第四話 エンドロール
「待ちなさいっ」
怒号が聞こえる。わたしの耳には、自分の荒くなった息と、追っ手の声しか聞こえてこない。懐中電灯の明かりを避けて、深夜の街の中、どのくらい曲がり角を走っただろう。追っ手の息もかなり上がっている。
だけど足と体力には自信がある。身軽だけが取り柄みたいなものだ。それに、この街の地図は頭に叩き込んでいる。たとえ土地勘のある追っ手であっても、有事の際の逃走ルートはきちんと確認済みだ。
もっとも、ハンターと呼ばれる追っ手は、何があってもわたしを捕まえようとするだろう。応援を呼ばれる前に、なんとしても撒かなくてはならない。
わたしは、脳の回路を全開にして、一番近い逃走経路を探った。目の前の曲がり角。T字路を左折した直ぐ脇に、家と家の細い隙間がある。そこに逃げ込めば、ハンターは見過ごして行くだろう。少し賭けのような気もするが、自信はある。
プラン通り、隙間に体を斜めに滑り込ませると、ハンターの男は目の前を、走り去っていった。別に彼が間抜けなわけではない。その隙間は、人が入るにはあまりにも手狭で、わたしのような小柄な人間でないと入り込めない。今も、胸と背中が壁に圧迫されて、少し息苦しい。ただ、そういう先入観が、彼にこの隙間を見過ごさせたのだ。だから、彼は間抜けではない。
間抜けというのなら、わたしの方がよっぽど間抜けだ。
昔から、周りの人に詰めが甘いと言われているが、今日は痛いほどそれを痛感してしまった。そして、こともあろうか、血だらけのわたしの手を見咎めたハンターに追われる始末。
ツイてない。と嘆く暇もなく、猛ダッシュする。ハンターはわたしを捕まえること、正確にはわたしたちを捕まえることを使命としている。その右の腰には警棒を、その左の腰には拳銃を携えて。
そう、彼らの本当の名前は「警察官」。そして、これはゲームなんだ。
ゲームのルールは簡単だ。人を殺すと、一人につき一ポイント。ハンターを殺せば、一人につき五ポイント。ただしこれにはリスクが高くつく。そして、ハンターに捕らえられることなく、制限時間までに、最も多くのポイントを獲得したプレイヤーが勝者となる。つまり、このゲームは、「人殺しゲーム」なのだ。
ゲームは毎週一回開催される。プレイヤーは、インターネットを通じ、登録フォームからゲーム参加のエントリーを行う。すると、翌日ゲーム主催者から、詳細の書かれたメールが送信されてくる。
ゲームの会場は、全国。街という街すべてがゲームのフィールドだ。わたしたちプレイヤーは、メールの指示に従ってゲームをプレーする。
ただし、殺す相手は誰でも言い訳ではない。確かに街を徘徊する老人や子どもなどは、体力も弱く、足も遅いため、狙い安い相手だが、わたしたちプレイヤーが標的とする相手は、メールに細かく指示がされている。例えば今回は、
「この度は、スローターゲームへのエントリーありがとうございます。
プレイヤーの皆様には、以下に挙げますルールを遵守した上で、ゲームプレーをお楽しみください。
【ルール事項】
1 今回の攻撃対象は、赤いマフラーか手袋を身につけた、中学生以上、五十代以下の女性、但し日本人に限る。また中学生以上、五十代以下と確認する手段がない物に対しては、これを対象外とする。
2 攻撃成功時の得点については平常どおり、一般対象は一ポイント、ハンターは五ポイントプレイヤーは三ポイントの得点を、各々加算する。なお、一人の対象を二人以上のプレイヤーで攻撃した場合、得点は各人に同様に加算される。
3 使用武器は、ナイフまたはそれに類する刃物。一般的ナイフ以上の刃渡りのもの、もしくは飛び道具を使用した場合は、ポイントとして加算しない。また、催涙スプレーなど攻撃補助用具の使用、また防具の使用はこれを厳禁とする。
4 ゲーム開催時刻は、水曜日午後七時から翌日午前二時まで。この時間外でのゲームプレーは、得点として換算しない。
5 また、対象外のものを殺傷した場合、一人につき五ポイントの減点とする。また、上記ルールに違反や不正行為した場合は、そのものを失格とし、次回ゲームへの参加を禁止とする。
【免責事項】
本ゲームにおいて、プレイヤー間のトラブルにつきましては、主催者は責任を負いかねます。また、ハンターに捕獲された場合も、同主催者、他のプレイヤーの皆様その責任を負いません。この旨を了承した上で、ゲームへのご参加お願いいたします。
なお、ゲームの棄権は、当日午後六時までを受付といたします。本ルール事項は、今回のみの適用とし、次回以降には反映されないものします
それでは、皆様の健闘を祈ります。 主催者より」
と、記されていた。基本的なルールは、毎回それほど変わらないが、攻撃対象、つまり殺す相手は、毎回違う。また、使用する武器も様々だ。
このゲームの魅力は、他でもなく、テレビ画面やモニターに向かって、小さなコントローラーを動かして遊ぶバーチャルなテレビゲームとは違い、自分の身と命をかけたリアリティのゲームである点だ。
このゲームは奥が深い。ただ、武器を手に対象を攻撃すればいい訳ではない。反撃を受けるリスク、ハンターに追われるリスクが常に付きまとっているのだ。前者は、怪我をするかもしれないし、ハンターに通報されるかもしれない。運が悪ければ、逆襲され殺されてしまう可能性だって無きにしも非ずだ。後者は、もっと分が悪い。ハンターに捕まること、それを一般的には「逮捕」と呼ばれ、待っているのは鉄格子の窓だけなのだ。
それでも、このゲームをプレイする人は多い。それだけ、他のゲームには足りない魅力がふんだんに含まれているのだ。
話は、ゲームの説明に戻る。プレイヤーは主催者から言い渡された指示に従って、ゲームをプレーする。得点を稼ぎ、上位ランクイン、ひいては優勝を目指す。こうして、ゲームに参加し、一年間で最も多くの得点を稼いだものは、総合優勝者として、賞金が進呈される。
その賞金がどのくらいかは知らされていないが、ネットでは数百万とも数千万ともウワサされる。もっとも、わたしはそんな賞金なんかに興味はない。
わたしが、この「スローターゲーム」に参加する理由は、ただ、ゲームをしたいだけ、人を殺せるならそれでいい。
赤いマフラーをした女の子と、角でぶつかったのは本当に偶然だった。わたしと同い年くらいの、南高校の制服を着た彼女は、ぶちまけた鞄の中身を慌ててかき集めていた。勿論わたしも手伝った。手伝うついでに、ぶちまけられた中身から、学生手帳だけを素早くくすねた。
「それじゃあ、わたし急いでるんでっ」
と、彼女は足早にわたしの元を去っていく。いいカモを見つけた。わたしはつい口許が緩むのを必死で隠そうと、彼女の背中に向かってつい不必要なことを言ってしまった。
「気をつけて。そのマフラーは、とても目立つわ。最近このあたりは、とても物騒だから」
わたしの言葉に、彼女は怪訝な顔つきをする。彼女に妙な警戒心を与えてしまったようだ。それが、失敗の始まりだったのだろうか?
原川実夏。南高校二年生。部活動は帰宅部。学生手帳には、緊張した面持ちの証明写真とともに、小奇麗な文字でそう書き添えられていた。住所はこの近く。なのに、こんな遅くまで、辺りをうろついているのには何か理由があるのだろうか。いや、そんなことは関係ない。
むしろ、原川実夏という女の子は、格好のターゲットだ。大人しそうな外見しかり、流行遅れの赤いマフラーしかり、狙ってくださいと言わんばかりだと、わたしは思った。
わたしは学生手帳をスカートのポケットにしまいこむと、彼女のあとを追いかけた。追いかけながら、鞄からカッターナイフを取り出す。「スローターゲーム」のメールにしたがって、二日前に二駅向こうの街で購入しておいたものだ。何処の量販店にも大抵置いてある、黄色い柄のカッターナイフ。これで、原川実夏を殺めるのだ。
忍び足で彼女の背後を追いかける。一定の距離を開け、かつ相手に悟られないように歩く。潜める物陰はその都度チェックしながら、攻撃のチャンスを窺うのだ。
だけど、素人の尾行テクニックには、限界がある。どんなに注意していても、ふとした動作が気配となり、相手に尾行者の存在を気づかせる。わたしの場合は靴音だった。
「誰、出てきてよ」
振向きざま、原川実夏に言われて、わたしは咄嗟に電柱の影に隠れた。怯えた彼女の眼が、まるで物陰を透視するように、視線を投げかけてくる。逃げられたり、騒がれたりしたらもともこもない。赤いマフラーか、手袋をつけた女性、という今回の条件は意外に厳しい。ここで獲物を取り逃がすわけにはいかないと、わたしの心が急いた。
わたしはナイフを両手で構えると、電柱の影から躍り出た。一気に突進して彼女のお腹にナイフを抉りこむつもりだった。ところが、彼女は反射的に鞄を振り上げた。まさか、反撃されるとは思わなかった。
空を切るナイフの刃は、鞄を切り裂いた。一瞬逡巡した。逃げるべきか、このまま攻撃を続けるべきか。テレビゲームのような再考の時間はあまりない。一瞬が勝負だ。
わたしはもう一度ナイフを構えると、それを振り下ろす。今度は、彼女の手元を掠める。ほんの数センチほどのかすり傷だけど、彼女は痛みに顔を歪め、よろめいた。チャンスだ。次は、死の恐怖に怯えさせてやる。
三度目の攻撃。ずぶりと、肉を突き刺す感触がてのひらから全身に伝わる。やった、仕留めた。と、喜んだのもつかの間だった。
原川実夏の反撃も予想外だったけれど、それはもっと予想外だった。急いたわたしも良くないけれど、偶然とも思える不慮の事態にわたしはうろたえざるを得なかった。
わたしが突き刺したのは、見知らぬ女だった。グレーのコートを身にまとった、女のわたしから見ても美人だと思うほど綺麗な女の人。わたしのカッターナイフは、その人のわき腹に命中していた。しかも、こともあろうか彼女はわたしの腕を掴む。
「こんなことをしたらダメよ」
震える声で彼女が言った。説教のつもりだろうか。わたしはそんなに利口じゃないし、説教に耳を傾けるほど利口なら、今頃こんなゲームに参加していないだろう。なのに、彼女の凛とした視線と、力のこもった腕がわたしを怯えさせた。
わたしは無理矢理その手を振り解くと、踵を返してその場を逃げ出した。そして、彼女達の視界から逃げおおせたところで、巡回中だった警察官に見つかってしまったのだ。まだ若手の彼は、血だらけのわたしの手を見ると、顔色を変えた。
こうしてわたしは、こんな狭苦しい隙間に挟まらなければならなくなったのだ。ほんとうにツイてない。運がないのは生まれつきだけど、ここまで状況がよろしくないと、却って自分の運のなさが怖くなってしまう。
ハンターが隙間の前を通り過ぎて、どのくらい時間がたっただろう。出来事を反芻しながら、辺りが静まり返るのを待っていたわたしは、ようやくその息苦しい隙間から這い出した。狭い場所も暗がりも、息が詰まるばかりで、大嫌いな場所だった。
ようやく隙間から解放されて、わたしは深呼吸をする。静まり返った夜の空気が肺いっぱいに満たされる。
さて、どうしたものか。とりあえずゲームの場所を変えたほうがいい。すでに何らかの通報があったかもしれないし、先ほどのハンターが応援を呼んでいるかも知れない。リスクが増えたこの街でゲームを続けるのは得策とは言いがたい。早めにこの街を出よう。
わたしの思考回路が素早く決断を下した。ルールにのっとって言えば、わたしの得点はマイナス五ポイント。早くこの遅れを取り戻さなければならない。それに、カッターナイフを置いてきてしまった以上、武器も調達しなければならない。この血だらけの手も洗いたい。出鼻をくじかれる形になってしまったけれど、まだ挽回のチャンスはある。
わたしはそう決めると、辺りに注意を配りながら、ひとまず駅を目指すことにした。ところが、不意に背後に気配と足音を感じる。先ほどのハンターが戻って来たのだろうか? ひやりとして振り返ると、とおりの向こうから男の子が走ってくるのが見えた。
肩で息をしながら走ってくるその子の手は、わたしと同じように、血で真っ赤に染まっていた。それは、彼もこのゲームのプレイヤーであることの何よりの証拠だった。
空虚な現実。過去にも未来にも、それほど輝く標はなくて、わたしは教室の窓辺から見える曇天にただ、溜息をつく毎日を過ごしていた。
クラスメイト達は、いつもキラキラと笑っていて、生きていることが楽しくて仕方がない風で、それはわたしにとって羨望の世界だった。何故自分のこころは、こんなにも空ろで虚しいのか、自分自身にもよく分からなかった。
勉強は嫌いじゃない。成績も県下一の東高校では中の上くらい。だけど、勉強することの意味がよく分からない。知識を頭に詰め込んで賢くなることと、社会の中で生きていくことの術は、ほとんど関係のないことで、いい大学へ進学するのもそれほど有益なことには思えなかった。
人付き合いもそんなに苦手ではない。ちゃんと友達もいるし、冗談や悩み事を話すことも出来る。だけど、彼らはわたしが作り笑いをしていても、それに気づくことはない。一から十まで、わたしの意を汲めというわけではない。ただ、彼らとの付き合いが上辺だけなのかもしれないと、気づかされるたびに、何故だか悲しく思えてくる。
恋愛ごとは苦手だ。好きとか嫌いとか、他人を二極化してしまうことが怖い。勿論、友達や家族を嫌いなわけはない。だけど、こと恋愛になると、すこし違うような気がする。その境界がひどく曖昧で、かっこいいと思う男子のことを好きになるのがひどく怖いことのように思えた。
そうして、肯定も否定も出来る毎日がただ、川の流れのように淀みなく、それでいて何の起伏もなく過ぎていくことが、空虚な気がしていた。言い換えれば、退屈な毎日だったのかもしれない。
インターネットで「スローターゲーム」のサイトを見つけたのは、そんな空虚に辟易していた秋のことだった。
別に目的があってインターネットをしていたわけではない。夜長の暇を潰すため、ファッションや食べ物のサイトをぐるぐる回っていた。どんな経緯があったのかはよく分からない。それまでとは何の脈絡もないまま、わたしはそのページにたどり着いていたのだ。
「スローターゲーム」真っ黒な背景に、どろりとした質感の真っ赤な文字。気味の悪いはずのトップページにわたしは引き込まれるような気がした。入ってはいけないと、心の中では思っているのに、わたしの指はゆっくりと「エンター」の文字をクリックしていた。
それが「スローターゲーム」との出会いだった。当然のことだけど、いきなり人殺しのゲームだと言われても信じられなかった。ただ、そんなゲームが本当にあるのなら、なんて素敵なことだろうと思う。そう思い始めると、勉強も手につかなくなってきた。
「スローターゲーム」が実際に行われているのを知ったのは、それから間もなくのことだった。何気なく観ていたテレビのワイドショーで、連続殺人事件のことが取り上げられた。「青いネクタイの男性が連続して殺される事件」とレポーターが必死に解説する姿に、ぴんと来たのだ。その週のゲームルールは「青いネクタイをしたスーツの男性」が攻撃対象だった。
本当に、ゲームは行われている。そう知ったわたしはいても立ってもいられなくなり、直ぐに会員登録をした。そして、今夜始めてのゲーム参加となったのだ。
「ねえ、ちゃんと聞いてる?」
少し怒っているみたいだった。無理もない。当のわたしはぼんやりと、夜空を見上げていたのだから。
「ごめん、もう一回お願い」
「おっけー。もう一回いまの状況を確認しておくよ。今君は、五ポイントマイナス。ぼくは仕損じたから、まだ零ポイント。全国のプレイヤーはすでにいくつかポイントを稼いでいるはずだから、ぼくたちが逆転する方法は一つしかない」
「逆転する方法? そんなものあるの?」
「ハンターを倒すんだ。そうすれば、ぼくは五ポイント、君はマイナス分を取り戻すことが出来る」
そう言うと、彼は笑って見せた。
彼の名前はJL。もちろんゲーム上での名前で、お互い本名は秘密だ。わたしより三つ年下の中学生。人のよさそうな外見と、笑顔の似合うその顔が、スローターゲームとの違和感をかもし出しているような子だった。
隙間から這い出たわたしと出会った彼は、わたしに協力を依頼してきた。彼は、今日最初の獲物を仕損じた上に、ハンターに追われたらしいのだ。このままでは、お互いゲームに負けてしまう。もちろんマイナス点でも、零点でも、なんのペナルティもないのだが、ゲームをプレイしている以上、少しでもランキング上位に食い込みたい。
「でも、ハンターを殺すなんて、リスク高すぎじゃないかしら」
「だから、タッグを組むんじゃないか。二人で同時に、ハンターを襲えば、一気に五点プラスされるんだよ。まだ、ゲーム終了までには時間がある。がんばろう」
と、JLは簡単に言った。ハンターはあくまで警察官だ。ゲームのことなんか知りもしない。ただ彼らは法の番人としての正義を遂行するだけ。それは、却って厄介なことだ。こちらも、本気でかからなければいけない。
「そうだ、わたし武器がないんだけど」
ふと思い出して、わたしが言うとJLは肩に下げた鞄を漁り、中からカッターナイフを取り出した。わたしが使っていたやつと同じ銘柄のカッターナイフだ。
「予備は持ち歩かないとダメだよ。はい、貸してあげるね」
わたしはJLからナイフを受け取りながら、思わず感心してしまった。JLがゲームに参加するのはこれが初めてではないそうだ。これまでに五度ゲームに参加している。成績はそれほど良くはないけれど、いつもランキングに名前が載っているらしい。
わたしより年下の、それも中学生が、このゲームに参加する理由は、初心者のわたしには分かりかねた。それに、そんなことに興味はない。いずれにせよ、協力者が現われてくれたことは心強い。
「じゃあ、準備おっけーだね。ハンターを探しに行こう」
JLが夜道の先を指差す。わたしたちは、ひとまず手ごろなハンターを探すことにし、深夜の街角を練り歩くことにした。
「君、こんな夜中に何をしてるんだ」
曲がり角の向こうからハンターの声がした。その声はわたしたちにかけられたものではない。だけどあの声は、わたしを追いかけてきた若い警察官のものに違いなかった。まだ、わたしのことを探してパトロールを続けているのだろう。これこそ、勿怪の幸いというやつだ。
わたしたちは、曲がり角の塀にぴったりと背中をくっ付けて、様子を窺った。
「本屋さんへ行っていました」
蚊の鳴くようなか細い女の子の声が聞こえてくる。ハンターはその子に声をかけたのだろう、この曲がり角からは死角になって、女の子の姿は見えない。
「本屋さんって、君ねえ。こんなに夜遅くに?」
「はい。何か問題でもありますか? 悪いことは何もしてませんよ」
「問題大有りだよ。君が悪いことしなくても、悪いやつは沢山いるんだ。最近はどこもひどく物騒だ。女の子が一人でうろついていちゃ危ないよ。早く家へ帰りなさい」
ハンターとして、警察官として模範的な指示だと思った。「はい、分かりました」という女の子の声がして、足音が一つ遠ざかっていく。ハンターはしばらくその後姿を見送っていたが、小さく溜息をつくと、踵を返してこちらへ向かってゆっくりと歩いてくる。
「チャンスだ。あいつが、この曲がり角に差し掛かった瞬間を狙うんだ。ぼくはアキレス腱を切る。君はやつのお腹に刺すんだ。準備はいい?」
JLが両手にナイフを持って言う。わたしは唾を飲み込むと、心臓の高鳴りを抑えて頷いた。カッターナイフを持つ手に力がこもる。
一歩一歩、ハンターはこちらに歩みを進めてきた。その塀の影にわたしたちが待ち構えているとも知らずに。
「今だっ」
ハンターが曲がり角に差し掛かった瞬間、JLの鋭い掛け声と共に、わたしたちは飛び出した。JLは素早く身をかがめて、転がるようにハンターの足下に間合いを詰めると、紺のスラックスから除いた、白い靴下を切り裂いた。
「うわあっ」と、悲鳴のような叫び声と共に、アキレス腱を切り裂かれたハンターは、バランスを崩して倒れこむ。わたしはすかさずナイフを繰り出した。
狙うはお腹。目いっぱい刃を出したカッターナイフなら、その制服を貫き、皮膚を貫き、筋肉を貫き、内臓に達するだろう。
肉を裂く感触。さっき味わったのと同じ感触。暖かな血の流れが、腕を伝って落ちていく。ハンターは両足と腹から血を流してその場に倒れた。だけど、まだ息がある。うめき声と共に半開きの口から、ひゅうひゅうと息が漏れ出している。
「早く、止めを刺すんだっ」
JLの声は怒号にも似ていた。わたしは血油でぬめるナイフを、ハンターの腹から引き抜いた。だけど、何処を刺せば留めになる?
わたしは迷った。一介の学生が、人間の弱点なんて知っているわけがない。
「貸してっ」
わたしの迷いを察したのか、JLがわたしの手からナイフを奪うと、それを喉元に突き刺した。JLの要領はよかった。手早く頚動脈に刃をつきたてると、これまた手早く離れる。その瞬間、首から血しぶきが噴出した。
それは、一人の人間の末路としては、あまりにあっけなく、そしてあまりにも無残だった。だけど、スプラッター映画で観るような映像が、目の前で繰り広げられることに、わたしは感慨さえ覚えていた。
もう、眼前で地面に伏すのは、ハンターではなく、血まみれの遺体だった。
「やったね、これでぼくは、五ポイント、君は零ポイントに戻ったよ」
JLが笑って言う。こんな凄惨な場で笑えるその神経は驚きだったが、頷くわたしも少しだけ口許が綻んでいた。
「人間にはいくつか弱点があるんだ。たとえば血管や靭帯は狙いやすいポイントなんだ」
JLは道すがら、わたしにゲームの攻略法を伝授してくれた。初心者なわたしは、彼の独自ともいえる戦法に舌を巻くしかなかった。
ハンターを殺した後、わたしたちは次なるターゲットを探すことにした。まだ、ゲーム終了の深夜二時までは時間がたっぷり残っている。今からでも、得点を稼げば、ランキング上位に食い込むことも難しくない、というJLの提案に乗ることにしたのだ。
JLは終始上機嫌だった。ゲームを始めてからハンターを倒したのはこれが初めてだったそうだ。確かにリスクの大きいハンター狩りを好む人は少ない。かく言うわたしも、嬉々としていた。
「ドラマとかで、例えばナイフ一突きで相手を殺したりする場面があるけれど、あれはほとんど嘘だ。的確に急所である肝臓に命中させるのは難しいし、心臓や肺は肝臓と同じで胸郭の骨で護られているからね。君が殺したという、そのコートの人は、きっと運悪く急所に命中したんだ」
そう言えば、原川実夏を救った女は、わたしの一撃で斃れた。
「惜しむらくは、その女がターゲット外だったことかな。もしも、今回のルールがコートを着た女だったなら、君は相当運がよかったってことになるね」
「まあ、運がないのは昔っからだから」
「そうなの? でも、ぼくと出遭えたことは運がよかったと思うよ。ぼくも君には感謝してる。それで、続きなんだけど、人間には他にも急所があるんだ。例えば脳。人間のスーパーコンピューターである脳は、硬い頭蓋骨で護られているけれど、意外とショックに弱い。今回はルールがナイフ使用だったから無理だったけど、鈍器のようなもので数回殴打すれば、それだけで脳挫傷させることもできるんだ」
「じゃあ、今回みたいにナイフで戦う時にはどうするの?」
「そう、そこで血管と靭帯を狙う。狙う血管は太い大動脈だ。比較的皮膚に近いのは、二の腕の裏側を通る腕動脈と、腿の内側を通る大腿動脈。但し、この二つは場所からして切りにくい。そこでもう一つの皮膚に近い動脈、頚動脈を狙う」
JLはそう言うと、手刀で喉元を切るマネをした。
「だけど、ぼくのように背が低いと、大人の頚動脈は狙いにくい。だから、靭帯の切断を併せたコンボを狙うんだ。靭帯は、筋肉と筋肉、筋肉と骨をつなぐサスペンダーみたいなもので、特にアキレス腱は露出も大きいから、切れ味のいい刃物でざっくりと切りつければ、相手は立っていることも出来なくなる。後は、痛みと恐怖にもがくターゲットを、落ち着いて殺せばいい」
「ずごいわね、そんなに知識がスラスラと出てくるなんて」
わたしが素直に感嘆を声にすると、JLは少し照れたように後頭部をかきながら。
「別にすごくなんかないよ。だって、今の知識なら本屋さんで売ってる家庭の医学書みたいなものからでも身につくし、それに、ぼく他に趣味なんかないからね。それより、大切なのは、決断力と判断力だと思うよ」
「決断?」
「うん、躊躇したり、的確さを失えば、ハンターに捕まるかもしれないし、逆襲されるかもしれない。迷った時は引き際だとおもって諦めるくらいの、決断力がないと、このゲームはやっていけないと思う。あ、でも自信なくさないでね。君はまだ初心者だけど、スジはいいと思うから」
JLはニコニコと微笑みながらわたしに言った。スジがいいだなんて、年下の男の子に言われるような科白ではなかったけれど、なんだか嬉しさが胸のそこから湧き上がってくるような気がした。
上手くハンターを倒せたから? 人を殺すのが楽しいから? ゲームが面白いから?
本当は何故なのか分からない。そこには、わたしの嫌った現実も、わたしをストレス漬けにする人間もなく、スリルと興奮が渦巻いていた。それは、満たされない空虚なわたしの心が、年下の先輩からのエールで、何処までも見たれていくような、そんな気がしていたから、かもしれない。
そうして、油断が生まれる。
「さてと、次のターゲットだけど。そろそろ夜も更けて人も少なくなってきたから、繁華へ行こう。えっと……」
JLは肩下げ鞄から、ハンディタイプの地図帳を広げる。その拍子に、開いた鞄の口から、ポロリとカッターナイフがこぼれ落ちた。JLが予備に持っているナイフ。まだ未使用の新しいナイフの、黄色い柄がカタカタと音を立てて、アスファルトの上に落ちる。
「ごめん、ぼくそそっかしいから、ちょっと地図を持ってて」
JLはそう言うと、地図帳をわたしに手渡して、身をかがめた。受け取った地図帳には、赤や青のマーカーで、様々な書き込みがなされている。
まるで、使い込まれた教科書のようだと感心していると、ふわりと視界がぐらついた。何が起こったのかわからなかった。眩暈がしたわけでもないし、気分も悪くはない。なのに、ぐらついた視界のまま、回転するようにわたしは転んだ。原川実夏とぶつかった時のように、地面に強くお尻をぶつける。
だけど、臀部に走る痛みよりももっと強烈で、もっと激しい痛みが、全身を駆け巡る。
「ごめんね。君に恨みはないけれど、これってゲームだから」
JLはゆっくりと立ち上がり、小さく言った。その声は、まるで常闇の深淵から這い出てきた、悪魔のような響きだった。
「何を言っているの?」
「なんだ、分かんないの?」
JLがわたしの目を見た。歪む口許、鈍色に光る瞳、血に濡れたカッターナイフ。その時になって、ようやくこの激痛の発信源が、自分のかかとであることに気づいた。
「油断大敵って言葉、知ってるよね。迂闊に他人を信じるなんて、タブーだよ。でも、これでぼくのポイントは八ポイントになる。ランキング一位も夢じゃなくなったんだ。君には感謝してるよ」
JLは淀みなく、抑揚もなく、ただ平坦に言う。わたしの頭には、痛みのサインとクエスチョンマークが大渋滞を起こしていた。
「あれ、君はルールのメールを読んでなかったの? 一般対象を殺せば一点、ハンターを殺せば五点。プレイヤーを殺せば三点加算されるんだ」
「騙したの?」
「そうだよ。大人しそうな顔して近付くと、初心者の人は大抵、ぼくを味方だと信用してくれる。バカだよね、これはゲームなんだもん。勝ちか負けしかないゲームなんだよ」
「そんなことして、反則じゃないっ」
「やっぱり、ルール規定読んでないの? メールに書いてあることに違反したら、失格。逆に言えば、メールに書いてないことは、それに反しない限り不正行為じゃないんだ」
メールには、確かに騙まし討ちは反則だと、書かれていなかった。だけど釈然としない。それ以上に、月の光に照らされた青白いJLの顔が恐ろしい。
「エンドロール。君はゲームオーバーだよ」
逆手に持ったJLのナイフが、真横に薙ぐ。必死に避けようとするのに、わたしの頭は混乱したままで、その切先が喉元、頚動脈を貫くまで、わたしは身動き一つ出来なかった。
わたしは空虚なこの心を満たしたかった。だから、このゲームに参加した。だけど、生きている実感を最も感じたその瞬間は、痛みと苦しみの中にある。
「こんなことしたらダメよ」
コートの女が言った。その一文字一文字が、血飛沫を上げるわたしの脳裡に焦げ付いて離れない。やがて、最期の一瞬が訪れる、その時まで。
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