわけでも、孤独だから死にたいわけでもないのです。

「きっと、わたしの気持ちなんか、アキラにはわからない」

 ただ、この冷たい現実から、暖かなアキラのいる世界へ行きたい。たった一人の友達。たった一人の、わたしが好きな人のいる場所へ。鏡の向こうは、死者の国。その扉を叩く方法はたった一つしかありません。

「アキラは、わたしが死んだら悲しんでくれる?」

 問いかける顔は、涙でくしゃくしゃになっています。鏡に映るアキラも涙でくしゃくしゃです。それは、わたしの涙でしょうか? それともアキラの涙なのでしょうか? わたしにもアキラにも分かりません。知ってはいけない気もします。

 わたしは、フラフラと立ち上がると、ベッド脇に置かれた棚の奥から、はさみを取り出しました。布の裁断に使う、大きな裁ちばさみです。アキラが鏡の向こうで、わたしの名を呼びました。

 待ってて、すぐわたしも鏡の国へ行く。君のところへ行くから……。

 

こんこん。ハサミを逆手に持ち、その切先を喉にあてがった時、不意に部屋の扉がノックされました。こんな時に、誰でしょう? 誰でもいいや、もう関係ない。無視してしまいましょう。

「出るんだ」

アキラが短く言いました。その声にハサミを持つ手が止まります。

「今、お前が向き合うべきなのは、姿見に映るアキラなんかじゃない。その扉の向こうにいる人だ。おれはお前が死んでも悲しんでやれない。おれはもう、この世にいないんだから。だけど、その扉の向こうにいる人はお前が死ねば、自分の所為だと言って悲しむ。それは、とても罪なことじゃないか?」

 どうして、アキラがそんなことを言うのか分かりません。アキラが悲しんでくれないのなら、わたしが死んで、悲しむ人なんて誰もいない筈です。

「おれが間違ってた。お前の前に現われるべきじゃなかった」

 突然、アキラは何を言い出すのでしょう?

「はじめてお前に出会ったとき、お前が暗闇の中で彷徨ってるように見えたんだ。そして、今のお前の姿は、この世を去った時のおれの姿と全く一緒だ。自分が死んでも、誰も悲しまない。そんな風に思って死んだ後、悲しむ家族の姿を見て欲しくない」

 心痛な面持ちで、アキラは言葉を搾り出しました。

「ちゃんと向き合え。せめて、一瞬だけでもいい。生きていたいと思ってくれ」

その言葉を最後に、鏡は小さく歪み、アキラの姿が消えてしまいました。わたしは慌てて、鏡の前に走りました。

「アキラ? ねえ、アキラってば」

 鏡に向かって呼びかけます。でも、返事は返ってきません。大きな姿見に映るのは、ハサミを握り締め、涙で顔を腫らしたわたしが映っているだけでした。

「アキラ、置いていかないで。わたしもそっちへ行くよ。だから待ってよ」

 震える指で鏡に触れました。ただ、冷たいガラスの感触が伝わってくるだけです。アキラが消えた。愕然としたわたしは、ハサミを落とし、その場に膝を突きました。

「わたしをひとりにしないでよ。アキラっ」

 絨毯にしみを作るほど涙の雫が、とめどなく溢れ出してきます。わたしが我がままを言いすぎたのでしょうか、それともわたしを見捨てた人たちと同じように、アキラはわたしのことを見捨てたのでしょうか。

 どうしてアキラが消えたのか、全くもって分かりません。でも、悲しいことには何の代わりもありませんでした。そして、どんなに泣いてもアキラは二度と現われないだろうことを、わたしは感じていました。

 こんこん、と再び扉がノックされました。そして、今度はゆっくりとドアノブが開き始めました。

 わたしは床に落としたハサミを拾って、それを握り締め、立ち上がりました。ドアを開け入ってくるのが、誰だって構わない。このハサミで、わたしを殺してもらうように、お願いしよう。


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